日本の作曲家。作家、芥川龍之介の子として1925年東京に生まれる。東京音楽学校卒業。23歳で「交響三章」でデビュー。 1953年黛敏郎、團伊玖磨とともに「三人の会」を結成。戦後の日本音楽界を牽引した。代表作「交響管弦楽のための音楽」「など。
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[芥川也寸志 人物情報]
Wikipediaの人物情報
芥川 也寸志(あくたがわ やすし、1925年7月12日 - 1989年1月31日)は、日本の作曲家、指揮者。日本音楽著作権協会メンバー。
特徴
快活で力強い作風と言われ、特に人気のある代表作に『交響三章 (芥川也寸志)』『交響管弦楽のための音楽』『弦楽のための三楽章』などが挙げられる。また映画音楽・放送音楽の分野でも『八甲田山 (映画)』『八つ墓村 (1977年の映画)(野村芳太郎監督)』『赤穂浪士 (NHK大河ドラマ)のテーマ』などが知られると共に、童謡『小鳥の歌』『こおろぎ』等の作曲者としても知られる。そのほか、多くの学校の校歌や日産自動車の「世界の恋人」など、団体(企業等)のコマーシャルソングや社歌も手がけている。
来歴・人物
文豪・芥川龍之介の三男として東京市滝野川区(現・北区 (東京都))田端に生まれる。母は海軍少佐・塚本善五郎の娘・芥川文。兄は俳優・芥川比呂志。也寸志の名は龍之介が親友の法哲学者・恒藤恭(つねとう きょう)の名「恭」を訓読みし万葉仮名に当て命名された。
父は1927年に自殺したが、也寸志は父の遺品であるレコードを愛聴し、とりわけイーゴリ・ストラヴィンスキーに傾倒した。兄弟で毎日『火の鳥 (ストラヴィンスキー)』や『ペトルーシュカ』などを聴きながら遊び、早くも幼稚園の頃には『火の鳥』の「子守唄」を口ずさんでいたという。絵本の詩を即興で作曲することもあったが、当時まだ五線譜を知らなかったので、自己流の記譜法で書きとめた。このとき作った節を、作曲家になった後で気に入って自ら出版したこともある。
東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)在学中は唱歌が苦手だったために、音楽の成績は通知表の中で最も劣っていた。1941年、東京高等師範附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)4年在学時に初めて音楽に志し、橋本國彦の紹介で井口基成に師事してフェルディナント・バイエルから猛勉強を開始。このとき無理が祟って肋膜炎を患う。筑波大学附属中学校・高等学校の同期には、石川六郎(鹿島建設名誉会長)、山本卓眞(富士通名誉会長)、嘉治元郎(元東京大学教養学部長)、森亘(元東京大学総長)などがいる。
1943年、東京音楽学校予科作曲部に合格したものの乗杉嘉壽校長から呼び出しを受け、受験者全員の入試の成績一覧表を示されて「お前は最下位の成績で辛うじて受かったに過ぎない。大芸術家の倅として、恥ずかしく思え!」と叱責され、衝撃を受けた。橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、下総皖一と細川碧に対位法を学ぶ。
1944年10月、学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊しサクソフォーンを担当。このとき軍楽隊の仲間に、東京音楽学校で1級上だった團伊玖磨がいた。1945年4月、軍楽隊を首席で卒業。教育総監だった土肥原賢二中将から銀時計を賜った。
1945年8月に戦争が終わって東京音楽学校に戻ったとき、戦後の人事刷新で作曲科講師に迎えられた伊福部昭と出会い、決定的な影響を受けた。また当時の進駐軍向けラジオ放送でソビエト連邦音楽界の充実ぶりを知り、ソ連への憧れを募らせた。ソ連の音楽もまた、彼の作風に影響を及ぼす。
1947年に東京音楽学校本科を首席で卒業。本科卒業作品『交響管絃楽のための前奏曲』は伊福部の影響が極めて濃厚な作品である。伊福部が初めて音楽を担当した映画『銀嶺の果て』ではピアノ演奏を担当した。1948年2月、東京音楽学校で知り合った山田紗織(別名・間所紗織。声楽科卒)と結婚。このとき芥川は紗織に対して「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」と主張し、音楽活動を禁じる態度に出てもいるが、これはグスタフ・マーラーが妻・アルマ・マーラーに取った行動と軌を一にしている(しかし 二女をもうけた後、1957年に離婚。のちに紗織は画家として活躍する)。
1949年、東京音楽学校研究科卒業。在学中に作曲した『交響三章 (芥川也寸志)』や『ラ・ダンス』もこのころしばしば演奏された。1950年、『交響管弦楽のための音楽』がNHK放送25周年記念懸賞募集管弦楽曲に特賞入賞。このとき、もう一人の受賞者は團伊玖磨だった。同年3月21日、『交響管絃楽のための音楽』が近衛秀麿指揮の日本交響楽団により初演され、作曲家・芥川也寸志の名は一躍脚光を浴びた。
同じ1950年には、窓ガラス越しのキスシーンで有名な東宝映画『また逢う日まで (1950年の映画)(監督;今井正)』にピアノを弾く学生の役で出演する。
1953年に同じく若手作曲家である黛敏郎、團伊玖磨とともに「三人の会」を結成。作曲者が主催してオーケストラ作品を主体とする自作を発表するという独自の形式によるコンサートを東京と大阪で5回開催した。
1954年、当時まだ日本と国交がなかったソ連に自作を携えて単身で密入国。ソ連政府から歓迎を受け、ドミートリイ・ショスタコーヴィチやアラム・ハチャトゥリアンやドミトリー・カバレフスキーの知遇を得、ついには自分の作品の演奏、出版にまでこぎつけた。当時のソ連で楽譜が公に出版された唯一の日本人作曲家である。中華人民共和国から香港経由で半年後に帰国。以後、オーケストラ作品を中心に次々と作品を発表し、戦後の日本音楽界をリードした。
1956年、アマチュア演奏家たちの情熱に打たれて新交響楽団 (アマチュア・オーケストラ)を結成。以後、無給の指揮者としてこのアマチュアオーケストラの育成にあたった。1976年、当時としては画期的な1940年代の日本人作曲家の作品のみによるコンサートを2晩にわたり行い、その功績を讃えられ翌年には鳥居音楽賞(後のサントリー音楽賞)を受賞。その後もドミートリイ・ショスタコーヴィチの交響曲第4番 (ショスタコーヴィチ)の日本初演を行うなど活発に活動をした。一方では同団においては一部の作品を除いて自作の演奏をなかなか行わず、ようやく1986年に創立30年記念演奏会を自作のみで行なった。
芥川にはうたごえ運動の指導者という側面もあった。1953年の『祖国の山河に』(詩:紺谷邦子)は広く歌われた。また、音楽著作権関連の活動では日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長として音楽使用料規定の改定に尽力し、徴収料金倍増などの功績を上げた。この背景には、若いころ父の印税が途絶えたために非常に生活に苦しんだ経験が理由の1つとしてあるといわれる。1989年には芥川の肖像が著作権管理制度50年記念切手の図柄に採用されている。そのほかにも生涯、純粋な音楽活動のほかに、社会的分野などでも精力的な活動を行っている。
1957年にはヨーロッパ旅行の帰途、インドに立ち寄ってエローラ石窟群石窟院のカイラーサナータ寺院で魔術的空間に衝撃を受け、このときの感動から『エローラ交響曲』を作曲。代表作の一つとなった。またこのころから動的な作風の代わりに静謐な作風を模索するようになる(いわゆる「マイナスの作曲論」などに代表される)。
1958年6月16日、京都五条の旅館にて松竹映画『欲』のための音楽を作曲中、芥川の部屋に京都大学医学部助教授夫人(35歳)が乱入し、服毒自殺を遂げるという事件が発生する。この女性は芥川に熱烈な思慕を寄せ、一方的に恋文攻勢や待ち伏せを繰り返していたが、恐れをなした芥川にきっぱり撥ねつけられ、絶望して覚悟の死を選んだものである。
快活な人柄で知られ、姪からは「はるかぜおじさん」と呼ばれていた。ただし芥川自身は「私自身は物事をやや深刻に考え過ぎる欠点を持っているのに、私の音楽はその正反対で、重苦しい音をひっぱり回して深刻ぶるようなことは、およそ性に合わない」(『音楽の旅』)と述べている。例外的な作品が『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』(1969)で、この作品では芥川に珍しい苦渋に満ちた感情表現に接することができる。
父・龍之介に対しては尊敬の念を抱いていたが、同時に「学校を卒業して社会に出た時には、事ある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」、「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」(『父や母のこと』)とも告白していた。
1967年12月、芥川を中心にアマチュア合唱団「鯨」創立。
1977年から1984年まで、日本放送協会の音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子とともに出演した。『音楽の広場』のほかにも、音楽番組のみならず彼はテレビの司会を何度か務めている(テレビ東京木曜洋画劇場)。ラジオの分野では1967年より死の前年までTBSラジオ&コミュニケーションズ『100万人の音楽』で野際陽子とパーソナリティーをつとめた。ダンディな容貌とソフトだが明晰な話し方でお茶の間の人気も高かった。
1989年、東京都中央区 (東京都)の国立がんセンターに入院中、肺癌のため逝去。最後の言葉は「ヨハネス・ブラームスの交響曲第1番 (ブラームス)を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だった。遺作『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』はなかにし礼の詞に基づき、病床の芥川が音楽を書き進めたが、主要な合唱部分のスケッチを書いたところで病状が悪化したため、親友黛敏郎からの助言と推薦で黛の弟子の鈴木行一に補作(主にオーケストレーション)を依頼し、完成させた。“いのち”という題はなかにしの発案によるが、芥川に対してはその病状を慮るあまり、とうとう言い出せなかったという。
生前芥川は「古事記によるオラトリオをライフワークにしたい」と度々述べていた。作曲を進行させていたとうかがわせる発言もあり、1990年に予定されていたサントリー音楽財団による『作曲家の個展』にはそれを発表すべく委嘱も行われたのであるが、その死により実現を見なかった。
なお、曲の構想など詳細は不明であるが、晩年、病院から一時帰宅を許されたときに自宅仕事場でスケッチされたという「チェンバロとオーケストラのためのコンチェルト」の一部の譜面が遺されているようである。これは、写真家・木之下晃が、芥川の没後に仕事場を撮影した写真のなかに写っており、最晩年の芥川の音楽作品を考える上で興味深い。
3回結婚したが、2度目の妻は女優・草笛光子である(1960年に結婚、62年に離婚)。最初の妻との間に生まれた長女・芥川麻実子はタレントとして活躍した後にメディアコーディネイターに。『芥川龍之介あれこれ思う孫娘より』(サンケイ出版、1977年)の著書がある。3度目の妻は東京芸術大学作曲科出身で石桁真礼生門下の作曲家・エレクトーン奏者(1970年に結婚)。彼女は結婚前、作曲・編曲だけでなくYAMAHAエレクトーン演奏の名手としても名を馳せた。彼女との間に生まれた息子・芥川貴之志は成城大学文芸学部英文学科卒業後、エディター・スタイリストとして活躍している。『Blue RIBBONS』(ディー・ディー・ウェーブ、2005年)の著書がある。
芥川の音楽界での功績を記念して1990年4月、サントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された。また、芥川の死の半年後、埼玉県松伏町に、芥川の「エローラ交響曲」から名を取った田園ホール・エローラが完成した。
主な作品
歌劇
- ヒロシマのオルフェ(1960年、原題『暗い鏡』、1967年改訂。台本:大江健三郎)- ザルツブルク・オペラ・コンクール第一位
管弦楽
- 交響管絃楽のための前奏曲(1947年)
- 交響三章 (芥川也寸志)「トリニタ・シンフォニカ」(1948年)
- 交響管弦楽のための音楽(1950年)
- バレエ音楽「失楽園」(1950年)
- バレエ音楽「湖底の夢」(1950年)
- バレエ音楽「河童」(1951年)
- バレエ音楽「炎も星も」(1953年)
- 弦楽のための三楽章(トリプティク)(1953年)
- 交響曲第1番 (芥川也寸志)(1954年、1955年改訂)
- ディベルティメント(1955年) - 破棄、ただし楽譜は現存
- 子供のための交響曲「双子の星」(1957年、宮澤賢治作「雙子の星」による)
- エローラ交響曲(1958年)
- 弦楽のための「陰画」(1966年)
- オスティナータ・シンフォニカ(1967年)
- 舞踊組曲「蜘蛛の糸」(1968年)
- チェロとオーケストラのための「コンチェルト・オスティナート」(1969年)
- オスティナータ・シンフォニカ'70(オスティナータ・シンフォニカ改作)
- オーケストラのためのプソディー(1971年)
- GXコンチェルト(1974年)
- ヴァイオリンとオーケストラのための「秋田地方の子守歌」(1977年) - 徳永ニ男に贈呈
- 森のすきなおとなとこどものための音楽童話「ポイパの川とポイパの木」(1979年)
- 証城寺の腹つづみ(1979年、ティンパニ協奏曲)
- March1979「栄光をめざして」(1979年)
- 音楽と舞踏による映像絵巻「月」(1981年)- イタリア放送協会賞、エミー賞受賞。
- 行進曲「風に向かって走ろう」(1982・吹奏楽曲)
- アレグロ・オスティナート(1986年) - 合作「交響組曲『東京』」の中の1曲。FM東京開局15周年記念委嘱作品。外山雄三、三枝成章、石井眞木と共に一楽章ずつ作曲した作品。(GXコンチェルト改作)
- オルガンとオーケストラのための「響」(1986年) - オスティナータ・シンフォニカの改作
- ゴジラの主題によせるバラード(1988年) - 「伊福部昭先生の叙勲を祝う会」にて発表
室内楽・器楽
- 前奏曲集「田舎より」(1944年、ピアノ)
- ピアノ詩曲(1944年、ピアノ)
- 無題(1946年、ピアノ)
- ピアノ三重奏曲(1946年)
- ラ・ダンス(1948年、ピアノ)
- 弦楽四重奏曲(1948年、Vn・Vn・Va・Vc。破棄、後に2、3楽章を「弦楽のための三楽章(トリプティク)」として改作)
- ヴァイオリンとピアノのための「バラード」(1951年)
- マイクロフォンのための音楽(1952年、特殊編成)
- Nyambe(1959)
- 弦楽のための音楽第1番(1962年、9人の弦楽奏者のための)
- ヴァイオリンとピアノのためのSASARA(1978)
- 東北の獅子舞(1978年、Vn・ピアノ)
- 3つの子供のうた(1978年、2Vn・2Vc・ピアノ)
- 子供のための「24の前奏曲」(1979年、ピアノ)
- 遊園地(1984、ピアノ、「49の作曲家によるピアノ小品集」のための)
- 赤ずきん(1985、ピアノ、奥村一らとの共作「4つのおはなし」の一曲)
- 5本の指の踊り(1985、ピアノ)
- ちっちゃなワルツとちっちゃなメヌエット(1986、「49の作曲家によるピアノ小品集」のための)
- ノクターン(1987、「49の作曲家によるピアノ小品集」のための)
声楽曲、合唱曲
- 車塵集(1949年、メゾソプラノ独唱・ピアノ)
- パプア島土蛮の歌(1950年、声・ピアノ) - 歌詞はパプア語による
- 心の種子(1951年、合唱・ピアノ) - 全国唱歌ラジオコンクール[現 NHK全国学校音楽コンクール]中学校の部課題曲)
- 祖国の山河に(1953年、無伴奏合唱) - うたごえ運動のための
- 砂川(1956年、混声合唱・ピアノ) - うたごえ運動のための
- お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく(1958年、無伴奏混声合唱)
- かま焚きのうた(1958、岩谷時子詞)
- オケラのうた(1969、無伴奏合唱、宮沢章二詞)
- うたの旅(1977年 - 1984年、NHK『音楽の広場』のための)
- こどものうた(1972年 - 、小林純一とのコンビによる未発表の作品、両者の没後出版)
- 21世紀賛歌・人間はまだ若い(1983年、混声合唱・2管Orch、宮沢章二詞)
- 雪(1983年、メゾソプラノ独唱・ピアノ、高田敏子詞)
- あやめ(1984年、アルト独唱・ピアノ、高田敏子詞)
- 若木の枝のねむの花(1985年、メゾソプラノ独唱・ピアノ、高田敏子詞)
- コスモスの花(1986年、アルト独唱・ピアノ、高田敏子詞)
- 佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”(1988年、混声合唱・3管Orch、絶筆。鈴木行一補作)
童謡
- 3つの子供の歌(1957年、浜田広介詞)
- 小鳥のうた(1952年、与田準一詞)
- ぶらんこ(都築益世・詞)
- きゅっきゅっきゅっ(相良和子・詞)
- 何故だかしらない(谷川俊太郎詞)
映画音楽
- 煙突の見える場所(1953年)
- 雲流るる果てに(1953年)
- 夜の終わり(1953年)
- 地獄門(1953年)
- 戦艦大和 (映画)(1953年)
- たけくらべ (1955年の映画)(1955年)
- 猫と庄造と二人のをんな(1956年)
- 挽歌 (小説)(1957年)
- 怒りの孤島(1958年)
- 花のれん(1959年)
- 野火 (小説)(1959年)
- 猟銃 (小説)(1961年)
- ゼロの焦点(1961年)
- 黒い十人の女(1961年)
- 愛情の系譜(1961年)
- 私は二歳(1962年)
- 雪之丞変化(1963年)(八木正生と共作)
- 拝啓天皇陛下様(1963年)
- 百万人の娘たち(1962年)
- 五瓣の椿(1964年)
- 太平洋ひとりぼっち(1963年、武満徹と共作)
- 波影(1965年)
- 地獄変#映画(1969年)
- 影の車(1970年)
- 砂の器 (映画)(1974年、音楽監督。ただし作曲は全曲菅野光亮による。)
- 八甲田山 (映画)(1977年)
- 八つ墓村 (1977年の映画)(1977年)
- 鬼畜 (映画)(1978年)
- 事件 (大岡昇平)#映画(1978年)
- 日蓮 (映画)(1979年)
- わるいやつら#映画版(1980年)
- 幻の湖(1982年)
放送音楽
- えり子とともに(1949年)
- 森永製菓#ブランドCM・エンゼルの歌(1951年)- 森永製菓CM曲
- 赤穂浪士 (NHK大河ドラマ)(1964年)
- 世界の恋人(1964年)- 日産自動車社歌、企業CM曲
- 武蔵坊弁慶 (テレビドラマ) オープニングテーマ(1986年)
校歌
- 千葉県立鎌ケ谷西高等学校
- 青森県立弘前南高等学校
- 北海道赤平茂尻高等学校
- 千葉市立稲毛小学校
- 群馬県立高崎高等学校
- 山形県立寒河江高等学校
- 山梨県立甲府昭和高等学校
- 岡山県立矢掛高等学校
- 玉野市立玉野商業高等学校
- 鹿児島市立鹿児島女子高等学校
- 京都府立洛北高等学校
- 京都府立菟道高等学校
- 京都教育大学附属京都中学校
- 千葉県立佐倉高等学校『第二応援歌』
- 樹徳高等学校
- 慶應義塾中等部
- 東京都文京区立第八中学校
- 常総学院高等学校
- 大阪産業大学
- 早稲田大学『早稲田の栄光』
- 東京都立井草高等学校
- 京都府立大学
- 箱根町立仙石原中学校
- 福島県石川町立石川中学校
- 信州大学教育学部附属松本小学校
- 長野県松本市立島内小学校
- 長野県安曇野市立堀金中学校
- 埼玉県川口市立元郷中学校
- 埼玉県さいたま市立本太中学校
- 埼玉県皆野町立皆野小学校
- 千葉県市川市立宮田小学校
- 千葉県市原市立八幡中学校
- 廿日市市立大野東中学校
- 弘前大学教育学部附属小学校
- 静岡県立修善寺工業高等学校
- 大阪社会事業短期大学(1982年廃止)
- 秋田県羽後町立羽後中学校
- 東京都立川市立第七小学校
- 群馬県前橋市立若宮小学校
- 新潟県長岡市立大河津小学校
- 東京都西東京市立谷戸小学校
- 気仙沼市立津谷中学校
- 千葉県君津市立周南中学校
- 東京都三鷹市立第二中学校
- 高崎商科大学
- 墨田区立両国中学校
著書
- 現代人のための音楽(新潮社/1953年) - 共著。
- 現代音楽に関する3人の意見(中央公論社/1956年) - 團伊玖磨、黛敏郎との共著。
- 私の音楽談義(青木書店/1956年 → 音楽之友社/1959年 → ちくま文庫/1991年)
- 音楽の現場(音楽之友社/1962年)
- 音楽を愛する人に――私の名曲案内(筑摩書房/1967年 → 旺文社文庫/1981年 → ちくま文庫/1990年) - 日本点字図書館から1991年に点字版が刊行された。
- 音楽の基礎(岩波新書/1971年)
- 音楽の遊園地(れんが書房/1973年 → 旺文社文庫/1982年)
- 歌の絵本(全2巻)(講談社/1977年・1979年) - 編纂。
- 人はさまざま歩く道もさまざま――芥川也寸志対話集(芸術現代社/1978年)
- 人はさまざま歩く道もさまざま――芥川也寸志対話集 続(芸術現代社/1978年)
- 音楽の旅(旺文社文庫/1981年)
- ぷれりゅうど(筑摩書房/1990年)
訳書
- ドナルド・エリオット文、クリントン・アロウッド絵『絵本ワニのオーケストラ入門』(岩波書店/1983) - 石井史子との共訳。
参考文献
CM
- 富士通ゼネラル「ザ・マルチ」(カラーテレビ)
関連項目
- 音楽の広場(NHK総合テレビジョンの音楽番組)
- オーナー (ラジオ番組)(TBSラジオ&コミュニケーションズJapan Radio Network 1964年-1966年)月・火曜担当
門下
- いずみたく
- 菅野よう子
アシスタント
- 武満徹
- 菅野光亮
外部リンク
- NadegataPapaのクラシック音楽試聴記 : 芥川也寸志「交響曲第1番 ...芥川也寸志forever · クチコミを見る 芥川也寸志foreverの2枚目。交響曲第1番(1955年)とエローラ交響曲(1958年)の他に映画音楽が収められている。 交響曲第1番は、黛敏郎、團伊玖磨とともに結成した「三人の会」演奏会で初演した「 ...
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- 芥川也寸志 没後10年(演奏会プログラム) - ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ芥川也寸志 没後10年. 新交響楽団, 1999.7.11. [36]p ; 26cm. 注記: 演奏会プログラム ; 日時・会場: 1999年7月11日(日)14:00開演・サントリーホール(東京・港区), 7月17日(土)18:00開演・田園ホール・エローラ(埼玉県松伏町), 7月18日( ...
- 芥川也寸志『アレグロ・オスティナート』 - ニッポニカ・ビオラ弾きのブログオーケストラ・ニッポニカ第21回演奏会 2012年4月30日(月・祝)14:30 ブラームス:交響曲第2番、芥川也寸志:交響曲第1番 指揮:鈴木秀美、会場:第一生命ホール(晴海) · <[練習]2012-01-28の練習日記 | [演奏会]山田和男『おほむたから.
- 芥川也寸志聴きました: えいブロ芥川也寸志聴きました,気になった記事をえいっとまとめました。
- 芥川也寸志と「中等部の歌」 - カームラサンの奥之院興廃記こちらの記事、興味深くて面白いです。 馬場紘二氏によるブログ「轟亭の小人閑居日記」 芥川也寸志と「中等部の歌」(2011/06/30 06:45)http://kbaba.asablo.jp/blog/2011/06/30/ この記事によると、慶応義塾所蔵の...
- NadegataPapaのクラシック音楽試聴記 : 芥川也寸志「芥川也寸志 ...芥川が育てたアマチュア楽団新交響楽団による芥川也寸志の作品集。主要な作品が網羅されており、2枚組CDの1枚目には比較的若い時の作品が収められている。1曲目の交響管絃楽のための前奏曲だけが山田一雄の指揮による演奏 ...
- 芥川 也寸志 「行進曲 風に向かって走ろう」|音楽之力.jpYahooオークションにてcgbyk128のIDで音楽関係(特に吹奏楽関係)を中心に出品をしています。出品物に関する情報や音楽関係の情報などさまざまなことを書いていこうと思います。
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