Masaoka, Shiki

正岡子規

マサオカシキ
Masaoka, Shiki
1867年10月14日~1902年09月19日
[日本] [詩歌]

[正岡子規 人物情報]

日本の俳人・歌人。本名、正岡常規。1867年10月14日(慶応3年9月17日)現在の愛媛県松山市に生まれる。
1883年上京して東大予備門に入学。1892年東京帝国大学国文科を中退して日本新聞社に入社し、俳句の革新活動に尽力した。1898年前年に創刊された『ホトトギス』を東京に移し中心となって活躍する。1898年『歌よみに与ふる書』を新聞「日本」に連載。
34歳で結核で死去。
正岡子規は古今集を否定して万葉集を評価するなど、写生文を提唱した。

Wikipediaの人物情報

にある子規記念博物館

正岡 子規(まさおか しき、慶応3年9月17日 (旧暦)(1867年10月14日) - 明治35年(1902年)9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家である。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに(のぼる)と改めた。

俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人である。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。

経歴

伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)に伊予松山藩藩士正岡常尚と八重の間に長男として生まれた。母は、藩の儒者大原観山の長女。

明治5年(1872年)、幼くして父が没したために家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。外祖父・観山の私塾に通って四書の素読を習い、翌年には末広小学校に入学し、後に勝山学校に転校。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。また自由民権運動の影響を受け、政談にも関心を熱中したという。

明治13年(1880年)、旧制愛媛一中(現・愛媛県立松山東高等学校)に入学。明治16年(1883年)、同校を中退して上京し、受験勉強のために共立学校(現・開成中学校・高等学校)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち第一高等学校 (旧制)、現・東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。明治23年(1890年)、東京大学哲学科に進学したものの、後に文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行う。

愛媛一中、共立学校で同級だった秋山真之とは、松山在住時からの友人であり、また共通の友人として勝田主計がいた。東大予備門では夏目漱石・南方熊楠・山田美妙らと同窓。

大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で明治25年(1892年)に新聞『日本_(新聞)』の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。明治26年(1893年)に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。明治27年(1894年)夏に日清戦争が勃発すると、翌28年(1895年)4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍 (日本軍)#日清戦争における第2軍兵站部軍医部長の森鴎外(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についた。その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。明治30年(1897年)に俳句雑誌『ホトトギス_(雑誌)』(ほとゝぎす)を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。

短歌においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本 (新聞)』に連載。古今和歌集を否定し万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新につとめた。根岸短歌会は後に伊藤左千夫・長塚節・岡麓らにより結社『アララギ』へと発展していく。

やがて病いに臥せつつ『病牀六尺』を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録と、現在まで読まれている。

同時期に病床で書かれた日記『仰臥漫録』の原本は、兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に収蔵されている。

年譜

※日付は1872年までは旧暦
  • 慶応3年(1867年)9月:伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市花園町)に伊予松山藩藩士・正岡常尚の長男として生まれる。
  • 明治元年(1868年):湊町新町に転居
  • 明治5年(1872年)4月:父・常尚が死去
  • 明治6年(1873年):寺子屋式の末広学校に通う
  • 明治8年(1875年)
    • 1月:勝山学校(現・松山市立番町小学校)へ転校
    • 4月:祖父観山死去。土屋久明に漢学を学ぶ 
  • 明治11年(1878年):初めて漢詩を作り久明の添削を受ける
  • 明治12年(1879年)12月:勝山学校卒業
  • 明治13年(1880年)3月:松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)入学
(明治16年)11月、東京・新橋 (東京都港区)での記念写真。前列左より藤野潔(古白)、安長知之、正岡子規、後列左より三並良、太田正躬。
  • 明治16年(1883年)
    • 5月:大学予備門受験のために松山中学を退学
    • 6月:東京へ出る
    • 10月:共立学校(現・開成中学校・高等学校)入学。
  • 明治17年(1884年)9月:東京大学予備門(のち第一高等中学校 )へ入学。俳句を作り始める
  • 明治21年(1888年)
    • 7月:第一高等中学校予科卒業
    • 9月:本科へ進級 常磐会寄宿舎に入る
  • 明治22年(1889年)5月:喀血。初めて「子規」と号 (称号)す。
  • 明治23年(1890年)
    • 7月:第一高等中学校本科卒業
    • 9月:東京大学文科大学哲学科入学 
  • 明治24年(1891年)1月:国文科に転科 
  • 明治25年(1892年)
    • 10月:退学
    • 12月:日本新聞社入社
  • 明治28年(1895年)4月:日清戦争に記者として従軍、その帰路に喀血
  • 明治29年(1896年)1月:子規庵で句会
  • 明治31年(1898年)3月:子規庵で歌会
  • 明治33年(1900年)8月:大量の喀血
  • 明治35年(1902年)9月:死去。享年34。東京都北区田端の大龍寺に眠る。
  • : 辞世の句「ヘチマ咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」より、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。

人物

  • 英語が苦手だった。試験の際にカンニングをしたことがある。"judiciary"の意味がわからなかった子規が隣にいた人に意味を聞いたところ、「ほうかん」と言われた。本当は「裁判官」という意味だったが、「幇間」だと思って解答用紙に書いてしまった。ちなみに、子規はこの試験に合格したが、カンニングの手伝いをした人は不合格になったという。
  • 漱石とは子規本人だけでなく子規の親族も交遊があり、子規の遠縁にあたるタレントの歌原奈緒が、TVのインタビューで「曾祖父が子規といとこで、本人も俳句を詠んでいたそうです。夏目漱石とも親交があったと聞いています」と話している。
  • 松山に漱石が居た時に鰻丼を奢ると言って、その代金を漱石に払わせた。
  • 本来、毎月や月ごとなどを意味する「月並み」という言葉が、『陳腐、平凡』という意味も含んだのは、正岡子規がありふれた俳句や短歌を「月並み調」と批判したことが始まりとされる。当時和歌や発句は「月並み句会」と呼ばれる月例の句会で詠み合わせをすることが多かった。
  • 同郷の言語学者・小川尚義は、松山中学、一高、帝大の後輩にあたり、一高時代から交友があった。小川が帝大を卒業した1896年7月に一時帰省する際、「十年の汗を道後のゆに洗へ」の句を贈った。(道後温泉「椿の湯」湯釜にも刻印されているが、そこでは「ゆ」が「温泉」となっている)
  • 「柿くへば・・」の名句は、療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた漱石作「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句である。
  • 子規没後の正岡家が描かれる後日談的な作品に『ひとびとの跫音』がある。

子規と野球

子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、明治22年(1889年)に喀血してやめるまでやっていた。ポジションは捕手であった。自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある(ただしベースボールを野球(やきゅう)と訳したのはこれより後、中馬庚が始めである。野球#野球という言葉の語源を参照のこと)。また「まり投げて見たき広場や春の草 」「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。これらのことが評価され子規は平成14年(2002年)、野球殿堂 (日本)入りを果たした。

なお、子規が「野球」という雅号を用いたのは中馬庚が「ベースボール」を「野球」と翻訳する4年前の明治23年(1890年)である。つまり、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚であるが、読み方は異なるが「野球」という表記を最初に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したのは子規である。

雅号

雅号の子規とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。

また別号として、獺祭書屋主人・竹の里人・香雲・地風升・越智処之助(おち ところのすけ)なども用いた。「獺祭書屋主人」の「獺」とはカワウソのことである。これは『礼記』月令篇に見える「獺祭魚」なる一文を語源とする。かつて中国において、カワウソは捕らえた魚を並べてから食べる習性があり、その様はまるで人が祭祀を行い、天に供物を捧げる時のようであると信じられていた。「カワウソですら祭祀を行う、いわんや人間をや」というわけである。そして後世、唐代の大詩人である李商隠は尊敬する詩人の作品を短冊に書き、左右に並べ散らしながら詩想に耽ったため、短冊の並ぶ様を先の『禮記』の故事に準え、自らを「獺祭魚庵」と號した。ここから「獺祭魚」には「書物の散らかる様」という意味が転じる。「獺祭書屋主人」という號は単に「書物が散らかった部屋の主人」という意味ではなく、李商隠の如く高名な詩人たらんとする子規の気概の現れである。病臥の枕元に資料を多く置いて獺のようだといったわけである。

その他、随筆『筆まかせ』の「雅号」にて自身が54種類の号を用いていることを示し、さらに多くのペンネームが用いられているとされる。上述の「野球」(のぼーる)もこの中に含まれる。

子規と病

喀血した自身をホトトギスになぞらえて子規と号したことに象徴されるように、子規の文学はその病と切っても切り離せないものであった。母八重の回想では、乳児のころの子規は顔が異常に丸く、見苦しく、鼻も低かった。体質虚弱で背も低く、内向的だったことからよくいじめられていたという。子規が最初に喀血したのは、明治21年(1888年)8月の鎌倉旅行の最中であった。翌22年(1889年)5月には大喀血をし、医師に肺結核と診断される。当時結核は不治の病とみなされており、この診断を受けたものは必然的に死を意識せざるを得なかった。この時子規はホトトギスの句を作り、はじめて子規の号を用いるようになった。

子規の病を大きく進行させたのは日清戦争への記者としての従軍であった。明治28年(1895年)5月、帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院。須磨で保養した後松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友夏目漱石の下宿で静養した。この年10月に再上京する途上の頃より腰痛で歩行に困難を来すようになり、当初はリューマチと考えていたが翌29年(1896年)、結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症していると診断される。以後床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになった。

歩行不能になった後も折々は人力車で外出もしていたが、明治32年(1899年)夏頃以後は座ることさえ困難になった。この頃から子規は約3年間ほぼ寝たきりで、寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け(一部は口述)、また病床を訪れた高浜虚子・河東碧梧桐・伊藤左千夫・長塚節ら後進の指導をし続けた。碧梧桐は、暑さに参る寝たきりの師匠に手動の扇風機を作ったと言われている。子規は、それを「風板」と名付け喜び、季語にならぬかと考えたとも言われている。

評価

俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。

俳句においてはいわゆる月並俳諧の陳腐を否定し、松尾芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って与謝蕪村のように忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。またヨーロッパにおける19世紀自然主義の影響を受けて写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、俳句における新たな詩情を開拓するに至った。

その一方で、その俳論・実作においては以下のような問題も指摘されている。
  • 俳諧における豊かな言葉遊びや修辞技巧を強く否定したこと。
  • あまりに写生にこだわりすぎて句柄のおおらかさや山本健吉のいわゆる「挨拶」の心を失ったこと。
  • 連句(歌仙)に極めて低い評価しか与えず、発句のみをもって俳句の概念をつくりあげたこと。

などは近代俳句に大きな弊害を与えていると考える向きもある。

俳句における子規の後継者である高浜虚子は、子規の「写生」(写実)の主張も受け継いだが、それを「客観写生」から「花鳥諷詠」へと方向転換していった。これは子規による近代化と江戸俳諧への回帰を折衷させた主張であると見ることもできる。

短歌においては、子規の果たした役割は実作よりも歌論において大きい。当初俳句に大いなる情熱を注いだ子規は、短歌についてはごく大まかな概論的批評を残す時間しか与えられていなかった。彼の著作のうち短歌にもっとも大きな影響を与えた『歌よみに与ふる書』がそれである。『歌よみに与ふる書』における歌論は俳句のそれと同様、写生・写実による現実密着型の生活詠の重視と『万葉集』の称揚・『古今集』の否定に重点が置かれている。特に古今和歌集に対する全面否定には拒否感を示す文学者が多いが、明治という疾風怒涛の時代の落し子としてその主張は肯定できるものが多い。

子規の理論には文学を豊かに育ててゆく方向へは向かいにくい部分もあるという批判もあるが、「写生」は明治という近代主義とも重なった主張であった。いまでも否定できない俳句観である。日本語散文の成立における、子規の果たした役割がすこぶるおおきいことは司馬遼太郎(司馬『歴史の世界から』1980年)によって明らかにされている。

また、あまり知られていないが漢詩作者としても著名である。鈴木虎雄(陸羯南の娘婿で、子規とは新聞「日本」の同僚でもあった)が、子規の漢詩を漱石の漢詩よりも評価していたことを、弟子の吉川幸次郎が回想している。

著名作

俳句
  • 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
  • 松山や秋より高き天主閣
  • 春や昔十五万石の城下哉
  • 牡丹画いて絵の具は皿に残りけり
  • 山吹も菜の花も咲く小庭哉
  • をとゝひのへちまの水も取らざりき
  • 風呂敷をほどけば柿のころげけり
  • 柿くふも今年ばかりと思ひけり
  • 紫の蒲團に坐る春日かな
  • 鶏頭の十四五本もありぬべし
短歌
  • くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
  • 松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く
  • いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす
  • 足たたば不尽の高嶺のいただきをいかづちなして踏み鳴らさましを
  • 足たたば黄河の水をから渉り崋山の蓮の花剪らましを
  • 足たたば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
随想・日記
  • 墨汁一滴 (随筆) 各岩波文庫と同ワイド版。
  • 病床六尺
  • 仰臥漫録 角川ソフィア文庫 2009年9月
子規三部作とされ、一冊本が講談社学術文庫で刊行(1986年品切)
漢詩
以下の文献は、近年の研究。
  • 加藤国安 『漢詩人子規 俳句開眼の土壌 』(研文出版 2006年)
  • 徐前 『漱石と子規の漢詩  対比の視点から』 (明治書院 2005年)
  • 清水房雄 『子規漢詩の周辺』(明治書院 1996年)
  • 飯田利行 『海棠花  子規漢詩と漱石』 (柏書房 1991年ほか)

系譜

正岡家(正岡一族・文集 正岡子規の家系
正岡子規家の系図は子規から遡って8代前までわかっている。初代は戒名以外不明。寺路良久は今治市の手代。寺路将重は今治波止浜の手代で後に正岡姓を名乗る。正岡常寅は風早郡の元締め。
が養子となって間もないころ。左より正岡律(子規の妹)、忠三郎、八重(子規の母)。
玄祖父正岡常一は京都へ上がり千宗室に入門し茶道となる。子規は玄祖父常一について「余が玄祖父は正岡一甫といふてお茶坊主の役をしたまひき。……翁が正月礼にまはる時には必ず一枝の寒梅を袖にして“のどかな春でございます”といひ給ひしとか。またかつて五右衛門風呂を木炭にてわかし その湯に入りて“薪にてわかせしとは入り心地が違う”といひ給ひしと。洒落の風、想ひ見るべし」と書いている
曾祖父・正岡常武は鎖鎌の名手。
父・正岡常尚は常武の孫養子縁組で御馬廻の下級武士。子規は父常尚について「父は武術にもたけ給はず。さりとて学問とてもし給はざりし如く見ゆ。」と書いている。妹の正岡律は、叔父加藤恒忠の三男正岡忠三郎を養子として正岡家をつがせた。

梅室道寒禅定門─良久─将重─常寅─常一─常武─常尚─常規─律─忠三郎

                     正岡常尚             ┃   ┏正岡常規             ┣━━━┫加藤重孝━━大原有恒   ┃   ┗律        ┃  ┏八重        ┣━━┫        ┃  ┗加藤恒忠━━正岡忠三郎歌原松陽━━━━重           ┃   ┏正岡浩                    ┣━━━┫                    ┃   ┗正岡明            野上俊夫━━━あや

著作文献(近年)

  • 『筆まかせ』 (粟津則雄編、岩波文庫 1985年)
*『飯待つ間 正岡子規随筆選』(阿部昭編 同 1985年)
*『墨汁一滴』、『病牀六尺』、『仰臥漫録』(同 1983-84年改版 ワイド版)
*岩波文庫で、同時期に改版されたのは『子規句集』、『子規歌集』
*『俳諧大要』、『歌よみに与ふる書』、『松蘿玉液』の計5冊。
*他に、『漱石・子規往復書簡集』 (和田茂樹編 岩波文庫、2002年)
  • 『俳人蕪村』 (講談社文芸文庫 1999年)
  • 『子規人生論集』 (講談社文芸文庫、2001年)
  • 『正岡子規 高浜虚子 近代浪漫派文庫7』(新学社文庫 2006年)-旧かな版
  • 『正岡子規 ちくま日本文学040』(ちくま文庫 2009年)
  • 『俳句の出発』 (中村草田男編、みすず書房 2002年)
  • 『正岡子規集 新日本古典文学大系明治編27』(中野三敏ほか編 岩波書店 2003年)
  • 『正岡子規 明治の文学第20巻』(坪内祐三編集 筑摩書房 2001年)
  • 『子規全集』(全22巻別巻3、講談社 1979年完結) 正岡忠三郎、司馬遼太郎、大岡昇平等で監修された。
  • 『子規選集』(全15巻 増進会出版社・静岡 2001-03年) 大岡信、長谷川櫂、島田修二、佐佐木幸綱ほか編 
  • 『子規随筆 正続』 沖積舎 2001年、新版2009年、合本の復刻版(初刊は日本叢書:吉川弘文館)

評伝文献

  • 粟津則雄 『正岡子規』(現代日本の評伝 講談社文芸文庫 1995年)
  • 柴田宵曲 『評伝正岡子規』(岩波文庫 初版1986年、解説佐伯彰一)
    • 『子規居士・子規居士の周囲 柴田宵曲文集3』(小沢書店.全8巻)
  • 長谷川櫂 『子規の宇宙』(角川学芸出版、2010年10月)
  • 坪内稔典 『正岡子規の〈楽しむ力〉』(日本放送出版協会〈生活人新書〉、2009年11月)
    • 坪内稔典 『正岡子規 言葉と生きる』(岩波新書、2010年12月)

関連項目

  • アララギ
  • ホトトギス - ホトトギス (雑誌)
  • 俳諧
  • 政教社
  • 愚陀仏庵
  • 神戸文学館
  • 根岸短歌会
  • 子規堂
  • 渋柿
  • 俳句団体-日本派 
  • ひとびとの跫音
  • 俳句王国
  • 正岡子規記念球場
  • 市坪駅(松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)および野球歴史資料館の最寄り駅であり、子規の号のひとつである「の・ボール」の愛称が付されている)
  • 松山市立子規記念博物館
  • 『坂の上の雲』(司馬遼太郎)
    • 坂の上の雲 (テレビドラマ)
    • 坂の上の雲ミュージアム

関連人物

  • 秋山好古
  • 秋山真之
  • 夏目漱石 
  • 尾崎紅葉
  • 勝田主計
  • 小川尚義
  • 陸羯南
  • 中村不折
  • 福本日南
  • 鈴木虎雄 
  • 高浜虚子
  • 河東碧梧桐
  • 寒川鼠骨
  • 松根東洋城 
  • 久松定謨
  • 森鴎外
  • 伊藤左千夫
  • 長塚節
  • 香取秀真
  • 岡麓
  • 桃澤如水
  • 歌原奈緒

脚注

外部リンク


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  • 正岡子規の絵画紹介、自画像など展示11日から横須賀美術館/神奈川(2月8日 12時23分)
    近代俳句の革新者として知られる俳人・正岡子規(1867~1902)の絵画などを紹介する特別展「正岡子規と美術」が11日から、横須賀市鴨居の横須賀美術館で始まる。画家としての一面も持つ子規の作品のほか、子規と交流のあった明治期の洋画家 ...
  • 特別展:「画家・子規」を紹介、ドラマパネル展も 来月11日 ...(1月24日 12時55分)
    俳人・正岡子規(1867~1902)=写真・松山市立子規記念博物館提供=の絵画などを集めた特別展「正岡子規と美術」が2月11日~4月15日、横須賀美術館(横須賀市鴨居4)で開かれる。画家としての横顔、洋画家との交流を通じ、明治期の ...
  • 「俳句スイーツ」が人気 道後のカフェ、月1回句会も 愛媛(2月8日 2時00分)
    正岡子規らが詠んだ俳句の季語になっている菓子や食材に注目、句を添えた「俳句スイーツ」を松山市のカフェが売り出し、話題を呼んでいる。月1回、題材となるスイーツを食べながらの句会も開かれ、訪れた客からは「若い人でも俳句に親しめる」と好評だ。
  • 和辻哲郎文化賞決まる(2月7日 10時29分)
    末延さんの受賞作は「正岡子規、従軍す」。子規が44日間従軍記者として日清戦争に従軍した体験に着目。病を押して戦地に向かった理由を探った。「子規文学の『陰』に光を当てた本書に賞が授与され、日本近代文学の根底にわだかまる矛盾、亀裂を ...
  • 急逝の書家 業績しのぶ(2月1日 5時14分)
    晩年まで斬新な作風を追求した業績を、多くの後進がしのんでいる。 会場には、読売書法会董事の大西きくゑさん(81)(丸亀市)の正岡子規の句に題材をとったかな作品「金殿の」、毎日書道会参事の小森秀雲さん(83)(高松市)の前衛作品「山 ...
  • 3人展「極める」:県書道界をけん引 小森さん、大西さん、故 ...(2月8日 6時39分)
    会場では、32点が展示されている。小森さんは前衛書だけでなく、漢字や近代詩など多彩な自身の世界を披露し、大西さんはかなを中心に万葉集や西行、正岡子規などの作品に材をとった流麗な作品を出品。光宗さんは繊細なかな書体をカラフルな ...
  • ひと人えひめ:「盲天外から学ぶ一粒米の会」・今岡弘さん /愛媛(1月28日 16時25分)
    周りも80歳代以上が知っている程度。「坂の上の雲」で秋山兄弟と正岡子規が注目されますが、同時代にもう一人スポットライトが当たるべき人物がいると思いました。 --取り組みを教えてください 郷土史家などを訪ね資料収集を進めてきました。
  • 東急が元住吉駅西口に商業施設開設へ、「朝から夜まで利用できる ...(2月8日 15時36分)
    東京急行電鉄は、東横線・目黒線元住吉駅西口に地域密着型の商業施設を25日と3月16日の2回に分けてオープンする。 二つの建物からなる商業施設で、外装デザインは同駅周辺のブレーメン商店街の景観規制に沿った落ち着きのある色調を採用。今月開設 ...
  • 岩切/駅の匂いが極上の土産(1月30日 14時57分)
    今回の句は、正岡子規が多賀城から仙台に戻る途中立ち寄った、岩切駅に詠んだものだ。彼は駅舎の匂いを吸い込んだ。旅を終え日常に戻った子規は、東京の空の下でふとした拍子に岩切の空気を思い出したのではないか、そう思いたい。 塩釜、松島 ...
  • 【かんさいMONO語り】古梅園 漱石も愛用 老舗の手作り墨(1月25日 15時24分)
    400年もの間変わらぬ製法で作られる創業以来の大ベストセラーだ。 店内には夏目漱石が正岡子規に送った句が飾ってあった。 ■古梅園 1577(天正5)年創業。松脂のほか菜種、胡麻(ごま)、桐、椿の油などの煤を使って作る墨は、粒子が細かく ...

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