日本の作家。本名、森林太郎。
1862年2月17日(文久2年1月19日)現在の島根県津和野町に生まれ。森家は代々津和野藩主亀井家の典医を務めた家。
森鴎外は11歳のとき上京。第一大学区医学校(現:東大医学部)を卒業後、1884年軍医として5年間ドイツに官費留学し、衛生学および軍陣医学を学んだ。
帰国後は軍医として勤める傍ら文筆活動を開始し、夏目漱石とともに明治の文豪として文壇に確固たる地位を築いた。軍医としても明治40年に軍医としては最高の地位である陸軍軍医総監の地位に進んでいる。
代表作は『舞姫』『雁』『山椒大夫』『高瀬舟』『ヰタ・セクスアリス』『阿部一族』、翻訳『ファウスト』『即興詩人』など。
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森鴎外 |
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[森鴎外 人物情報]
Wikipediaの人物情報
森 外(もり おうがい、1862年2月17日(文久2年1月19日 (旧暦))– 1922年(大正11年)7月9日)は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、劇作家、大日本帝国陸軍軍医(軍医総監#旧日本軍における軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。
人物
石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京大学医学部卒業。第一次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称される。
大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツで4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や北九州市転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル (文芸雑誌)』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁 (小説)」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟 (小説)」など歴史小説や史伝「渋江抽斎」等も執筆した。
晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任した。
生涯
生い立ち
1862年2月17日(文久2年1月19日_(旧暦))、石見国津和野町(現島根県)で生まれた。代々津和野藩主、亀井氏の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。
藩医の嫡男として、幼い頃から論語や孟子やオランダ語などを学び、藩校の養老館では四書五経を復読。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新に家族と周囲から将来を期待されることになった。
1872年(明治5年)、廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社に入った。その際に通学の便から、政府高官の親族西周 (啓蒙家)の邸宅に一時期寄食した。翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れた。
陸軍軍医として任官
1873年(明治6年)11月、入校試問を受け、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、11歳で入学(新入生71名。のちに首席で卒業する三浦守治も同時期に入学)。
定員30人の本科に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長に就いて漢方医学医書を読み、また文学を乱読し、漢詩・漢文に傾倒し、和歌を作っていた。
なお語学に堪能な外は、後年、執筆に当たってドイツ語など西洋語を用いるとともに、中国の故事などをちりばめた。さらに、自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」で語源を西洋語の学習に役立てる逸話を記した。
1881年(明治14年)7月4日、19歳で本科を卒業(今後も破られないであろう最年少卒業記録)。卒業席次が8番であり、大学に残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部科学省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。その進路未定の状況を見かねた同期生の小池正直(のちの陸軍省#医務局)は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に外を採用するよう長文の熱い推薦状を出しており、また小池と同じく陸軍軍医で日本の耳鼻咽喉科学の創始者といわれる親友の賀古鶴所は、外に陸軍省入りを勧めていた。結局のところ外は、同年12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した。
なお、妹・小金井喜美子の回想によれば、若き日の外は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたり(喜美子と一緒に出かけたとき、ある落語家の長唄を聴いて中座)していた。
ドイツ留学
入省して半年後の1882年(明治15年)5月、東京大学医学部卒業の同期8名の中で最初の軍医本部付となり、プロイセンの陸軍衛生制度に関する文献調査に従事し、早くも翌年3月には『医政全書稿本』全12巻を役所に納めた。1884年(明治17年)6月、衛生#衛生学を修めるとともにドイツ陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。7月28日、明治天皇に拝謁し、賢所に参拝。8月24日、陸軍省派遣留学生として横浜港から出国し、10月7日にフランスのマルセイユ港に到着。同月11日に首都ベルリンに入った。
最初の1年を過ごしたライプツィヒ(1884年11月22日–翌年10月11日)で、生活に慣れていない外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人達であった。
また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しくつきあい、ライプツィヒ大学ではフランツ・ホフマンなど良き師と同僚に恵まれた。演習を観るために訪れたザクセン王国の首都ドレスデンでは、ドレスデン美術館のアルテ・マイスター絵画館にも行き、ラファエロ・サンティの「システィーナの聖母」を鑑賞した。
次の滞在地ドレスデン(1885年10月11日–翌年3月7日)では、主として軍医学講習会に参加するため、5ケ月ほど生活した。王室関係者や軍人との交際が多く、王宮の舞踏会や貴族の夜会や宮廷劇場などに出入りした。その間、2人の大切な友人を得た。1人は外の指導者ザクセン軍医監のウィルヘルム・ロートで、もう1人は外国語が堪能な同僚軍医のキルケである。なお、ドレスデンを離れる前日、ハインリッヒ・エドムント・ナウマンの講演に反論し、のちにミュンヘンの一流紙で論争となった。
ミュンヘン(1886年3月8日–翌年4月15日)では、ミュンヘン大学のマックス・フォン・ペッテンコーファーに師事した。研究のかたわら、邦人の少なかったドレスデンと異なり、同世代の原田直次郎や近衛篤麿など名士の子息と交際し、よく観劇していた。
次のベルリン(1887年4月16日–翌年7月5日)でも、早速北里柴三郎とともにロベルト・コッホに会いに行っており、細菌学の入門講座をへてコッホの衛生試験所に入った。
9月下旬、カールスルーエで開催される第4回赤十字社国際会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳に随行し、通訳官として同会議に出席。9月26日・27日に発言し、とりわけ最終日の27日は「ブラボー」と叫ぶ人が出るなど大きな反響があった。
会議を終えた一行は、9月28日ウイーンに移動し、万国衛生会に日本政府代表として参加した。11日間の滞在中、外は恩師や知人と再会した。1888年(明治21年)1月、大和会の新年会でドイツ語の講演をして公使の西園寺公望に激賞されており、18日から田村怡与造大尉の求めに応じてカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論#日本での成立』を講じた。なお、留学が一年延長された代わりに、地味な隊付勤務(プロイセン近衛歩兵第2連隊の医務)を経験しており、そうしたベルリンでの生活は、ミュンヘンなどに比べ、より「公」的なものであった。ただし、後述するドイツ人女性と出会った都市でもあった。
同年と、195-196頁。。
初期の文筆活動
1889年(明治22年)1月3日、読売新聞の付録に「小説論」を発表し、さらに同日の読売新聞から、弟の三木竹二とともにペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり、8月に蘇峰が主筆をつとめる民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集「於母影」(署名は「S・S・S」(新声社の略記))を発表した。その「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。また「於母影」の原稿料50円をもとに、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊した(日清戦争の勃発により59号で廃刊)。
このように、外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」などが有名)、熱心に評論的啓蒙活動をつづけた。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」を相次いで発表。とりわけ、日本人と外国人が恋愛関係になる「舞姫」は、読者を驚かせたとされる。そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草紙』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げた。
1889年(明治22年)に東京美術学校(現東京藝術大学)の美術解剖学講師を、1892年(明治25年)9月に慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱された(いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱)。
日清戦争出征と小倉「左遷」
1894年(明治27年)夏、日清戦争勃発により、8月29日に東京を離れ、9月2日に広島の宇品港を発った。翌年の下関条約の調印後、1894年に近衛師団つきの従軍記者・正岡子規が帰国の挨拶のため、第2軍 (日本軍)#日清戦争における第2軍兵站部軍医部長の外を訪ねた。
清との戦争が終わったものの、外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており(朝鮮勤務の小池正直とのバランスをとった人事とされる)、5月22日に宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督の樺山資紀等とともに台湾に向かった。4ヶ月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。
翌1896年(明治29年)1月、『しがらみ草紙』の後を受けて幸田露伴・斎藤緑雨とともに『めさまし草』を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)。
なお、その頃より、評論的啓蒙活動が戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった。1898年(明治31年)7月9日付『万朝報』の連載「弊風一斑 蓄妾の実例」のなかで、「児玉せき」との交情をあばかれた。
小倉北区鍛冶町 (北九州市))1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進し、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉市(西部)の第12師団 (日本軍)軍医部長に「左遷」された。19世紀末から新世紀の初頭をすごした小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた。
またドイツ留学中、田村怡与造に講じていた難解なクラウゼヴィッツの『戦争論』について、師団の将校たちに講義をするとともに、井上光師団長などの依頼で翻訳をはじめた。その内部資料は、ほかの部隊も求めたという。
小倉時代に「圭角がとれ、胆が練れて来た」と末弟の森潤三郎が記述したように、そのころ外は、社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和、慈しみの眼差しを獲得していた。
私生活でも、徴兵検査の視察時などで各地の歴史的な文物、文化、事蹟との出会いを通し、とくに後年の史伝につながる掃苔(探墓)の趣味を得た。
新たな趣味を得ただけではなく、1900年(明治33年)1月に先妻・赤松登志子が結核で死亡したのち、母の勧めるまま1902年(明治35年)1月、18歳年下の荒木志げと見合い結婚をした(41歳と23歳の再婚同士)。さらに、随筆『二人の友』に登場する友人も得た。1人は曹洞宗の僧侶、玉水俊虠(通称、安国寺)で、もう1人は同郷の俊才福間博である。
2人は、外の東京転勤とともに上京し、外の自宅近くに住み、交際をつづけた。
軍医トップへの就任と旺盛な文筆活動
1902年(明治35年)3月、第1師団_(日本軍)軍医部長の辞令を受け、新妻とともに東京に赴任した。6月、廃刊になっていた『めざまし草』と上田敏の主宰する『芸苑』とを合併し、『芸文』を創刊(その後、出版社とのトラブルで廃刊したものの、10月に後身の『万年艸』を創刊)。当時は、12月に初めて戯曲を執筆するなど、戯曲にかかわる活動が目立っていた。
1904年(明治37年)2月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に第2軍 (日本軍)#日露戦争における第2軍軍医部長として出征。
1907年(明治40年)10月、軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した。
なお同年9月、美術審査員に任じられ、第1回日本美術展覧会#官展の歴史(初期文展)西洋画部門審査の主任をつとめた。
1909年(明治42年)に『スバル (文芸雑誌)』が創刊されると、同誌に毎号寄稿して創作活動を再開した(木下杢太郎のいう「豊熟の時代」)。「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」「青年 (小説)」などを同誌に載せ、「仮面」「静」などの戯曲を発表。『スバル』創刊年の7月、外は、東京帝国大学から文学博士の学位を授与された。しかし、直後に「ヰタ・セクスアリス」(同誌7月号)が発売禁止処分を受けた。しかも、内務省 (日本)の警保局が陸軍省を訪れた8月、外は陸軍省#陸軍次官・石本新六から戒飭された。同年12月、「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに自らの立場を明らかにした。
慶應義塾大学の文学科顧問に就任(教授職に永井荷風を推薦)した1910年(明治43年)は、5月に大逆事件の検挙がはじまり、9月に朝日新聞が連載「危険なる洋書」を開始して6回目に外と妻の名が掲載され、また国内では南北朝正閏論#南北朝正閏問題が大きくなりつつあった。そうした閉塞感がただよう年に「ファスチェス」(発禁問題)、「沈黙の塔」(学問と芸術)、「食堂」(クロポトキンや無政府主義等を記述)などを発表。
1911年(明治44年)にも「カズイスチカ」「妄想」を発表し、「青年」の完結後、「雁」と「灰燼」の2長編の同時連載を開始。同年4月の「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、冒頭「芸術#ジャンルに主義というものは本来ないと思う。」とした上で、と結んだ。
また陸軍軍医として、懸案とされてきた軍医の人事権をめぐり、陸軍次官の石本と激しく対立した。ついに医務局長の外が石本に辞意を告げる事態になった。結局のところ陸軍では、医学優先の人事が継続された。階級社会の軍隊で、それも一段低い扱いを受ける衛生部の外の主張が通った背景の一つに、山縣有朋の存在があったと考えられている
1912年(明治45年)から翌年にかけて、五条秀麿を主人公にした「かのやうに」「吃逆」「藤棚」「鎚一下」の連作を、また司令官を揶揄するなど戦場体験も描かれた「鼠坂」などを発表した。当時は、身辺に題材をとった作品や思想色の濃い作品や教養小説や戯曲などを執筆した。もっとも公務のかたわら、『ファウスト』などゲーテの3作品をはじめ、外国文学の翻訳・紹介・解説もつづけていた。
1912年(大正元年)8月、「実在の人間を資料に拠って事実のまま叙述する、外独自の小説作品の最初のもの」である「羽鳥千尋」を発表。翌9月13日、乃木希典の殉死に影響を受けて5日後に「興津弥五右衛門の遺書」(初稿)を書き終えた。
これを機に歴史小説に進み、歴史其儘の「阿部一族」、歴史離れの「山椒大夫」「高瀬舟 (小説)」などののち、史伝「渋江抽斎」に結実した。ただし、1915年(大正4年)頃まで、現代小説も並行して執筆していた。1916年(大正5年)には、後世の外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」を、1918年(大正7年)1月には随筆「礼儀小言」を著した。
晩年
1916年(大正5年)4月、任官時の年齢が低いこともあり、トップの陸軍省医務局長を8年半つとめて退き、予備役に編入された。その後、1918年(大正7年)12月、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書寮#宮内省図書寮(ずしょのかみ)に、翌年1月に帝室制度審議会御用掛に就任した。
さらに1918年(大正7年)9月、帝国美術院(現日本芸術院)初代院長に就任した。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の諡と元号の考証・編纂に着手した。しかし『帝諡考』は刊行したものの、病状の悪化により、自ら見いだした吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が未完の『元号考』の刊行に尽力し、元号案「昭和」を提出した。
1922年(大正11年)7月9日午前7時すぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、萎縮腎、肺結核のために死去。。で始まる最後の遺言(7月6日付け)が有名であり、その遺言により墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓 」とのみ刻された。向島弘福寺に埋葬され、遺言により中村不折が墓碑銘を筆した。戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。なお、関東大震災後、東京都三鷹市の禅林寺 (三鷹市)と津和野町の永明寺に改葬された。
人物評
評論的啓蒙活動
外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突する。また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老などと6年ほど論争を続けた。
外の論争癖を発端として論争が起きたこともある。逍遥が『早稲田文学』にウィリアム・シェイクスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草紙』に載せたことから論争が始まった。このような形で外が関わってきた論争は「戦闘的評論」や「論争的啓蒙」などと評される。もっとも、30歳代になると、日清戦争後に『めさまし草』を創刊して「合評」をするなど、評論的啓蒙活動は、戦闘的ないし論争的なものから、穏健なものに変わっていった。さらに、小倉時代に「圭角が取れた」という家族の指摘もある。
幅の広い文芸活動と交際
肩書きの多いことに現れているように、外は文芸活動の幅も広かった。たとえば、訳者としては、上記の訳詩集「於母影」(共訳)と、1892年(明治25年)–1901年(明治34年)に断続的に発表された「即興詩人」とが初期の代表的な仕事である。「於母影」は明治詩壇に多大な影響を与えており、「即興詩人」は、流麗な雅文で明治期の文人を魅了し、その本を片手にイタリア各地をまわる文学青年(正宗白鳥など)が続出した。
戯曲の翻訳も多く(弟の三木竹二が責任編集をつとめる雑誌『歌舞伎』に掲載されたものは少なくない)、歌劇(オペラ)の翻訳まで手がけていた。
ちなみに、訳語(和製漢語)の「交響楽、交響曲」をつくっており、6年間の欧米留学を終えた演奏家、幸田延(露伴の妹)と洋楽談義をした(「西楽と幸田氏と」)。そうした外国作品の翻訳だけでなく、帰国後から演劇への啓蒙的な評論も少なくない。
翻訳は、文学作品を超え、ハルトマン『審美学綱領』のような審美学(美学の旧称)も対象になった。単なる訳者にとどまらない外の審美学は、坪内逍遥との没理想論争にも現れており、田山花袋にも影響を与えた。その外は、上記のとおり東京美術学校(現東京藝術大学)の嘱託教員(美術解剖学・審美学・西洋美術史)をはじめ、慶應義塾大学の審美学講師、「初期文展」西洋画部門などの審査員、帝室博物館総長や日本芸術院初代院長などをつとめた。
交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。しかし、教師でもあった夏目漱石のように弟子を取ったり、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。高等官生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。
文学者・文人に限っても、訳詩集「於母影」は5人による共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人をまねいて開かれた。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月までつづいた。伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斎藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて延べ22名)。
また、当時としては女性差別が少なく、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価した。晶子(出産した双子の名付け親が外)やらいてうや純芸術雑誌『番紅花』(さふらん)を主宰した尾竹一枝など、個性的で批判されがちな新しい女性達とも広く交際した。その外の作品には、女性を主人公にしたものが少なくなく、ヒロインの名を題名にしたものも複数ある(「安井夫人」、戯曲「静」、「花子」、翻訳戯曲「ノラ」(イプセン作「人形の家」))。
軍医として
上記にもあるように、外は東京帝國大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医(第一期生)であった。医学先進国のドイツに4年間留学し、帰国した1889年(明治22年)8月–12月には陸軍兵食試験の主任をつとめた。その試験は、当時の栄養学の最先端に位置していた。日清戦争と日露戦争に出征した外は、小倉市時代をのぞくと、つねに東京で勤務、それも重要なポジションに就いており、最終的に軍医総監(中将相当)に昇進するとともに陸軍軍医の人事権をにぎるトップの陸軍省#医務局にまで上りつめた。
ビタミンの存在が知られていなかった当時、軍事衛生学上の大きな問題であった脚気の原因について、日本の脚気史#明治期の主な脚気原因説に同調した。また、経験的に脚気に効果があるとされた麦飯について、海軍の多くと陸軍の一部で効果が実証されていたものの、麦飯と脚気改善の相関関係は(ドイツ医学的に)証明されていなかったため、科学的根拠がないとして否定的な態度をとり、麦飯を禁止する通達を出したこともあった。
日露戦争では、1904年(明治37年)4月8日、第2軍 (日本軍)の戦闘序列(指揮系統下)にあった鶴田禎次郎第1師団_(日本軍)軍医部長、横井第3師団_(日本軍)軍医部長が「麦飯給与の件を森(第2軍)軍医部長に勧めたるも返事なし」(鶴田禎次郎「日露戦役従軍日誌」)との記録が残されている(ちなみに第2軍で脚気発生が最初に報告されたのは6月18日)。その「返事なし」はいろいろな解釈が可能であるが、少なくとも大本営陸軍部が決め、勅令(天皇名)によって指示された戦時兵食「白米6合」を遵守した。結果的に、陸軍で約25万人の脚気患者が発生し、日本の脚気史#日露戦争での陸軍脚気惨害となった。
なお、脚気問題について外は、陸軍省医務局長に就任した直後から、日本の脚気史#原因解明と治療薬開発の創設(1908年・明治41年)に動いた。
脚気の原因解明を目的としたその調査会は、陸軍大臣の監督する国家機関として、多くの研究者が招聘され、多額の予算(陸軍費)がつぎ込まれた。予算に制約がある中、脚気ビタミン欠乏説がほぼ確定して廃止(1924年・大正13年)されたものの、その後の脚気病研究会の母体となった。外が創設に動いた臨時脚気病調査会は、脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたと位置づける見解がある。
反面、「その十六年間の活動は、脚気栄養障害説=ビタミンB欠乏症(白米原因)説に柵をかけ、その承認を遅らせるためだけにあったようなものであった」と否定的にとらえる見解もある。
なお、晩年の外は、同調査会で調査研究中の「脚気の原因」について態度を明らかにしなかった。
脚気惨害をめぐる議論
陸軍の脚気惨害をめぐって、外の責任に関しての議論はたえない。そのうち外への批判として、(副食物が貧弱な)米食を麦食に変えると脚気が激減する現象が多く見られたにもかかわらず、麦食を排除しつづけた姿勢について激しい非難がある。
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- 森鴎外「舞姫」を書きしるした地で: ボランチノ-ト1/22(日)午後、上野公園近くの「森鴎外旧居跡」を訪ねた。「水月ホテル鴎外荘」の一角にあった。「舞姫」の石碑があった。森鴎外の旧居が上野公園近くにあることは知ってはいたが、森鴎外がこの地で「舞姫」を書きしるしたことを知らなかった。
- 43歳からの森鴎外 - プロボノ・メガラニカまえの会社の後輩・Kくんのブログを見ていて、彼が「今年は夏目漱石を読んでいきます」とあったので、そんならおれもやってみようと思い立ったのだが、手元を見たら森鴎外の全集が数冊転がっているではないか。ちくま文庫版である。もう絶版 ...
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- 再読。室生犀星と森鴎外。 - ねーさんとバンビーナの毎日森茉莉も読むべ。 室生犀星は森茉莉のエッセーにもよく登場するんだよねぇ。 家に遊びに来てたみたいだし。 それまで特に整理されてなかった日本語を整理したというか作った人だしね、森鴎外は。 カタカナ言葉を使い出した人っていうかね?
- 乃木希典、森鴎外の親交紹介(1月29日 5時04分)明治の陸軍大将、乃木希典と小説家森鴎外の意外な出会いを紹介する特別展「1887ベルリンの出会い」が、犬山市の博物館明治村で開かれている。 陸軍軍医だった鴎外は、1884年から4年間、ドイツに留学。鴎外の「独逸日記」には87年4月 ...[詳細]
- 森鴎外:小倉時代の挫折と克服紹介 津和野で講演会 /島根(1月22日 14時23分)津和野出身の明治の文豪、森鴎外の誕生日(1月19日)に合わせて、森鴎外記念館(津和野町町田)館長の山崎一頴・跡見学園理事長による記念講演会「挫折と克服-鴎外の小倉時代」が21日、同記念館であった。生誕150周年記念事業の一環で ...[詳細]
- 森鴎外:生誕150周年 津和野高生、ベルリンへ 記念式典に ...(2月3日 14時52分)県立津和野高(塚田幸司校長)の1、2年生の男女5人が、17日にベルリンの森鴎外記念館で開かれる生誕150周年記念式典に派遣される。5人は渡航を約2週間後に控え、鴎外の作品を読んだり、ドイツの文化や歴史を学んだりと、準備に追われて ...[詳細]
- 森鴎外の戯曲を初上演 富大生「手作り」で10日(2月3日 2時56分)富大文学部比較文化コースの学生が10日、森鴎外(おうがい)作の戯曲「なのりそ」 を上演する。学生の指導に当たっている金子幸代教授によると、「なのりそ」はこれまで 舞台で演じられたことはなく、今回が初上演。学生は手作りの舞台で ...[詳細]
- 森鴎外生誕150周年記念講演会(1月21日 21時05分)島根県津和野町出身の文豪・森鴎外(1862~1922年)の生誕150周年記念講演会が21日、同町町田の森鴎外記念館であった。鴎外研究の第一人者で、同記念館長の山崎一穎(かずひで)氏(73)が講演し「左遷先の小倉で、人間としての幅を ...[詳細]
- 森鴎外生誕 150年祝う (1月20日 14時11分)十九日は明治の文豪・森鴎外の百五十回目の誕生日。晩年の三十年間を過ごした文京区内では、さまざまな記念行事が企画されている。 東大医学部、陸軍、ドイツ留学を経て一八八八年に帰国した鴎外は、九二年から文京区千駄木の団子坂上に居を構えた。[詳細]
- 生野文治氏の朗読で森鴎外氏の名作を味わう『i聞庫「高瀬舟」』(1月20日 10時58分)明治・大正期を代表する小説家・森鴎外氏の代表作の一つに「高瀬舟」があります。 今回ご紹介する『i聞庫「高瀬舟」』は、その「高瀬舟」の朗読本アプリです。 ナレーションは、「小林製薬」のCMなどでおなじみの生野文治氏が担当しており、氏の朗読 ...[詳細]
- 生誕150年の鴎外を特集(1月25日 1時34分)小倉北区城内の北九州市立文学館で開催中の「2012年収蔵品展」(4月8日まで)で、軍医として小倉に駐在した森鴎外(1862-1922)の生誕150年を記念した特集が組まれている。 鴎外は1899年から約2年10カ月、小倉に勤務。[詳細]
- 2月2日付 編集手帳(2月1日 23時37分)森鴎外は『青年』に書いている。〈夜の思想から見ると昼の思想から見るとで同一の事相が別様の面目を呈して来る〉と。「知恵」が昼の産物ならば、「策謀」は夜の産物だろう◆歴史上の人物では明智光秀が夜の思考を好んだと伝えられるが、夜は妄想に ...[詳細]
- 〈はじめての青空文庫〉タブレット広まり利用者急増(1月25日 10時23分)昔は、紙の印刷と比べて劣っていた表示もすごくきれいになった。 今は、iPhone(アイフォーン)などで、森鴎外や尾崎紅葉を読んでいます。青空文庫は基本的には著作権が切れた本が多いので、こういった本を読むのにはいいですね。 大学で課題 ...[詳細]
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