Bruckner, Anton Josef

アントン・ブルックナー

ブルックナー
Bruckner, Anton Josef
1824年09月09日~1896年10月11日
[オーストリア] [作曲家]

[アントン・ブルックナー 人物情報]

オーストリアの作曲家。 小学校教員兼オルガン奏者を父として、1824年9月9日リンツ郊外のアンスフェルデンで生まれた。13歳から聖フローリアン少年聖歌隊に入った。 1841年に小学校教員となり、独学で作曲を学んだ。1851年聖アウグスチヌスの修道院のオルガン奏者となった。 1855年リンツ大聖堂の正オルガン奏者に就任。 1863年ごろからはリヒャルト・ヴァーグナーの音楽を研究し、「ミサ曲ニ短調」を書いた。1868年ウィーン音楽院教授に就任。 ブルックナーの音楽は当初まったく理解されず1884年ニキシュの第7・8交響曲の初演の成功で、名声が急激に高まった。 1896年10月11日死去。

Wikipediaの人物情報

ヨーゼフ・アントン・ブルックナーJosef Anton Bruckner, 1824年9月4日 - 1896年10月11日) は、オーストリアの作曲家。

人物・経歴

オルガニストを父としてオーストリアのアンスフェルデンで生まれる。ブルックナーは当時最も腕の立つオルガン奏者だった。ジーモン・ゼヒターに和声法と対位法を、オットー・キッツラーに管弦楽法を学んだ。1863年ごろからリヒャルト・ワーグナーに傾倒、研究するようになる。さらに1866年、ウィーンで聴いたルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番 (ベートーヴェン)に強い影響を受ける。

1868年には、ゼヒターの後任としてウィーン国立音楽大学の教授に就任。この時以来、彼は大部分のエネルギーを交響曲を書くことに集中させた。初期の作品には交響曲第00番(1863年)、交響曲第0番(1869年)、交響曲第1番 (ブルックナー)(1866年)、交響曲第2番 (ブルックナー)(1872年)がある。

そのなかブルックナーは1873年にリヒャルト・ワーグナーと会見する機会を得た。この際に交響曲第3番 (ブルックナー)を献呈しワーグナーの好意を得る。しかしこの行動は反ワーグナー派の批評家エドゥアルト・ハンスリックから敵対視され、執拗な批判を浴びせられ続けることになる。この時期には交響曲第4番 (ブルックナー)(1874年)、交響曲第5番 (ブルックナー)(1876年)を作曲する。

その後1876年に第1回バイロイト音楽祭に出席、ニーベルングの指環の初演を聴く。このときに今までの自らの作品を大幅に改訂することを決意し、いわゆる第1次改訂の波が起こる。このときに交響曲第1〜5番全てが大幅な改訂を受ける。しかし1877年の交響曲第3番の初演は大失敗し、ブルックナーは激しく落胆する。またその頃、若きグスタフ・マーラーがウィーン大学でブルックナーの聴講に訪れている。

1880年頃になるとウィーンでのブルックナーの地位も安定してくる。多くの教授職、さまざまな協会の名誉会員の仕事により年間2000グルデン(当時の平均的な4人家族の収入が700グルデン)の収入を得るようになる。この頃の代表作は交響曲第6番 (ブルックナー)(1881年)、交響曲第7番 (ブルックナー)(1883年)、テ・デウム (ブルックナー)(1881年)、弦楽五重奏曲 (ブルックナー)(1879年)がある。なかでも交響曲第7番とテ・デウムはブルックナーに莫大な成功と名声を与え一気にブルックナーの名を知らしめることになった。

1884年からは交響曲第8番 (ブルックナー)の作曲に従事する。1887年に一旦完成し、「芸術上の父」と尊敬していた指揮者ヘルマン・レーヴィに見せるが、彼からは否定的な返事が返ってくる。弟子達もこの作品を理解できず、ブルックナーは激しく落胆し再び自らの作品を改訂する。いわゆる第2次改訂の波である。これにより交響曲第1、2、3、4、8番が改訂される。結局1892年の第8番の初演は大成功する。

晩年のブルックナーは多くの尊敬を得ていたが、死の病に冒されていた。この時期には交響曲第9番 (ブルックナー)(未完成)やヘルゴラント (ブルックナー)(1893年)、詩篇150篇(1892年)が作曲されている。ブルックナーは1896年10月11日、ウィーンで72年の生涯を閉じた。生涯を通じて非常に信心深いローマ・カトリック教徒であった。また、晩年に至るまで多くの若い女性に求婚したが、結婚することはなかった。

1950年に発行された1000オーストリア・シリング紙幣に肖像が使用されていた。

作品

作品一覧

ブルックナーの作品はWAB (Werkverzeichnis Anton Bruckner) 番号によって参照されることがある。また、作品カタログはレナート・グラスベルガーによって編集されている。

主要作品

交響曲と合唱曲が、特に精力を注いだ分野であることは、論を俟たない。それ以外では、弦楽五重奏曲 (ブルックナー)が傑作として知られる。さらにそれ以外のジャンルの曲もいくつかある。

交響曲

  • 交響曲ヘ短調 (ブルックナー)
  • 交響曲第1番 (ブルックナー)
  • 交響曲第0番 (ブルックナー)
  • 交響曲第2番 (ブルックナー)
  • 交響曲第3番 (ブルックナー)(『ワーグナー交響曲』)
  • 交響曲第4番 (ブルックナー)『ロマンティック』(Romantische)
  • 交響曲第5番 (ブルックナー)
  • 交響曲第6番 (ブルックナー)
  • 交響曲第7番 (ブルックナー)
  • 交響曲第8番 (ブルックナー)
  • 交響曲第9番 (ブルックナー)

ヘ短調交響曲はブルックナーが第1番から始まる通し番号をあたえなかった曲である。交響曲第0番は後年に破棄するにしのびないと感じた作曲者が故意に「0番」としたものであって、実際は1番の作曲後に手がけられた作品である。なお交響曲第9番は未完成作品である。

詳細は、各楽曲の記事に譲る。

以上の他に、1869年に着手したものの完成をみなかった交響曲変ロ長調の存在が確認されている。スケッチの断片のみ残されており、こちらのサイトhttp://www.abruckner.com/discography/symphonyinbminorsk/で楽譜と音源が紹介されている。

合唱曲

ブルックナーの残した宗教合唱曲には、3つのミサ曲ミサ曲第1番 (ブルックナー)、ミサ曲第2番 (ブルックナー)、ミサ曲第3番 (ブルックナー)や『テ・デウム (ブルックナー)』などの大規模なものも含まれ、とりわけ『テ・デウム』は古今の宗教音楽作品の中でも、傑作の1つとして高い評価を得ている。モテットには『アヴェ・マリア』、『これこそ大祭司なり』、『この場所は神が作り給いぬ』、『エサイの枝は芽を出し』、『王の御旗は翻る』などが残されているがドイツのプロやアマチュア合唱団などでは頻繁に歌われ、ポザウネン・コアへの編曲まで教会で盛んに演奏されている。他の宗教合唱曲は、最晩年の『詩篇150篇』のような傑作もある。

またブルックナーは若い頃から、男声カルテットを組織するほどの男声合唱好きであり、晩年までに40曲ほどの男声重唱および合唱曲を残した。男声合唱と金管楽器のための『ゲルマン人の行進』は、彼にとっての最初の出版作品であり、また、最後の完成作品となったヘルゴラント (ブルックナー)は、男声合唱とオーケストラのための作品である。

室内楽

室内楽の分野では、弦楽五重奏曲 (ブルックナー)ヘ長調が傑作として知られる。1906年には、習作曲としての『弦楽四重奏曲ハ短調』が発見された。

このほか、トロンボーンアンサンブルのために『エクアール』と題する短い作品が残されており、この楽器のレパートリーとして重宝されている。

管弦楽曲・吹奏楽曲

詳細はブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲にて記すが、交響曲以外の管弦楽曲として『ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲#序曲ト短調』『ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲#行進曲・管弦楽小品』『ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲#行進曲・管弦楽小品』があり、吹奏楽曲として『ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲#行進曲変ホ長調』がある。このほか、『ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲#アポロ行進曲』がブルックナーの作品として扱われたこともあった(現在では、他人の作品が取り違えられたものと断定されている)。

その他

以上のほか、オルガン独奏曲、ピアノ独奏曲などが残されている。オペラ作品が残されていないのが、この作曲家の特質の一つを反映している。

音楽の特徴・傾向

音楽史の中の位置づけ

西洋音楽史の中では、一般的にはロマン派音楽に位置づけられる。作曲技法的にはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、フランツ・シューベルトの影響を、管弦楽法、和声法ではリヒャルト・ワーグナーの影響を受けていると言われる。後の作曲家としては、グスタフ・マーラー、フランツ・シュミットなどに影響を与えているほか、ハンス・ロットの才能をいち早く見いだした。

一方、後期ロマン派の中での特異性を指摘する評論家も少なくない。一つは、オペラや文学との接点の少なさであり、これは彼の作品にオペラが残されてないことや、ワーグナーの楽劇「ワルキューレ (楽劇)」に対する無理解にもとづく醒めた感想(「何故ブリュンヒルデが焼き殺されたのか?」との感想を述べたと伝えられている。実際の内容は、身を守るために周囲を炎で覆わせるのであり、焼き殺される訳ではない。)から推察されるものである。もう一つは、作曲書法の随所でオルガン奏者の発想を感じさせることである。

交響曲の歴史の中では、長大な演奏時間を要する作品を作り続けた点で、しばしばグスタフ・マーラーと比較される。

また、同時代の作曲家の中では、ヨハネス・ブラームスと対立する存在としばしば捉えられている。

ブルックナーの作品、特に交響曲については、同じ曲名でありながら、異なる版・稿を称する複数の譜面が存在する。これらを「版問題」と総称することがある。

詳細はブルックナーの版問題にて説明、また必要に応じて各楽曲の記事内で説明してあるが、以下にその概略を説明する。

背景

一つめの背景は、作曲者による改訂である。ブルックナーは作品を完成させてからもさまざまな理由から手を入れることが多かった。ここには、小規模な加筆もあれば、大掛かりな変更もある。

二つ目の背景は、弟子の関与である。ブルックナーの楽曲が出版されるに際し、弟子たちが手を加えることが多かったといわれている。その規模は楽曲によって異なり、細かい校訂レベルのものから、大がかりなものまである。のちに校訂・出版される「原典版」において、弟子たちの関与部分が明らかにされ、排除されてきた。

三つ目の背景は、国際ブルックナー協会による原典版校訂作業を、当初ロベルト・ハースが行っていたが、戦後レオポルト・ノヴァークに変わったことである。ノヴァークはハースの校訂態度を一部批判し、校訂をすべてやり直した。このため「ハース版」「ノヴァーク版」2種類の原典版が存在することとなった。

初版群

はじめて出版された譜面を「初版」と総称している。総じて弟子(フランツ・シャルクとフェルディナント・レーヴェなど)の校訂または改訂が加わっており、原典版が出版されるとともに駆逐されてきた。近年、これまでの行きすぎた駆逐に対する見直しや再評価の動きもある。「改訂版」とも称される。曲によっては「改竄版」とも称される。特にブルックナーの没後に出版された交響曲第5番・第9番の改訂は極端である。

第1次全集版(ハース版など)

前記の初版群に含まれる弟子たちの関与を除去すべく、国際ブルックナー協会は、ロベルト・ハースなどにより、譜面を校訂、「原典版」として出版し続け、一定の成果をあげた。これらを「第1次全集版」または「ハース版」と称している。

ただしこのプロジェクトは、ナチス・ドイツとの協力関係から、第2次世界大戦後、ハースが国際ブルックナー協会を追放される結果となった。この時点で、校訂譜が残されてない曲も多数残った。

ハースの仕事はその後、後述のノヴァークが引き継ぐことになるが、その中でノヴァークは、ハースの校訂態度の一部を主観的なものであると批判した。

第2次全集版(ノヴァーク版など)

第二次世界大戦後、国際ブルックナー協会はレオポルト・ノヴァークに校訂をさせた。ブルックナーの創作形態をすべて出版することを目指しているとされる。ハースが既に校訂した曲もすべて校訂をやりなおし、あらためて出版した。これらを「第2次全集版」または「ノヴァーク版」と称している。交響曲第3番・第4番・第8番については早くから、改訂前後の譜面が別々に校訂・出版されており(第3番は3種)、その部分においてはハース版の問題点は解消されている(これらの区別のために「第1稿」「第2稿」あるいは「〜年稿」などの呼び方がなされる)。

ノヴァークに少し遅れてハンス・フーベルト・シェーンツェラー()が第5番と第9番の校訂版をエルンスト・オイレンブルクから出したが、全集にはなっていない。

ノーヴァクの作業は1990年以降は次の世代にあたるキャラガン(William Carragan)、コールズ()、コーストヴェット(Benjamin Korstvedt)などに引き継がれ、現在に至るまで、校訂や異稿の出版は常に進行中であるばかりではなく、第九交響曲のフィナーレの完成版にも延々と批判版が刊行されており、ブルックナーの稿の複雑さは留まるところを知らない。

国際ブルックナー協会による譜面はウィーンのMusikwissenschaftlichen Verlagから出版されている。

ブルックナーの交響曲の演奏史、および著名な演奏者

ブルックナーの交響曲は欧米、特にドイツ圏では大変人気が高いので、若い指揮者が積極的に演奏会・録音に取り上げることが多い。一方で、古い録音による過去の名指揮者による演奏も繰り返しCDとして発売され、広く聴かれている。日本でも、ブルックナー信奉者が多く、演奏機会には比較的めぐまれている。ウィーンと並んでミュンヘンが一種の本場的状況を呈しているが、オーストリアとバイエルン州はドイツ圏でも最も近しい気風・風土を持ち、この両都市の中間に生まれたブルックナーの「南ドイツ的」と称される特質を反映、東欧の広大な非ドイツ人地域にも長年君臨してきた国際都市であり、必ずしもドイツ的という言葉で表しきれないウィーンとは異なった質朴なサウンドを聴かせる。

古くはヴィルヘルム・フルトヴェングラーやハンス・クナッパーツブッシュなどが録音しており、これらのCDは今なお広く聴かれている。とりわけ原典版出版後も改訂版を使用し続けたクナッパーツブッシュの録音は、第一級の指揮者・オーケストラによる改訂版の演奏記録としても貴重なものである。

ロベルト・ハースによる旧全集の原典版が出版された後、「原典版」の第4番と第5番が、1936年にカール・ベームによって世界初録音された。

ブルックナーの交響曲の最初の「全集」録音は、1953年、フォルクマール・アンドレーエ指揮、ウィーン交響楽団によるものであった。ステレオ録音による全集は国際ブルックナー協会の会長も務めたオイゲン・ヨッフムが最初である(演奏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団及びバイエルン放送交響楽団。ヨッフムはのちにシュターツカペレ・ドレスデンとも別の全集録音を行っている)。ヘルベルト・フォン・カラヤンやゲオルク・ショルティ、ベルナルド・ハイティンクなどの指揮者も全集を完成させている。ただし、ヨッフムを始めとして第0番を録音していない指揮者も多いため注意が必要である。また、初期の習作は収録している全集のほうが少ない。

近年の指揮者の中では、ゲオルク・ティントナー、カール・ベーム、オイゲン・ヨッフム、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ギュンター・ヴァント、セルジュ・チェリビダッケ、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、ベルナルド・ハイティンク、ヘルベルト・ブロムシュテット、エリアフ・インバル、ニコラウス・アーノンクール、カルロ・マリア・ジュリーニ、ダニエル・バレンボイム、クリスティアン・ティーレマン、フランツ・ウェルザー=メスト、朝比奈隆などによる録音・演奏が、広く評価を受けている。

全集録音を行った指揮者の中には、版・稿の問題にこだわった指揮者もいる。たとえばエリアフ・インバルは、第3、第4、及び第8の交響曲の第1稿に基づくノヴァーク版を世界初録音している。ゲオルク・ティントナーは、第1番の未出版の1866年稿をいちはやく紹介したほか、第2番・第3番・第8番の第1稿を録音した。ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(旧ソビエト連邦)はかつて、すべての稿の網羅を目指した全集を録音しており、これは同じ番号の交響曲の複数の稿を、一人の指揮者・同一のオーケストラで聴き比べることの出来る試みであった(この中で、グスタフ・マーラーが編曲した交響曲第4番も録音され、特に注目を集めた。ソビエト連邦崩壊等の事情により、当時出版されていた稿の内、第8番の第1稿が録音されないまま、この試みは中断した)。

日本においてはクラウス・プリングスハイムの指揮により東京音楽学校にて1936年2月15日に交響曲第9番の日本初演が行われたが、当時はまだ広く演奏し親しまれていたわけではない。金子建志によると、1959年にカラヤン=ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演でブルックナーの交響曲第8番が演奏された際、「『ブルックナーだけでは客の入りが心配』という日本側の要望でウォルフガング・アマデウス・モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークも演奏することになった」という、その後の状況からすると考えられない逸話があったという(金子建志「こだわり派のための名曲徹底分析 ブルックナーの交響曲」音楽之友社)。。

ブルックナーの交響曲を(交響曲第3番・第7番)、トーマス・シュメーグナー()(第4番)、(第7番)、(第8番)などの録音がある。

メディア

Bruckner - Locus Iste

参考文献

  • ブルックナーのミサ曲・宗教音楽・管弦楽曲・器楽曲・交響曲全集のスコア(ハース、ノヴァーク、改変版)とピアノ譜(2手と4手版)。
  • バルトークの作曲技法(全音楽譜出版社)

関連項目

  • ロバート・シンプソン - イギリスの作曲家。ブルックナーの影響を受け、『20世紀のブルックナー』とも言われた。
  • フリッツ・フォン・ウーデ

外部リンク

  • Musikwissenschaftlichen Verlag - 国際ブルックナー協会によるスコアの出版元。出版されている楽曲や稿が確認できる(海外)。
1824年生まれの人物
スメタナ・ベドゥジッフ / アレクサンドル・デュマ(小デュマ) / アントン・ブルックナー /

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