日本の作家。本名、泉鏡太郎。1873年(明治6年)彫金象嵌細工職人の子として石川県金沢市に生まれる。
19歳で上京し、尾崎紅葉に師事し、創作活動を開始した。1894年父が死去したため、金沢に戻る。1895年『夜行巡査』『外科室』が好評価を受けて、作家として歩み始めた。1900年『高野聖』により人気を博し、作家としての地位を確立した。
筆致の妙と幻想的・耽美的な作品が特徴である。
代表作は他に『婦系図』『歌行燈』『夜叉ヶ池』『天守物語』『由縁の女』など。
金沢市が1973年に生誕100年を記念して泉鏡花文学賞を設置している。
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泉鏡花 |
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[泉鏡花 人物情報]
Wikipediaの人物情報
泉 鏡花(いずみ きょうか、1873年(明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日)は、明治時代後期から昭和時代初期にかけて活躍した小説家。戯曲や俳句も手がけた。本名、鏡太郎。金沢市下新町生れ。
尾崎紅葉に師事した。『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖 (小説)』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深くうけた怪奇趣味と特有のロマン主義で知られる。また近代における幻想文学の先駆者としても評価される。他の主要作品に『照葉狂言』、『婦系図』、『歌行燈』などがある。
生涯
上京まで
1873年(明治6年)11月4日、石川県金沢市下新町に生れる。父・清次は、工名を政光といい、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。母・鈴は、加賀藩御手役者葛野流大鼓方中田万三郎豊喜の末娘で、江戸の生れ。幼少期における故郷金沢や母親の思い出は後年に至るまで鏡花の愛惜措くあたわざるものであり、折にふれて作品のなかに登場する。
1880年(明治13年)4月、市内養成小学校(現在の金沢市立馬場小学校)に入学。1883年(明治16年)12月に母が次女やゑ出産直後に産褥熱のため逝去し(享年29)、鏡花は幼心に強い衝撃を受ける。
1884年(明治17年)6月、父とともに石川郡松任の摩耶夫人像に詣った。このとき以来、鏡花は終生、摩耶信仰を保持した。9月、金沢高等小学校に進学、翌年には一致教会派のミッション・スクール北陸英和学校に転じ英語を学ぶが、1887年(明治20年)にはここも退学し、市内の私塾で英語などを講じた。金沢専門学校(後の第四高等学校 (旧制))進学をめざしての退学であったようだが、早くに志を改めたらしい。
1889年(明治22年)4月、友人の下宿において尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。また6月に富山旅行。この時期、叔母などに小遣いをせびって貸本を濫読するとともに、私塾の講師のようなことを務めていたが、11月に紅葉の門下に入ることを志して上京。
1891年(明治24年)10月19日、ついに牛込の紅葉宅を訪ね、快く入門を許されて、その日から尾崎家での書生生活をはじめる。翌年12月、金沢市の大火の際に一時帰郷した以外、鏡花は尾崎家にあって、原稿の整理や雑用にあたり、紅葉の信頼をかち得る。
『高野聖』まで
1893年(明治26年)5月、京都日出新聞に真土事件を素材とした処女作「冠弥左衛門」を連載。紅葉の斡旋による。紅葉は新聞社の不評を理由にした打切り要請を説得し、慣れない鏡花にアドバイスを与えながら、ついにこれを完結させた。同年さらに「活人形」(探偵文庫)、「金時計」(少年文学)を発表。8月には脚気療養のため一時帰郷し、その序に京都、北陸に遊んで後に帰京。このときの紀行をもとに『他人の妻』を執筆する。
1894年(明治27年)1月、父が逝去し、再び金沢に帰る。生活の術を失い、文筆をもって米塩の途とせんことを切に願う。「予備兵」「義血侠血」などを執筆し、紅葉の添削を経て読売新聞掲載。実用書の編纂などで家計を支えながら、1895年(明治28年)には初期の傑作「夜行巡査」(文芸倶楽部)と「外科室」(同前)を発表。「夜行巡査」は、『青年文学』において田岡嶺雲の賛辞を得、このおかげで「外科室」は『文芸倶楽部』の巻頭に掲載されることになった。ここに鏡花の文壇における地歩は定まった。この年6月、金沢に帰り、祖母を見舞う。
脚気が完治せず体調は悪かったが、1896年(明治29年)にはさらに「海城発電」(太陽)、「琵琶伝」(国民之友)、「化銀杏」(青年小説)を発表し、賛否両論を受けた。5月には金沢の祖母を引きとって一家を構え、旺盛に執筆を続け、ついに10月には読売新聞に「照葉狂言」の連載をはじめる。1897年(明治30年)に『化鳥』『笈ずる草紙』、1898年(明治31年)に『辰巳巷談』など。このころ酒の味を覚え、盛んに遊び歩く。1899年(明治32年)には『湯島詣』を春陽堂書店から書きおろし刊行。1900年(明治33年)「高野聖」(新小説)、1901年(明治34年)「袖屑風」(同前)、1902年(明治35年)「起請文」(同前)などを世に問う。
『歌行燈』前後
1902年(明治35年)、胃腸病のため逗子市に静養。吉田賢龍の紹介によって知った泉すずが台所を手伝いにくる。翌1903年(明治36年)5月、二人は牛込神楽坂に同棲をはじめる。この年10月30日、尾崎紅葉が急逝し、衝撃を受ける。鏡花は硯友社同人とともに紅葉の葬儀を取り仕切った。
11月、『國民新聞』に「風流線」を連載し始める。1904年(明治37年)、『紅雪録』正続。1905年(明治38年)、「銀短冊」(文芸倶楽部)、「瓔珞品」(新小説)。1906年(明治39年)、「春昼」(同前)。同年には祖母を喪い、胃腸病はさらに悪化してほとんど病床にあった。翌1907年(明治40年)1月、やまと新聞において「婦系図」の連載開始。1908年(明治41年)、『草迷宮』を春陽堂より刊行。1909年(明治42年)、「白鷺 (小説)」(東京朝日新聞)。1910年(明治43年)、「歌行燈」(新小説)、「三味線堀」(三田文学)。「三味線堀」掲載にあたっては鏡花を評価していた永井荷風の好意を受ける。この年から『袖珍本鏡花集』(五巻)の発行が始まり、すでにその文名は確立。人気作家の一人となっていた。
1911年(明治44年)、『銀鈴集』を隆文館より刊行。1912年(大正元年)、「三人の盲の話」(中央公論)、1913年(大正2年)、「印度更紗」(同前)。大正期には戯曲にも志を持ち、1913年には「夜叉ヶ池」(演芸倶楽部)、「海神別荘」(中央公論)を発表。1914年(大正3年)、『日本橋』を千章館より刊行し、ここではじめて装画の小村雪岱とのコンビを組む。1915年(大正4年)、「夕顔」(三田文学)。『鏡花選集』と『遊里集』を春陽堂より刊行。1916年(大正5年)、『萩薄内証話』。1917年(大正6年)、「天守物語」(新小説)。1919年(大正8年)、「由縁の女」を『婦人画報』に連載開始。1920年(大正9年)1月、「伯爵の釵」(婦女界)。このころ映画に興味を持ち、谷崎潤一郎や芥川龍之介と相知る。1922年(大正11年)、「身延の鶯」を東京日日新聞に連載開始。同年、『露宿』『十六夜』。1924年(大正13年)、「眉かくしの霊」(苦楽)。
晩年
1925年(大正14年)、改造社より『番町夜講』刊行。また春陽堂より『鏡花全集』刊行開始、鏡花を師と仰ぐ里見弴、谷崎潤一郎、水上瀧太郎、久保田万太郎、芥川龍之介、小山内薫が編集委員を務めた。(1927年に完結)。1927年(昭和2年)、「多神教」(文藝春秋)。この年8月、東京日日新聞と大阪日日新聞の招待で十和田湖、秋田などを旅行。またこの年から、鏡花を囲む九九九会(くうくうくうかい)が、里見と水上を発起人として始まり、常連として岡田三郎助、鏑木清方、小村雪岱、久保田万太郎らが毎月集まった。会の名は、会費百円を出すと一円おつりを出すというところから。1928年(昭和3年)、肺炎に罹患し、予後静養のために修善寺温泉を訪れる。この年、各社の文学全集(いわゆる円本)で鏡花集が刊行される。1929年(昭和4年)、能登半島に旅行。この前後、紀行文の類が多い。1930年(昭和5年)、「木の子説法」(文藝春秋)。1931年(昭和6年)、「貝の穴に河童の居る事」(古東多万)。1932年(昭和7年)、「菊あはせ」(文藝春秋)。1934年(昭和9年)、「斧琴菊」(中央公論)。1936年(昭和11年)、戯曲「お忍び」(中央公論)。1937年(昭和12年)、晩年の大作「薄紅梅」を東京日日新聞、大阪毎日新聞に連載する。「雪柳」を中央公論に発表。帝国芸術院会員に任ぜられる。1938年(昭和13年)、体調悪く、文筆生活に入って初めて一作も作品を公表しなかった。
1939年(昭和14年)7月、「縷紅新草」を『中央公論』に発表するも、この月下旬より病床に臥し、9月7日午前2時45分、癌性肺腫瘍のため逝去。10日、芝 (東京都港区)青松寺にて葬儀がおこなわれ、雑司ヶ谷霊園に埋葬。戒名は幽幻院鏡花日彩居士。佐藤春夫の撰に係る。
家族
母鈴は葛野流大鼓方中田万三郎豊喜の娘で、その兄(次男)金太郎は請われて宝生流シテ方の松本家に養子入りした。すなわち宝生九郎知栄の高弟として知られた能楽師松本金太郎 (能楽師)がこれで、その子松本長は鏡花の従兄にあたる。長の長男は俳人松本たかし、次男は松本惠雄(人間国宝)。
弟も作家で、鏡花の舎弟だというので泉斜汀を名乗ったが、あまり成功しなかった。
母は、鏡花にとって終生追慕の対象であった。12歳で松任の「成の摩耶祠」を訪れたとき、摩耶夫人像を母の面影に重ねて以来、彼は死ぬまで摩耶夫人を信仰していた。
妻・すずはもともと神楽坂に桃太郎という名で出ていた芸妓で、師紅葉は二人の関係を絶対にゆるさず、「女を捨てるか、師匠を捨てるか」とまで鏡花に迫った。二人はお互いを想いながらも泣く泣く離別を決意し、この体験が『婦系図』の湯島天神の場の下敷きになっているという。紅葉の没後、鏡花はすずと結婚し、夫婦仲ははなはだよかった。終生互いの名を彫った腕輪を身辺から離さなかったという。
尾崎紅葉
鏡花にとっての尾崎紅葉は、敬愛する小説家、文学上の師であると同時に、無名時代の自分を書生として養ってくれた恩人であり、鏡花は終生このことを徳として旧師を慕いつづけた。ほとんど崇拝といってもいいその態度は文壇でも有名なものであった。病床にあってなお紅葉は愛弟子鏡花の行末を案じ、原稿を求めてはこれに添削を加え続けたという。没後は自宅の仏壇にその遺影を飾って毎日の礼拝を怠らなかった。葬儀で門弟代表として弔辞を読んだのも鏡花である。
処女作『冠弥左衛門』が1894年(明治27年)に加賀北陸新報に転売、再連載されたことも、おそらく紅葉の口利きによるものと思われる。
鏡花がほとんど旧師紅葉を神格化していたのに対し、同郷・同窓・同門の徳田秋声は師とのあいだに距離を置き、自然主義一派に加わったため、二人の仲はよくなかった。改造社で「円本」を出す際、弟子の了解をとるべく社長の山本実彦が秋声を訪ねると、「では鏡花のところへも行こう」というので行き、話していると、秋声が、「紅葉はお菓子が好きでたくさん食べたから胃を悪くして死んだのだ」と言ったところ、鏡花は火鉢を飛び越えて行って秋声を殴り、山本が間に入って秋声を外へ引きずり出したが、車の中で秋声は泣き通していたという。しかし後年、鏡花の弟(泉斜汀)が秋声の所有のアパートで没して以来、二人は和解し、交流を持つようになった。鏡花が死んだ時、里見弴があちこち知らせに歩いていると秋声が来て、今死んだと伝えると「駄目じゃあないか、そんな時分に知らせてくれたって!」と怒ったという(里見弴「二人の作家」)、ちなみに『秋声全集』は近年になり八木書店で刊行された。
尾崎家の書生時代、石橋忍月のところへ使いに行った際に柿をもらい、紅葉への使いものと知らずに食べてしまって、後からいたく恐縮したことがあった。また「大福餅を買ってこい」といわれて、菓子屋に大福を売っているとは思ってもみなかった鏡花は、わざわざ遠くの露天へ行って屋台のやすい大福を買ってき、紅葉に笑われたことがある。
潔癖症
鏡花は有名な潔癖で、このことは文壇にひろく知られていた。食事は家で夫人の作るものしか口にせず、もらいものの菓子をアルコール・ランプで炙って食べたり、酒などはぐらぐらと煮立つまで燗をつけなければ絶対に飲まなかった(これを文壇で「泉燗」と称した)。手づかみでものを食べるときは、つかんでいた部分は必ず残して捨てた。手元にいつでもちんちんと鳴る鉄瓶があって煮沸消毒できるようになっていないと不安がったという。
潔癖症のせいで「豆腐」の用字を嫌い、かならず「豆府」と書いた。しかしそのわりに豆腐そのものは好きでよく食べ、貧乏時代はおからでもっぱら飢えをしのいだ。
谷崎潤一郎、吉井勇と鳥鍋を囲んだとき、無頓着な谷崎は「半煮えくらいがうまい」といって次々に鳥を引きあげてしまうので、火の通った肉しかこわくて食えない鏡花は「ここからは私の領分だから手を出すな」と鍋に線を引いたという。
中華料理にさそわれて知らずに蛙の揚げものを食べてしまい、「とんだことをした」とあわてて宝丹を一袋ぜんぶ飲んだことがある。生ものはむろんだが、海老、蝦蛄、蛸のようなグロテスクなかたちをしたものも絶対に口にしなかった。
お辞儀をするとき、畳に触るのは汚いと手の甲を畳につけていた。ただし信仰心はきわめて厚く寺社仏閣の前ではかならず土下座したと伝えられる。また、自宅の天井板の合わせ目には全て目張りを行っていた。
狂犬病をおそれてイヌぎらいだった。ヘビもきらいだったそうだが、作品にはよく登場する。
逸話
- デビュー当時、ペンネームに「畠芋之助(はたけいものすけ)」を用いたことがある。
- 家紋は「笹リンドウ」だが、紅葉にあやかって「香の図」の紅葉賀を常用していた。
- 酉年生れの鏡花は向かい干支の兎にちなむものをコレクションするのが趣味だった(本人は母親に兎のものを大切にせよと教わったとしるしている)。マフラーにまで兎柄を用いた鏡花は収集品が大の御自慢で『東京日日新聞』の「御自慢拝見」という欄に登場したこともある。
- 文字の書かれたものを大切にすることはなはだしく、「御はし」と書いてある箸袋程度でも大事にしまっておろそかにはしなかった。人に字を教えるのに畳の上などに空で書いたあとはかならず手で掻き消すしぐさをしないと承知しなかったという。几帳面で原稿などは校正ののちかならず手元に戻して自分で保管した。原稿の大半は生涯筆で書きつづけた。
- 鏡花の作品は生涯総ルビで発表されつづけた。初版本の古書価は、2.30年前と比べ数倍値上がりしている。
- 着物の描写が丁寧で細密なことは鏡花作品の特徴だが、これは三越婦人部の発行していた『時好』というカタログ雑誌を知りあい女の人からわけてもらい、それを見て研究したものだという。鏡花はこれを紅葉に教えられた取材の方法であるといっている。
- 著書の装訂、挿絵の大半は鏑木清方か小村雪岱によるもので、ことに雪岱はその号を鏡花が名づけて以来の名コンビだった。色の好みもはっきりしていて、紺のような濃い色を嫌った。小村雪岱『日本橋桧物町』(新版は平凡社ライブラリー)に鏡花の回想記がある。清方も2006年に鏑木清方記念美術館刊で『鏑木清方挿絵図録. 泉鏡花編』が出されている。
- 里見とんは、鏡花と家が近かったために作家デビューの頃から始終行き来したが、当初、弟子ではないからというので「泉さん」と呼んでいたため、それを聞き咎めた鈴木三重吉が、酒乱に際し里見を叱りつけた。その後、指導を受けるようになり、「先生」と呼ぶようになる。ただし里見本人はお化けは信じていなかった。
- 幽幻院鏡花日彩居士という戒名は、弔問に訪れた文人たちが各々撰した中より佐藤春夫のものが選ばれたといわれる。
- 『鏡花全集』は大正末期に春陽堂で全15巻(復刻版がエムティ出版、1994年)が、没後は岩波書店から全28巻が1940-42年(昭和15-17年)に刊行されたが、1973-76年(昭和48-51年)と1986-88年(昭和61-63年)に、新たに別巻(資料集ほか)を加え復刊されるまで、戦後しばらくは古書値が高価だった。
- 金沢市が主催している泉鏡花文学賞の正賞記念品は「八稜鏡」。鏡花好みの兎があしらわれている。
作品集
- 『鏡花全集』(全28巻別巻1、岩波書店) ほぼ全文業を収める。
- 『鏡花小説・戯曲選』 全12巻、岩波書店 「全集」の版型を用いる。
- 『新編泉鏡花集』 全10巻別巻2冊、岩波書店 2003-05年
- 別巻1は『全集』未収録の文集などが、別巻2は吉田昌志による詳細年譜がある。
- 『日本古典文学大系 明治編22.泉鏡花集』 岩波書店、2002年
- 東郷克美、吉田昌志による詳細な校注で明治期の5作品を収める。
- 『泉鏡花集成』 ちくま文庫全14巻、1995-97年、種村季弘編・解説、版元品切
- 『明治の文学第8巻 泉鏡花』 筑摩書房、2001年、四方田犬彦編・解説
作品解題
- 冠彌左衛門(1893年)小説
- 活人形(1893年)小説
- 金時計(1893年)小説
- 大和心(1894年)小説
- 予備兵(1894年)小説
- 海戦の余波(1894年)小説
- 譬喩談(1894年)小説
- 義血侠血(1894年)小説
- 乱菊(1894年)小説
- 鬼の角(1894年)小説
- 取舵(1895年)小説
- 聾の一心(1895年)小説
- 秘妾伝(1895年)小説
- 夜行巡査(1895年)小説
- 旅僧(1895年)小説
- 外科室(1895年)小説
- 妙の宮(1895年)小説
- 鐘声夜半録(1895年)小説
- 貧民倶楽部(1895年)小説
- 黒猫(1895年)小説(一部を欠いている)
- ねむり看守(1895年)小説
- 八万六千四百回(1895年)小説
- 化銀杏(1896年)小説
- 一之巻(1896年)小説
- ニ之巻(1896年)小説
- 三之巻(1896年)小説
- 四之巻(1896年)小説
- 五之巻(1896年)小説
- 六之巻(1896年)小説
- 誓之巻(1897年)小説
- 蓑谷(1896年)小説
- 五の君(1896年)小説
- 紫陽花(1896年)小説
- 毬栗(1896年)小説
- 照葉狂言(1896年)小説
(鞠唄)母を亡くし叔母と住んでいる14歳の少年貢の家から広岡の姉上と慕う女性の家にかけて青楓が茂っていた。少年は近所の小母さんに鞠唄を教える代わりに継子いじめの御伽噺をしてもらって激しく泣いた。その声に驚いた広岡の姉上が見に来てくれたが、彼女も継母に養われていた。(仙冠者)貢の住むところは金沢の乙剣の宮の近くで仕舞家の並ぶ閑静な場所であった。広岡の姉上の家は宮と垣根越しになっていたので、そこでしばしば顔をあわせた。宮の近くに住むガキ大将の国麿は一緒に遊ぶことを貢に強要し、仙冠者牛若三郎の役をやれと言う。(野衾)貢は母の死後、しばしば町外れの観世物小屋に通い、かつて牛若に扮したことのある小親という女能役者に心をひかれた。偶然、木戸で小親に会うと小親は貢を袖で覆い頬に接吻したが、貢にはそれがあたかも野衾に襲われたように思われた。そして小親の好意で桟敷に座布団を敷いてもらい菓子をもらって舞台を観ていると小親も桟敷に来て貢にそっと頬擦りするのであった。(狂言)貢は偶然観世物小屋で国麿に会い、国麿は女能役者など乞食同然とののしった。そこに来合わせた小親は貢が女狂言を無心で楽しんでくれるのが芸人冥利に尽きるのだと国麿に言った。(夜の辻)小親が貢を家に送って行き、広岡の姉上と会った。そして博打好きの貢の叔母たちが警察に連行される現場に出くわしてしまった。(仮小屋)叔母が捕まった後、小親に養われ芸を仕込まれた貢は8年後に金沢にやってきた。金沢に洪水があったためにいま観世物の仮小屋は広岡の姉上の家の裏手に出来ていた。(井筒)貢は広岡の継母の話で姉上が金のために養子をもらい、その養子に大層苛められていることを知った。そしてその養子が小親に思いを寄せているので小親に彼を誘惑させて、それを理由に養子を離縁して姉上を自由にしようと貢は考えた。(重井筒)小親は持病のリュウマチが発病し、自らの行く末をはかなみ、貢の考えどおり自分が養子を誘惑して犠牲になろうと思った。(峰の堂)貢は姉上は救いたいし小親は犠牲にできないというデイレンマに悩み、やがて峰の堂に辿り着き、そこから行方知れずの旅に出るのであった。
戯曲
- 夜叉ヶ池 篠田正浩監督 坂東玉三郎主演 冨田勲音楽 1979年
- 天守物語 坂東玉三郎監督・主演、宮沢りえ共演で映画化 1997年
- 海神別荘 玉三郎、市川海老蔵 (11代目)で歌舞伎座で公演。2006年7月
- 山吹 以上4作品が歌舞伎で舞台化。
伝記
- 村松定孝 『泉鏡花研究』 冬樹社 1974、定本版:有精堂出版 1996
- 『あぢさゐ供養頌 わが泉鏡花』 新潮社、1988
- 『ことばの錬金術師 泉鏡花』 現代教養文庫、復刊1993
- 巖谷大四 『人間泉鏡花』 東京書籍、1979 福武文庫、1988
- :全て絶版、未だ本格的な伝記はない。
外部リンク
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- 永らく絶版だった日本製ブリキ玩具のバイブル本『ブリキの ...(2月8日 13時27分)1979年に大阪ブリキ玩具資料室から出版された熊谷 信夫著『ブリキのオモチャ』が iPad の電子ブックとして発売いたしました。2000年にグリーンアロー出版社から復刻増補版が出版されてから12年、初版から数えて33年目になります。日本製ブリキ玩具の ...[詳細]
- 郷土の偉人、児童が紹介 金沢、学習成果を冊子に(2月8日 3時04分)泉鏡花や室生犀星を調べた学校は、文豪の生い立ちや作品を解説。市内を流れる辰巳用 水を整備した板屋兵四郎、「Z項」を発見した木村栄を選んだ学校もあり、各ページには 偉人に親しんだ児童の感想も添えられた。 冊子はA4判約50ページで、偉人 ...[詳細]
- 人形劇団「ひとみ座」との合同事業について(2月7日 19時12分)1983年度には神奈川文化賞、川崎市文化賞を同時受賞。子どもを対象にした作品に加えて、「リア王」(俳優座劇場、新国立劇場)などのシェイクスピア作品、安部公房や泉鏡花の戯曲、大人を対象にした人形劇も数多く創り、一方「乙女文楽」などの伝統 ...[詳細]
- 2月14日に関するプレスリリース(2月6日 18時02分)この度、株式会社CHINTAIは、iPhoneアプリ「ご近所駐輪場マップ」より駐輪場情報を投稿して頂いた方にプレゼントが当たるキャンペーンを1月30日(月)から開始致しました。 本キャンペーンは、アプリの情報の...[詳細]
- 《シネマ歌舞伎》海神別荘(2月2日 23時50分)[監督]戌井市郎 [監督][出演]坂東玉三郎 [原作]泉鏡花 [美術]天野喜孝 [出演]市川海老蔵/市川門之助/市川笑三郎/市川猿弥 歌舞伎の舞台作品を高性能カメラで撮影し、デジタル上映する新しい歌舞伎観劇「シネマ歌舞伎」シリーズの一作。昭和30年に初演 ...[詳細]
- 開館15周年!新国立劇場 2012/2013シーズン オペラのラインアップが発表(1月24日 17時56分)その他には『トスカ』『セビリアの理髪師』『愛の妙薬』といったイタリア・オペラの名作、モーツァルトのオペラ2作『魔笛』『コジ・ファン・トゥッテ』、そして新国立劇場3年ぶりとなる新作オペラとして、泉鏡花原作の創作委嘱作品『夜叉ヶ池』(世界 ...[詳細]
- amanoiwatoさんも「はてなブックマーク」を使っています。(2月2日 8時55分)はてなブックマークはオンラインでブックマークを管理・共有できる無料サービス。自宅、職場、外出先、どこからでも同じブックマークにアクセスできます。ユーザーはみんなでブックマークを共有して効率良く情報収集しています。はてなブックマーク ...[詳細]
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