Richter, Svjatoslav

スヴャトスラフ・リヒテル

リヒテル
Richter, Svjatoslav
1915年03月20日~1997年08月01日
[ロシア] [演奏家]

[スヴャトスラフ・リヒテル 人物情報]

ロシア(現:ウクライナ)のピアニスト。20世紀を代表するピアニストの一人。1915年ジトミルでピアニストの両親の間に生まれる。独学でピアノを学び、1931年オデッサ歌劇場のピアノ奏者となる。22歳でモスクワ音楽院に入学し、ネイガウスに師事。初めて本格的にピアノを学び始めた。ネイガウスは「今、生涯をかけてずっと待ち続けた生徒が来た。彼は天才だ。」と激賞した。
1940年にプロコフィエフのピアノソナタ第6番を弾いてデビュー。1945年全ソヴィエト音楽コンクールに優勝。1950年、35歳で初めて海外演奏。1960年西側デビュー。1997年モスクワにて死去。

Wikipediaの人物情報

スヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテル(、ラテン文字転写例: Sviatoslav Teofilovich Richter、1915年3月20日 - 1997年8月1日)はソビエト連邦のピアニストである。ドイツ人を父にウクライナで生まれ、主にロシアで活躍した(ただし在留ドイツ人として扱われた)。その卓越した演奏技術から20世紀最大のピアニストと称された。

生涯

1915年3月20日、ウクライナのジトームィルでピアニストの両親のもとに生まれた。幼い頃に一家はオデッサに移住した。父親は同地の音楽学校で教師を務め、息子にも音楽の手ほどきをしたが音楽家にしようという気はなかった。しかしリヒテルは独学でピアノを始め、1931年に15歳にしてオデッサ歌劇場のコレペティートルに採用された岡俊雄「詩的幻想とピアニズムの調和、不朽のソフィア・ライヴ」、アルバム『ソフィア・リサイタル』(PHILIPS UCCP-9507) ライナーノート。1934年、19歳の時にフレデリック・ショパンのみのプログラムによる初リサイタルを開き、成功を収めた『ピアノとピアニスト2003』音楽之友社、2003年 ISBN 978-4276961357

1937年、22歳でモスクワ音楽院に入学し、ゲンリフ・ネイガウスに師事した。彼はその時点ですでに完成されたピアニストだったといわれ、ネイガウスは「何も教えることはなかった」という言葉を残している。同門のエミール・ギレリスは1歳年下だがモスクワ音楽院では2年先輩にあたる。

リヒテルはネイガウスの紹介によりセルゲイ・プロコフィエフと親交を持つようになり、1943年1月18日にはモスクワでプロコフィエフのピアノソナタ第7番 (プロコフィエフ)を初演し成功を収めた。翌1944年にはプロコフィエフの3曲の戦争ソナタによるリサイタルを行った。以後ソ連国内で活発な演奏活動を行うようになり、1945年には30歳で全ソビエト音楽コンクールピアノ部門で第1位を受賞した。

1950年に初めて国外に出て演奏し、それ以後は東ヨーロッパ各国での公演も行うようになった。しかし冷戦で対立していた西側諸国への演奏旅行はなかなか当局から許可が下りなかった。そのため西側諸国ではその評判が伝わるのみで実像を知ることができず、「幻のピアニスト」とも称されるようになった。ソ連の演奏家としては最も早い時期から国際的に活躍していた一人であるギレリスが、演奏後に最大の賛辞を贈ろうとしたユージン・オーマンディを「リヒテルを聴くまで待って下さい」と制したことも、この幻のピアニストへの期待をかき立てたグレゴール・ヴィルメス「力強い詩人」(橋本ゆかり訳)、アルバム『モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番/ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番ほか」(UCCG-3086) ライナーノート

1958年にはこの年の2月25日にブルガリアのソフィア (ブルガリア)で行ったリサイタルの録音が西側でもレコードとして発売された。モデスト・ムソルグスキーの展覧会の絵などを含むこの録音は不朽の名演奏と称えられ、リヒテルの当代一のピアニストとしての真価を知らしめた。同年に第1回チャイコフスキー国際コンクールが開催され、この大会を制したヴァン・クライバーンが滞在中に聴いたリヒテルの演奏について帰国後に熱っぽく語ったことで、このピアニストの評判はさらに高まることとなったUwe Kraemer: VITALITÄT UND POESIE -Der Pianist Svjatoslav Richter アルバム『MOUSSORGSKY・PICTURES AT AN EXGIBITION』(PHILIPS 420 774-2) ライナーノート

翌1959年にはドイツ・グラモフォンのスタッフがワルシャワに乗り込んで録音が行われ、数枚のレコードが発売された。その中でも特にスタニスワフ・ヴィスウォツキ指揮のワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団と共演したセルゲイ・ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番 (ラフマニノフ)の録音はこの作品の決定的名演と称えられ、その評価は現在に至るまで揺るいでいない『レコード芸術』音楽之友社、2007年5月号

1960年5月にようやく西側での演奏を許可され、ヘルシンキでのコンサートに「伴奏者」として派遣された。同年中にはアメリカ合衆国へもツアーしてセンセーショナルな成功を収めた。この時に録音されたヨハネス・ブラームスのピアノ協奏曲第2番 (ブラームス)やルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのピアノソナタ第23番 (ベートーヴェン)のレコードも評判となり、いよいよ西側でも本格的にその実像を知られるようになった。

その後は名実共に20世紀を代表するヴィルトゥオーソとして世界を舞台に精力的に活動した。同時代にアメリカ合衆国を拠点に活動したウラディミール・ホロヴィッツと並び称されることもあった

日本へは飛行機嫌いのためなかなか訪れることがなかったが、1970年の日本万国博覧会の際に初の訪日が実現した。それ以降は度々来日してリサイタルを開き、日本の音楽ファンにもなじみ深い存在となった

オレグ・カガンをはじめとする他の演奏家との共演も活発に行い、西側を含む各地で音楽祭を主催した。特に1981年から毎年冬にプーシキン美術館で開催した音楽祭「12月の夕べ」は絵画の展示とテーマを共有するユニークなスタイルのものだった。晩年に至っても技巧の衰えを豊かなタッチで補いつつ意欲的な活動を続けた。

1997年8月1日、モスクワで82年の生涯を閉じた。

音楽

レパートリー

リヒテルのレパートリーはヨハン・ゼバスティアン・バッハから20世紀の同時代の音楽まで多岐にわたる。特にピョートル・チャイコフスキーやラフマニノフなどのロシアものや、ベートーヴェン、フランツ・シューベルト、ロベルト・シューマン、フランツ・リスト、フレデリック・ショパン、ブラームスなど古典派音楽からロマン派音楽にかけてのピアノ曲がその中核にある。その一方でクロード・ドビュッシーやカロル・シマノフスキ、バルトーク・ベーラなどでも名演を聴かせた

そうした膨大なレパートリーを誇る一方で、独自の見識に基づいて作品を厳選していたことも特徴的である。例えばベートーヴェンのピアノソナタで言えばピアノソナタ第14番 (ベートーヴェン)やピアノソナタ第21番 (ベートーヴェン)のような人気曲を意図して演奏しなかったし、5曲の協奏曲の中ではピアノ協奏曲第1番 (ベートーヴェン)とピアノ協奏曲第3番 (ベートーヴェン)のみをレパートリーにしていた。ショパンの練習曲 (ショパン)やドビュッシーの前奏曲 (ドビュッシー)、ラフマニノフの前奏曲 (ラフマニノフ)などでも一部の曲を演奏していない。

演奏

リヒテルの演奏はダイナミックで雄渾な情感と緻密にコントロールされた技巧を両立させた稀有なものだった。とても巨大な手の持ち主であり、12度程度を楽に押せたという。

彼の演奏の特徴の一つとして、強弱法の大きさが挙げられる。音楽評論家の吉田秀和は彼のベートーヴェン演奏について、聴き手にベートーヴェンの時代のピアノでこれほどのダイナミクスの大きな演奏が可能だったのかと疑問を抱かせる一方で、ベートーヴェンの創造的想像力の中では確かにこうした響きが鳴っていたに違いないと感じさせる説得力があると述べている。ピアノソナタ第23番 (ベートーヴェン)のアメリカでのライブ録音を初めて聴いた時には「これはベートーヴェンを超え、何か別のものになってしまった」のではないかと感じたという。

テンポ設定に関しては、リヒテルは概してゆったりとしたテンポを好む傾向にあった。若い時分にはベートーヴェンのソナタの急速楽章を猛烈なスピードで弾くこともあったが、ほどなくスピードを重視しないスタイルに転じたと岩井宏之は指摘している。晩年に至るまで興に乗ると弾き飛ばす傾向のあったムスティスラフ・ロストロポーヴィチとはこの点で対照的だった。ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の録音は、作曲者自身の演奏よりもやや遅めのテンポで濃密なロマンティシズムを壮大に歌い上げたものだった。川田朔也はこの演奏の影響力の大きさを示す事実として、この後他の演奏家もリヒテルのテンポ設定を踏襲するようになり、この曲の平均的な演奏時間がそれ以前よりも引き伸ばされるようになったことを指摘している

リヒテルの芸術性が発揮されたのは技巧的な難曲においてばかりではなかった。ピアニスティックな技巧の効果に乏しく以前はプロのピアニストが取り上げることの比較的少なかったフランツ・シューベルトのピアノ作品を、彼は早い時期からレパートリーに採り入れていた。グレン・グールドは1957年にソ連を演奏旅行した際にリヒテルによるシューベルトのピアノソナタ第21番 (シューベルト)の演奏を聴いた時のことを、「催眠術によるトランス (意識)としか例えようのない境地に私は連れ去られたのです」と回想している。

録音

リヒテルは録音嫌いのピアニストだったが、ライブ録音によるものも含めると結果的には極めて多くの音源を残している。レパートリーの多くは現在でも録音によって接することが可能である。彼の録音の出来にはむらがあるともいわれるが、ヨアヒム・カイザーは「最良のライヴ・レコーディングにおける彼の偉大さには比類がない」と評していた。没後には各国の放送局に残されていた音源などもCDとしてリリースされている。

使用楽器

ワルシャワでのドイツ・グラモフォンとの録音セッションでエンジニアを務めたハインツ・ヴィルトハーゲンは、この時使用したピアノについての証言を残している。スタッフが現地で調達したピアノはタッチにひどくむらのある粗悪な代物で、スタッフは当然リヒテルに拒否されるものと考えた。しかし彼は黙ってピアノの前に座ると、キーの感触を一つ一つ確かめながらむらなく聴こえるようになるまで練習し、難のあるピアノを自在に操ったという

その後彼は1969年にヤマハのピアノに目を止め、愛用するようになった。彼はその理由について「柔軟で感受性が鋭く、特に演奏記号#強弱記号が非常に美しい。私の表現したい心の感度を歌ってくれる」と語っている。このことはNHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』(2001年10月2日放送回)でも取り上げられた。

活動の特徴

リヒテルの活動は既成のコンサート・マナーにとらわれない特徴的なものだった。彼は特に比較的小さな規模の会場で演奏曲目を予告せずに行うスタイルのリサイタルを好んでいた。晩年には敢えて楽譜を見ながら演奏したり、場内の照明を極端に落としてピアノの周囲だけをわずかに明るくした状態で演奏するといったユニークな試みを採り入れていた。エドヴァルド・グリーグの抒情小曲集のみでプログラムを組むなど、そうした挑戦的な態度は最後まで持続した。

指揮

リヒテルは1952年に手の小さな骨を折って一時的にピアノが弾けなくなったことがあり、この時に生涯でただ一度の指揮 (音楽)を体験している。キリル・コンドラシンにリズムの刻み方を習い、モスクワ青年交響楽団を指揮してロストロポーヴィチと共演したのがプロコフィエフの交響的協奏曲 (プロコフィエフ)の初演である

1933年に18歳でオデッサ歌劇場の第一副指揮者に就任したという伝説が生じたこともあったが、リヒテルはこれを「おとぎ話に過ぎない」と言下に否定した。前述の通り、1931年にコレペティートルに採用されたというのが事実である。

人物

人柄

とても繊細な感受性の持ち主であり、音楽評論家のペーター・コッセからは「傷つきやすい巨人」と評された。頻繁にコンサートをキャンセルし、ファンや興行主を悩ませてきたことでも知られる。周囲からは気難しい人物として恐れられることも多かったが、彼の調律師を務めた村上輝久によると決して恐い人ではなかったという。

余技

リヒテルは少年時代には文学や演劇に熱中するなど、音楽以外の芸術にも秀でていた。特に絵画の腕前は素人離れしており、その作品は自身のレコードのジャケットにしばしば使用された。1944年の末には指を痛めて一時ピアノを弾けなくなった時期があり、その際には画家への転身を本気で考えたという

交友関係

リヒテルはプロコフィエフやドミトリー・ショスタコーヴィチ、ベンジャミン・ブリテンなど同時代の作曲家と直接交流した。特にプロコフィエフとは親しく、ピアノソナタ第7番はプロコフィエフが初めて自分以外のピアニストに初演を託したピアノ作品であり、ピアノソナタ第9番 (プロコフィエフ)はリヒテルに献呈されている。ロストロポーヴィチとの共演でチェロソナタ (プロコフィエフ)を初演したほか、前述の通り交響的協奏曲は同じくロストロポーヴィチとの共演により指揮者として初演している。ブリテンとはブリテン自身の作品のみならず他の作曲家のものも含め、協奏曲や2台のピアノのためのレパートリーで度々共演した。

他の演奏家と活発に交流し共演を行い、若い才能の発掘にも意を注いだことでも知られる。彼を中心として形成された演奏家の人脈は「リヒテル・ファミリー」と呼ばれた。特にオレグ・カガンとは親密な間柄で、カガンはリヒテル・ファミリーの中核的な存在だった。このほかにリヒテルと活発に共演した演奏家に、カガンの妻であるが制した。。

文学者のボリス・パステルナークとも親密な間柄だった。パステルナークは、師ネイガウスの友人であり、同じ妻を娶った関係に当たる(ネイガウスの妻が、パステルナークと再婚したが、男性二人の友情は継続した)。1960年にパステルナークが亡くなった際には、リヒテルは葬儀でピアノを演奏した。

関連書籍

  • ブリューノ・モンサンジョン『リヒテル』中地義和、鈴木圭介訳、筑摩書房、2000年9月 ISBN 978-4480885128
  • ユーリー・ボリソフ『リヒテルは語る—人とピアノ、芸術と夢』宮澤淳一訳、音楽之友社、2003年5月1日 ISBN 978-4276217348
  • 河島みどり『リヒテルと私』草思社、2003年9月20日 ISBN 978-4794212481

脚注

出典

外部リンク

1915年生まれの人物
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