橋本雅邦

ハシモトガホウ
Hashimoto, Gaho
1835年08月21日~1908年01月13日
[日本] [絵画]

[橋本雅邦 人物情報]

日本画家。1835年8月21日(天保6年7月27日)川越藩の絵師の子として江戸に生まれる。
1847年、13歳で狩野雅信の門下となり、同日に入門した狩野芳崖と出会う。2人は徐々に頭角を現して狩野門下の二神足と並び称された。御用絵師として松平周防守に仕え、周防守川越転封とともに川越藩士となったが幕末期は絵師としての生活は困窮を極めた。
維新後、フェノロサ、岡倉天心と出会い、同門の狩野芳崖を加えて「鑑画会」を設立。1889年に開校された東京美術学校に教授として迎えられた。1898年同校の校長であった岡倉天心が東京美術学校騒動で辞職すると横山大観らとともに辞職して日本美術院創立に加わった。
橋本雅邦は古典に依拠しながら新しい日本画を模索し、近代日本画の基礎をつくった。狩野派最後の画家でもある。
代表作「白雲紅樹」「竜虎図」など。

Wikipediaの人物情報

橋本 雅邦(はしもと がほう、男性、天保6年7月27日 (旧暦)(1835年8月21日) - 明治41年(1908年)1月13日)は、明治期の日本画家。幼名は千太郎。号は勝園

生涯

父の橋本養邦(はしもとおさくに)は武蔵国(埼玉県)川越藩の御用絵師であり、木挽町狩野家当主狩野養信(せいせんいん おさのぶ)の高弟として同家の邸内に一家を構えていた。このため雅邦は天保6年にこの木挽町狩野家の邸内に生まれている。

慣習に従い5歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受け、12歳の時正式に父と同じく養信に入門する。ただし養信はこの一月後に没したため、実際にはその後継者である狩野雅信(しょうせんいん ただのぶ)を師としたと見てよい。この時同日に狩野芳崖も入門しており、7歳年上で穏和な人柄の雅邦と激情家の芳崖と性格は正反対であったが、共に現状の狩野派への不満と独創的表現への意欲を共有し、生涯の親友となる。両者は早くに頭角をあらわし、「勝川院の二神足」と称されたとされている。同年、川越藩士となる。

安政7年(1860年)にとめ子と結婚し、雅邦の号をもらって絵師として独立する。しかし当時既に絵画の需要は少なく、また明治維新の動乱に際しては一時藩主のいる川越に避難することになる。更に明治3年(1870年)に木挽町狩野家は火災で焼失、雅邦も財産のほとんどを焼失してしまう。翌年には出仕していた川越藩も廃止され、兵部省の海軍兵学校 (日本)において図係学係として製図を行うようになった。この後狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、一時は油絵を描くことさえ余儀なくされた。

転機となったのはフェノロサによる伝統絵画の復興運動であり、フェノロサの庇護を受けていた芳崖と共に新しい表現技法を模索するようになる。明治15年(1882年)の第一回内国絵画共進会では、《琴棋書画図》が銀印主席を取り、同じく出品した《竹に鳩》が宮内省の御用となっている。明治17年(1884年)にフェノロサが鑑画会を発足すると早い時期から参加し、盛んに制作を行うようになる。

明治19年(1886年)には海軍兵学校を辞し、文部省の絵画取調所に出仕するようになる。こうしてフェノロサ・岡倉天心の指揮下で芳崖と共に東京美術学校の発足に向けて準備を進めるが、開校を目前にした明治22年(1889年)に芳崖は死去、その絶筆である《悲母観音》の仕上げを任された。このため明治23年の東京美術学校開校に際しては、芳崖の代わりに絵画科の主任となった。さらに同年に帝室技芸員制度が発足すると第一次のメンバーに選ばれ、これにより名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた。

東京美術学校では、下村観山や横山大観、菱田春草、川合玉堂、寺崎広業らを指導しており、その指導が近代美術に及ぼした影響は大きい。しかし明治31年(1898年)には岡倉が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し日本美術院の創立に参加した。

以後は在野でありながらも画壇の重鎮として重んじられ、美術院の活動の傍ら後続の指導などを行っている。

明治41年(1908年)に死去。

画業

同門の狩野芳崖ともに、日本画の「近世」と「近代」を橋渡しする位置にいる画家。芳崖と共に、狩野派の描法を基礎としつつも洋画の遠近法等の技法を取り入れ、明治期の日本画の革新に貢献した。代表作の一つである《白雲紅樹》では、従来の山水画を基にしながら、月の光と空気の透明性を微妙な色彩で表現している。

代表作品

  • 《白雲紅樹》1890年/東京藝術大学大学美術館(重要文化財)
  • 《竜虎図》1895年/静嘉堂文庫(重要文化財)

関連項目

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