ドイツの作曲家・オルガン奏者。1653年ニュルンベルクで生まれる。1673年ウィーンのシュテファン大聖堂の次席オルガン奏者。1678年ニュルンベルクの聖ゼバルドゥス教会のオルガン奏者。代表作は、「カノンとジーグ、ニ長調」の一部、「パッヘルベルのカノン」
![]() |
ヨハン・パッヘルベル |
|---|
[ヨハン・パッヘルベル 人物情報]
Wikipediaの人物情報
ヨハン・パッヘルベル(のドイツの作曲家であり、ドイツ・オルガン楽派の最盛期を支えたオルガン奏者で、教師でもある。宗教曲・非宗教曲を問わず多くの楽曲を制作、コラール前奏曲やフーガの発展に大きく貢献したところから、バロック中期における最も重要な作曲家の一人に数えられる。
パッヘルベルの作品は生前から人気が高かったため、師事する弟子も多く、またドイツ中部・南部の多くの作曲家の手本となった。現在では彼の作品で最も有名なのは「カノン (パッヘルベル)」 であるが、これは彼が生涯に書いた唯一のカノン (音楽)である。そのほか、シャコンヌ ヘ短調、トッカータ ホ短調などのオルガン曲、鍵盤楽器用の変奏曲集『アポロンの六弦琴』(『アポロの六弦琴』とも。Hexachordum Apollinis)などが知られている。
パッヘルベルの音楽は、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガーやヨハン・カスパール・ケルルといった南ドイツの作曲家や、ジローラモ・フレスコバルディ、アレッサンドロ・ポリエッティなどのイタリアの作曲家、さらにはフランス、ニュルンベルク楽派などの作曲家から影響を受けていたとされる。パッヘルベルの音楽は技巧的ではなく、北ドイツの代表的なオルガン奏者であるディートリヒ・ブクステフーデのような大胆な和声法も用いず、旋律的・調和的な明快さを強調した、明快で単純な対位法を好んで用いた。一方、ブクステフーデ同様に楽器を組み合わせた多様なアンサンブルの実験も行った。教会カンタータやアリアなどの声楽曲においてもそれが行われたことは特筆に価する。ただ、それらに見られる管楽器を含む豪華な器楽編成は、パッヘルベルの作品中では例外的であり、器楽曲作品の大半は室内楽曲である。
生涯
1653年~1673年: 幼年期から学生時代(ニュルンベルク、アルトドルフ、レーゲンスブルク)
パッヘルベルは の "Johann Pachelbel" の項もみよ。とその後妻アンナ(アンネ)・マリア・マイアーの息子として生まれた。正確な誕生日は分かっていないが、9月1日に洗礼を受けていることから8月下旬頃ではないかと見られている。
少年時代には、後に聖ゼーバルドゥス教会(ゼバルドゥス教会、ゼーバルト教会とも。の1740年の追悼文も参照のこと。マッテゾンはなぜこれが嘘であるかを説明している。パッヘルベルのヴェッカーへの師事を記す史料は1732年の Walther による伝記のみであり、一次史料の証拠はない。。シュヴェンマーとヴェッカーはいずれも、ニュルンベルク楽派の創始者の一人であるヨハン・エラスムス・キンダーマンに師事していた者たちである。(なお、キンダーマンは一時期ヨハン・シュターデンの弟子であった人物)
パッヘルベルの生涯についての重要な文献とされている の著者ヨハン・マッテゾンによると、若い頃のパッヘルベルは音楽と学問の両面に優れていたという。パッヘルベルは初等教育を聖ローレンツ基幹学校とニュルンベルクの "Auditorio Aegediano" で修めたのち、1669年6月29日にアルトドルフ大学に入学、同年そこで聖ローレンツ教会のオルガン奏者に指名された。経済的な理由によって1年も経たないうちに大学を辞めざるを得なくなったが、彼は勉学を最後まで修めるため、1670年にレーゲンスブルクのギムナジウム・ポエティクムの奨学生となった。その学校の教授たちは、パッヘルベルの学問の才能に感動したという。
パッヘルベルは学外で音楽を学ぶことも許されていた。担当の教師は、ヨハン・カスパール・ケルルの弟子カスパル・プレンツであった。ケルルはジャコモ・カリッシミをはじめイタリアの作曲家の影響を大いに受けていたため、プレンツを通じて当時のイタリアの音楽や、カトリックの教会音楽への興味を持ち始めたのかもしれない。
1673年~1690年: 音楽家としての活躍(ウィーン、アイゼナハ、エアフルト)
師のプレンツは1672年にアイヒシュタットに発った。この時期のパッヘルベルについてはほとんど文献に記されておらず、彼がその年のうちにその地を離れたのか、それとも翌1673年までレーゲンスブルクに留まったのかは分かっていない。しかし、いずれにせよ1673年にはウィーンに移り住んでおり、パッヘルベルはそこで有名なシュテファン大聖堂の次席オルガン奏者となった。当時のウィーンは巨大なハプスブルク君主国の中心であり、文化的にも重要な土地であった。また、当時は主にイタリア風の作品が好まれるような風潮があった。著名なコスモポリタニズムの作曲家たちもそこで活動しており、ヨーロッパ各地の音楽同士の交流が盛んに行われていた。特筆すべき人物としては、1657年までウィーンで宮廷オルガニストを務めたヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(アレッサンドロ・ポリエッティの前任者)や、当時その地に住んでいたゲオルク・ムッファトが、そして特に重要な人物として、1673年にウィーンに移住してきたヨハン・カスパール・ケルルがいる。ケルルはウィーンにいる間、彼の流れを汲むパッヘルベルと交流が、あるいは直に彼に音楽を教えてさえいたかもしれない。パッヘルベルはウィーンに5年間滞在し、彼が育った地の厳格なルーテル教会とは対照的な、南ドイツとイタリアのカトリックの音楽を学んだ。青年時代にシュテファン大聖堂の音楽家を務め、当時の主要な作曲家の音楽に触れていたという点では、パッヘルベルはフランツ・ヨーゼフ・ハイドンと似ていると言える。
1677年、パッヘルベルはアイゼナハに移り、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国公のヨハン・ゲオルク1世 (ザクセン=アイゼナハ公)に仕えていた楽長、ダニエル・エーベルリンの下で宮廷オルガン奏者の職に就き、宮廷とゲオルク教会での礼拝に携わった(なお、エーベルリンはパッヘルベルと同郷でニュルンベルクの出身であった)。アイゼナハは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの父ヨハン・アンブロジウス・バッハの故郷であり、パッヘルベルはそこでバッハ家の人々と出会い、アンブロジウス・バッハと親しくなり、彼の子供たちの家庭教師を任せられた。しかし、パッヘルベルのアイゼナハでの生活は、わずか1年で終わることになった。1678年、ヨハン・ゲオルク1世の弟ベルンハルト2世 (ザクセン=イェーナ公)が亡くなり、その喪に服している間に宮廷音楽家の大幅削減が行われ、パッヘルベルもまた職を失った。彼はエーベルリンに推薦状を書いてもらった。その推薦状の中でエーベルリンは、パッヘルベルについて「完璧ですばらしい才能を持った人物」— と評している。その紹介状とともに、パッヘルベルは1678年5月18日にアイゼナハを後にした。
1678年の6月、パッヘルベルはヨハン・エフラーに代わりエアフルトのプレディガー教会(伝道者教会)のオルガン奏者として雇われた。エアフルトでもバッハ家は有名で、パッヘルベルと彼らとの交友はここでも続いた。(なお、その地のオルガン奏者たちは皆 "Bachs" と後に呼ばれるようになるほどであった) パッヘルベルは、ヨハン・アンブロジウス・バッハの娘ヨハンナ・ユーディタの名付け親となり、ヨハン・クリストフ・バッハ(1671–1721年、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの長兄主題によって分類されている)、Kathryn Jane Welter による 「PC番号」といった目録が使用されている。
脚注
参考文献
- 下中邦彦編 『音楽大事典 第4巻』 平凡社、1982年、p1897
- 堀内久美雄編 『新訂 標準音楽辞典 ト-ワ/索引』 音楽之友社、2008年(新訂第2版)、ISBN 978-427600008-7、p1427
- 遠山一行・海老沢敏編 『ラルース世界音楽事典 下』 福武書店、1989年、ISBN 978-482881600-5、p1281
- 岡部博司編 『新音楽辞典 人名』 音楽之友社、1982年、ISBN 978-427600014-8、p426
- フェニックス企画編、中河原理監修 『クラシック作曲家辞典』 東京堂出版、2003年(第3版)、ISBN 978-449010316-8、p196-197
- 栗原きよみ・秋山真理子・坂上昭子編集、石井宏監修 『西洋音楽史大系 改訂版 11:作曲家総覧』 学研、2002年、p37
外部リンク
- ヨハン・パッヘルベルの「新しい歌を主に向かって歌え(Singet dem Herrn ...出張から帰ってきたものの、今日一日は雨風が激しく、 ウォーキングどころではなかった。 今回とりあげるのは、1653年に生まれたパッヘルベルの声楽曲。 「新しい歌を主に向かって歌え(Singet dem Herrn)」の作曲時期は分からない。
- OTTAVA animato: ヨハン・パッヘルベル、エンゲルベルト・フンパーディンクヨハン・パッヘルベル、エンゲルベルト・フンパーディンク. おはようございます。 OTTAVA animatoは、今日も、 みなさんの心の栄養になるような音楽をたっぷりお送りしていきます。 今日は、誕生日のヨハン・パッヘルベル。 同じく誕生日の ...
- パッヘルベルのシャコンヌ | クラシック音楽の楽しみヨハン・パッヘルベル(Johann Pachelbel, 1653~1706年)は、バロック期ドイツの作曲家で、南ドイツ・オルガン楽派の最盛期を支えたオルガン奏者である。 宗教曲・非宗教曲を問わず多くの楽曲を制作、コラール前奏曲やフーガの発展に ...
- ピアノ譜0998(乾杯の歌~ハンガリー舞曲第5番/永遠のクラシック名曲 ...31 主よ人の望みの喜びよ BWV.147/Jesu,Joy Of Man's Desiring(作曲:ヨハン・ゼバスティアン・バッハ) 32 パッヘルベルのカノン/Canon(作曲:ヨハン・パッヘルベル) 33 闘牛士の歌/Votre Toast~歌劇「カルメン」より(作曲: ...
- Resting time : 月光の白き林で 木の根掘れば蝉の蛹のいくつも出てきしドイツの作曲家ヨハン・パッヘルベルのカノンに、「戸川純」が歌詞をのせたものです。 最近でいうと「平原綾香」の「Jupiter」なんかと同じかな。 なぜか今年に入ってから、この歌が頭の中をグルグルグルグル回ってます。 ずい分と昔に聴いていた曲なので、今さら ...
- ロボットが人間臭くなってきた « 田辺進水川柳ブログドイツの作曲家ヨハンパッヘルベルの「カノン」耳慣れたその曲が、なんと日本の大ヒットソングの元になっている様です。 「カノン」のコードをギターで弾くと、びっくり!!! 【壊れかけのradio】【思い出がいっぱい】【大阪で生まれた女】【クリスマス ...
- ヨハン・パッヘルベル 「シャコンヌ」ヘ短調 - 輝きの時 "Carry Out Your ...こんにちは、今日も相変わらずの猛暑日が続きましたね。暑さも幾分和らいできましたが、皆さん体調の方は大丈夫でしょうか?今日の午後は、バロック時代の南ドイツオルガン楽派の大作曲家、ヨハン・パッヘルベルの「シャコンヌ」へ短調を ...
- 大ヒットする曲には必勝パターンがある!!それは「カノン」!: デカチワワ ...カノンと言うのは、ドイツの作曲家ヨハン・パッヘルベルがバロック時代中頃の、1680年頃に作曲したカノン様式の作品のことです。「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」の第1曲。この曲は、パッヘルベルのカノンの名 ...
- ピアノ譜0979(トロイメライ~トルコ行進曲/藤井英一のフェイマス ...13 エコセーズ/Ecossaise(作曲:ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン) 14 カノン/Canon(作曲:ヨハン・パッヘルベル) 15 ワルツ Op.39-15/Waltz(作曲:ヨハネス・ブラームス) 16 トルコ行進曲 Op.113-4/Turkish March(作曲: ...
- ピアノ譜0968(北の国から~サラバンド/ヒーリング・セレクション)/楽譜 ...27 G線上のアリア/Air On A G String(作曲:ヨハン・ゼバスティアン・バッハ) 28 埴生の宿/Home, Sweet Home(作曲:ヘンリー・ローリー・ビショップ) 29 パッヘルベルのカノン/Canon(作曲:ヨハン・パッヘルベル) ...
ニュースはありません。
人名辞典ではこのページで使用している画像の著作権は消失しているものと認識し ているか、許可を得て掲載しております。 万一、画像が許可を得て掲載されていない場合は速やかに画像を外すか、正式な許可を得る手続きをいたしますのでご連絡下さい。

