フランスの女性画家。1883年パリに生まれる。1904年画塾アカデミー・アンベールで絵画を学び、その後、先進的な芸術家と交流を広げながら、制作活動をおこなう。30歳ごろには「エコール・ド・パリ(パリ派)」芸術家たちの中でも重要な位置を占めるようになっていた。
女性らしい繊細な世界を淡いピンクやグレーなどの色調で柔らかで上品に描いた。 代表作は「接吻」「扇」など。
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マリー・ローランサン |
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[マリー・ローランサン 人物情報]
Wikipediaの人物情報
マリー・ローランサン(Marie Laurencin, 1883年10月31日 - 1956年6月8日)は、20世紀前半に活動したフランスの女性画家・彫刻家である。
生涯
マリー・ローランサンは1883年にパリで私生児として生まれた(ただし、資料によっては1885年生まれとなっている)。父はのちに代議士となったアルフレッド・トゥーレだが、マリーは彼が父親だということを長い間知らなかった。母はポーリーヌ・メラニー・ローランサン。ラマルティーヌ高校に学び、画家を志し、アカデミー・アンベールで絵を勉強する。ここでジョルジュ・ブラックと知り合い、キュビズムの影響を受けた。1907年にアンデパンダン展に初出展。このころ、ブラックを介して、モンマルトルにあったバトー・ラヴォワール(洗濯船)という安アトリエで、パブロ・ピカソや詩人で美術評論家のギヨーム・アポリネールと知り合った。
アポリネールと出会った時、彼は27歳、ローランサンは22歳。二人は恋に落ちた。だが1911年にアポリネールがモナ・リザ盗難事件の容疑者として警察に拘留された頃には(彼は無罪であったが)、ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も冷めてしまった。その後もアポリネールはローランサンを忘れられず、その想いを歌った詩が彼の代表作『ミラボー橋』であるという。
1912年に開いた最初の個展は評判となり、その後、次第にキュビスムから脱する。ローランサンが30歳になる頃にはエコール・ド・パリの新進画家として知られるようになった。1914年に31歳でドイツ人男爵(オットー・フォン・ベッチェン)と結婚。これによりドイツ国籍となったため、同年に第一次世界大戦が始まると、はじめマドリッド、次にバルセロナへの亡命生活を余儀なくされた。戦後、1920年に離婚して単身パリに戻る。
パリに戻ったローランサンは、パステルカラーの簡潔で華やかな、夢見るような少女像という独特の画風を作り上げ、フランス史上狂乱の時代(Les Années Folles)と称された1920年代にあって、時代を体現した売れっ子画家となった。パリの上流婦人の間ではローランサンに肖像画を注文することが流行となったという。また、舞台装置や舞台衣装のデザインでも成功した。関わったものとしては、フランシス・プーランクのバレエ『牝鹿』や、オペラ=コミック座の『娘たちは何を夢みる』、コメディ・フランセーズ、シャンゼリゼ劇場で上演されたローランド・プティのバレエなどが知られている。
第二次世界大戦の際はフランスを占領したナチス・ドイツ軍によって自宅を接収されるといった苦労もありながらも、創作活動を続けた。1954年、シュザンヌ・モローを正式に養女とする。1956年にパリにて死去した。離婚後はバイセクシャルでもあった。
マリー・ローランサン美術館
長野県茅野市の蓼科湖にあるマリー・ローランサン美術館は、世界でも唯一のローランサン専門の美術館である。館長の高野将弘が収集した個人コレクションをもとに、ローランサンの生誕100周年にあたる1983年に開館。収蔵点数は500点余りを数えたが、観光客減少のため2011年9月30日をもって閉館した。
代表作
- 『招待』(1908年)(ボルチモア美術館)
- 『二人の少女』(1915年)(テート・ギャラリー)
- 『ココ・シャネル嬢の肖像』(1923年)(オランジュリー美術館)
- 『接吻』(1927頃)(マリー・ローランサン美術館)
- 『花摘む少女』(1948年)(個人所蔵)
関連項目
- ココ・シャネル
- ジャン・コクトー
- 徹子の部屋…テレビ朝日系列で放送中の黒柳徹子司会のトーク番組。番組のセットに1976年の第1回放送から1990年までは、マリーの作品の絵画をセットの一部に設置していたが、現在は肖像権の関係で、当時の映像が放送される際に絵画にぼかしがかけられている。
脚注
外部リンク
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