日本の作家。本名、徳富健次郎。
1868年惣庄屋兼代官の子として熊本県水俣に生まれる。父は漢学者の徳富一敬、兄は徳富蘇峰。
京都同志社に学び、キリスト教の洗礼を受けた。
1890年兄の経営する民友社に入り、同社の「国民新聞」や「国民之友」に史伝や短編小説などを寄稿した。1898年に連載を開始した『不如帰』がベストセラーとなって名声を得た。
1903年兄との意見の相違から民友社を去る。1907年パレスチナに巡礼し、トルストイを訪問。帰国の翌年には武蔵野で「美的百姓」という半農生活を始めた。1910年大逆事件で幸徳秋水の処刑を阻止しようと尽力したが間に合わず『謀反論』を発表した。
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徳富蘆花 |
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[徳富蘆花 人物情報]
Wikipediaの人物情報
徳冨 蘆花(とくとみ ろか、本名は徳富健次郎、1868年12月8日(明治元年10月25日 (旧暦)) - 1927年(昭和2年)9月18日)は、日本文学の小説家。近年では探偵小説の作家としても注目されている。思想家・ジャーナリストの徳富蘇峰(猪一郎)は実兄である。本人は「徳冨」(「富」ではなく「冨」)の表記にこだわり、各種の文学事典、文学館、記念公園などは「冨」の字を採用している。
蘆花という号の由来は「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ。然もその見所なきを余は却って愛するなり」と自ら述べていることで明らかである。
生涯
横井小楠門下の俊英であった父・徳富一敬の次男として肥後国に生まれる。熊本バンドの1人として同志社英学校に学びキリスト教の影響を受け、レフ・トルストイに傾倒する。後年、夫人とともに外遊の際、トルストイの住む村を訪れ、トルストイと会見した。そのときの記録『順礼紀行』は、オスマン帝国治下のエルサレム訪問記も含めて、貴重な記録となっている。
兄・徳富蘇峰の下での下積みの後、自然詩人として出発し、小説『不如帰 (小説)』はベストセラーになった。また、随筆『自然と人生』はその文章が賞賛され、一気に人気作家となった。しかし、国家主義的傾向を強める兄 蘇峰とは次第に不仲となり、1903年(明治36年)に蘇峰への「告別の辞」を発表し、絶縁状態となる。
1906年(明治39年)、第一高等学校 (旧制)にて最初の講演会を行なう。『勝の哀(かちのかなしみ)』の演題で、ナポレオンや児玉将軍を例に引き、勝者の胸に去来する悲哀を説き、一時の栄を求めず永遠の生命を求める事こそ一日の猶予もできない厳粛な問題であると説いた。この演説に感動した一高生の何人かは荷物をまとめて一高を去ったという。
1907年(明治40年)、北多摩郡千歳村字粕谷(現・東京都世田谷区粕谷)に転居、死去するまでの20年間をこの地で過ごした。1910年(明治43年)の大逆事件の際、幸徳秋水らの死刑を阻止するため、蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願しようとするが間に合わず処刑されてしまう。直後に再び第一高等学校 (旧制)での講演を依頼されると『謀叛論』の題で論じ、学生に深い感銘を与えた(この講演を依頼した学生が、後に日本社会党委員長となる河上丈太郎や、文部大臣となった森戸辰男だった)。
1927年(昭和2年)、病に倒れる。伊香保温泉で蘇峰と再会和解し「後のことは頼む」と遺言し亡くなったという。享年満58歳。
蘆花の死後、旧邸宅は夫人より東京市に寄贈され、現在は蘆花恒春園(面積約7万平方メートル)として開放されている。夫妻の墓のほか、徳冨蘆花旧宅も保存されている。蘆花の名前は、公園から徒歩5分の位置にある世田谷区立芦花小学校・芦花中学校、徒歩15分の位置にある京王電鉄京王線芦花公園駅にも残っている。熊本県熊本市には徳冨蘆花記念園、群馬県渋川市に「徳冨蘆花記念文学館」がある。
作品・日記
- 『不如帰 (小説)』(1898年 - 1899年)
- 『灰燼』
- 『黒い目と茶色の目』
- 『自然と人生』(1900年)
- 『思出の記』(1900年 - 1901年)
- 『黒潮』(1902年)
- 『寄生木(やどりぎ)』
- 『みみずのたはこと』(1913年)
- 『蘆花日記』 全7巻、筑摩書房-大正初期の日記
関連項目
- 留岡幸助
- 木下尚江
- 内村鑑三
- 前田河広一郎
参考文献
- 新版『中野好夫集 9・10・11巻』 筑摩書房、1984年。
- 菱木定男 「感動した銚子の日の出―徳富蘆花の「自然と人生」」岡見晨明編 『銚子と文学-甦る言葉の海流-』より、東京文献センター、2001年6月、ISBN 978-4925187206。
- 熊本県立大学編『至宝の徳冨蘆花』熊本日日新聞(熊日新書)、2009年6月。
外部リンク
- 徳冨 蘆花:作家別作品リスト(青空文庫)
- 徳冨蘆花記念文学館
- 徳冨蘆花 作品リスト(近代デジタルライブラリー)
- 徳冨蘆花と伊香保温泉 - 渓流斎日乗伊香保温泉 明治の文豪徳冨蘆花(1868年~1927年)は、明治31年5月に初めて上州の伊香保温泉にある千明仁泉亭(ちぎらじんせいてい=文亀2年-1502年創業の旅館)に妻愛子とともに逗留して、すっかり伊香保が気に入ります。
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