Tiziano Vecellio

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ

ヴェチェッリオ
Tiziano Vecellio
1488年~1576年
[イタリア] [絵画]

[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 人物情報]

イタリア・ルネサンス期の画家でヴェネツィア派を代表する人物。
/1490年頃ピエーヴェ・ディ・カドーレに生まれる。代表作「田園の合奏」「ウルビーノのヴィーナス」など。

Wikipediaの人物情報

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488年/1490年頃 - 1576年8月27日)は、盛期ルネサンスのイタリア人画家。ヴェネツィア派で最も重要な画家の一人である。ヴェネツィア共和国ベッルーノ近郊のピエーヴェ・ディ・カドーレに生まれ、その生誕地から「ダ・カドーレ (da Cadore)」と呼ばれることもあった。

ティツィアーノは同時代の人々からダンテ・アリギエーリの著作『神曲』からの引用である『星々を従える太陽』と呼ばれていた。肖像、風景、古代神話、宗教などあらゆる絵画分野に秀で、ヴェネツィア派でもっとも重要なイタリア人画家の一人となっている。ティツィアーノの絵画技法は筆使いと色彩感覚に特徴があり、イタリアルネサンスの芸術家だけではなく、次世代以降の西洋絵画にも大きな影響を与えた。

ティツィアーノは長命な画家で、その作風は年代とともに大きく変化しているが、その生涯を通じて独特の色彩感覚は変わることがなかった。円熟期のティツィアーノの絵画は色鮮やかとはいえないものもあるが、初期の作品の色調は明るく、奔放な筆使いと繊細で多様な色使いは、それまでの西洋絵画に前例のない革新的なものだった。

略歴

初期

の肖像画と考えられてきたが、現在では自画像ではないかと考えられている。この絵画の画面構成は、後世のレンブラント・ファン・レインの自画像に模倣されているティツィアーノの正確な生年月日は伝わっていない。老境のころに) では1488年ごろとしている。

ティツィアーノは、ピエーヴェ・ディ・カドーレ城の管理者で、地方鉱山の責任者でもあったグレゴリオ・ヴェチェッリオと妻ルチアの長男として生まれたDavid Jaffé (ed), Titian, The National Gallery Company/Yale, p. 11, London 2003, ISBN 1 857099036。父グレゴリオは、著名な評議員で軍人でもあった。祖父は公証人で、ヴェネツィア共和国統治下のこの地方では名家の家系だった。

10歳から12歳くらいのときに、ティツィアーノと弟のフランチェスコは画家の内弟子になるためにヴェネツィアの叔父のもとへと送られた。そして一家の友人で、息子が知られたモザイク作家になったこと以外さほど知られていない画家のセバスチアーノ・ツッカートが、二人の兄弟のために) も後にヴェネツィアで成功した画家になった。

ヴェネツィア貴族モロシーニ家 () 邸宅の所蔵の『聖母マリアと聖エリザベトの訪問』もこのころに描かれたティツィアーノの作品だとされている。

File:Tiziano o giorgione, cristo portacroce.jpgティツィアーノはジョルジョーネの助手を務めているが、すでに当時のティツィアーノの作品に対する評価は高いものだった。ジョルジョーネと共同で制作したフォンダコ・デイ・テデスキ(ドイツ商人館 ())の外装を飾るフレスコ画(破損しておりほとんど現存していない)など、二人の力量は拮抗し、共同作業が互いに好影響を与えていた。この時期の二人の絵画の判別は現在でも学術的論争になっており、20世紀になってもそれまでジョルジョーネ作と考えられていた作品がティツィアーノ作に比定されなおしたり、数は少ないが逆にティツィアーノ作と思われていた絵画がジョルジョーネ作に改められたこともある。『見よこの男を』の場面を描いたヴェネツィアのサンロッコ同信会館が所蔵する『十字架を担うキリスト ()』は、長きに渡ってジョルジョーネの作品だとされてきた。若きジョルジョーネとティツィアーノは、ヴェネツィア絵画を革新した。その特徴的で柔軟な表現技法には、それまでの絵画にあった硬直した表現や、ベリーニの作品に散見されるような宗教的因習の残滓はみられない。

File:Titian-salome.jpg(ユディトとも)を描いたこの宗教画は、ティツィアーノが発展させたジャンルである理想化された女性の肖像画とされ、ヴェネツィアの高級娼婦をモデルにしているともいわれる1507年から1508年にかけて、ジョルジョーネは再建されたフォンダコ・デイ・テデスキのフレスコ画制作を依頼された。ティツィアーノとモルト・ダ・フェルトレ () もこれに参加しているが、現存している数少ない断片はジョルジョーネの手によるものと考えられている。ジョヴァンニ・バッティスタ・フォンタナ () によるエングレービングとしてではあるが、二人の作品で現存しているものもある。1510年にジョルジョーネが夭折した後も、ティツィアーノはジョルジョーネ風の作品を描いてはいるが、すでに大胆で表現力豊かな独自の作風を確立していた。

フレスコ画におけるティツィアーノの絵画技術は、1511年に描かれたパドヴァのカルメル会とサンタントニオ信者会に残る『金門での出会い』やパドヴァの守護聖人パドヴァのアントニオの生涯の三場面を題材にした作品などで見ることができる。

1512年にティツィアーノはパドヴァからヴェネツィアに戻ってから、S.サムエレのカナル・グランデに工房を構えているが、現在その正確な場所は伝わっていない。1513年には前途有望あるいはすでに功名を成し遂げた芸術家が熱望するサンセリア (La Sanseria) と呼ばれる専売仲介特権をフォンダコ・デイ・テデスキから得た。さらに国家規模の絵画制作の最高責任者に任ぜられて、ベリーニが未完成のまま残したドゥカーレ宮殿#ヴェネツィア大議会堂の絵画を完成させている。ベリーニが死去した1516年以前から、専売仲介特権から収入が上がるようになり、銀貨20枚という十分な年金を受け取るようになった。さらにドゥカーレ宮殿の絵画制作を継続するという条件で一部租税を免除され、作品を仕上げるごとに銀貨8枚で買い上げられた。ドゥカーレ宮殿のために描かれた絵画で現存しているのは5点のみである。

中期

File:Tizian 041.jpg(ヴェネツィア)完成に2年かかった大作で、躍動的な三階層の構図と色彩構成が、ティツィアーノをローマ以北でもっとも傑出した画家の一人という評価を定着させた1516年から1530年にかけてのこの時期は、ティツィアーノが初期のころのジョルジョーネ風作品から、より大規模で複雑な構成の作品をそれまでにない作風で描こうと試みた、技能熟練と熟成の時代といわれる。ジョルジョーネは1510年に、ベリーニは1516年に死去し、ヴェネツィア派にはすでにティツィアーノに比肩する画家はいなくなり、その後60年間にわたって誰もが認めるヴェネツィア絵画の第一人者であり続けた。1516年にサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂の依頼で、現在ティツィアーノの代表作ともいわれる祭壇画『聖母被昇天』を描き始めた。非凡な色彩感覚に彩られたこの絵画は、それまでのイタリア絵画でもまれなほど大規模な作品で、大評判となった。当時のシニョリーアの記録には、ティツィアーノが描いたドゥカーレ宮殿大議会の装飾絵画の支払は放置されていたが、ベリーニの死後1516年になってから、それまでベリーニに支払われていた年金を議会から受け取るようになったという記述がある。

『聖母被昇天』は三階層の構図で、世俗の地上と神聖な天界という二つの異なる場面が同時に表現されている。この作品は連作であり、現在)(1520年)、)を空想的な建物空間に表現し、それぞれのキリスト教的地位を建物の上下の位置で表すという、新しい構想でこの作品を描いている。当時のティツィアーノの名声は非常に高く、1521年にはブレシアでローマ教皇特使からの依頼で、現在でも多くの模写が残っているセバスティアヌスを描いた絵画の制作に追われていた。

この時代の1530年に描かれた、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会が所蔵していた『聖ペテロの殉教』も非常に重要な絵画だったが、1867年にオーストリア軍から砲撃を受け焼失してしまっている。この作品は模写とエングレービングが残されているのみで、極端なまでの暴力描写と風景画が描かれ、画面の大部分を占める巨大な樹木と物語性を強調する劇的表現から、この絵画はバロックの萌芽と考えられている。

File:Tizian 018.jpg(パリ)ティツィアーノには聖母マリアあるいは聖母子を扱った小作品を集中的に描いた時期があった。美しい風景に囲まれた人物画で、風俗画あるいは詩的な肖像画風に描かれており、現在ルーブル美術館が所蔵する『うさぎの聖母』が典型的な作品である。他にもルーブル美術館には1520年に描かれた『キリストの埋葬』がある。

File:Titian Bacchus and Ariadne.jpg(ロンドン)この時代のティツィアーノには神話をモチーフにした、3点の大作がある。フェラーラ公爵アルフォンソ1世・デステのフェラーラにあったアルフォンソ邸の書斎「カメリーノ・ダラバストロ (Camerino d'Alabastro)」のために描かた作品群で、現在プラド美術館が所蔵する『ヴィーナスへの奉献』(1519年)、『アンドロス島の人々』(1523年 - 1524年頃)と、ロンドンのナショナル・ギャラリー (ロンドン)が所蔵する『バッカスとアリアドネ』(1520年 - 1523年)である。「おそらくルネサンス期における、もっとも美しい「異教徒風 (neo-pagan)」の、あるいは「アレクサンドリア風 (Alexandrianism)」の絵画群といえる。幾度となく手本とされた作品だが、ピーテル・パウル・ルーベンスでさえこれらの作品を超えることはできなかった」といわれる

ほかに、高級娼婦を描いたとされるウフィツィ美術館所蔵の『フローラ』(1515年頃)、ルーブル美術館所蔵の『鏡の前の女』(1513年 - 1515年頃)など、上半身のみを描いた肖像画はこの時代を最後に描かれた作品である。

ティツィアーノの妻セシリアは、ティツィアーノの故郷ピエーヴェ・ディ・カドーレ出身の理髪師の年若い娘で、5年にわたってジョルジョーネ家の家政を取り仕切る内縁関係にあった。ティツィアーノとの間にはすでにポンポーニオとオラツィオの二人の息子が生れていたが、1525年にセシリアは重病にかかってしまう。ティツィアーノは二人の息子を法的に認知するためにセシリアと正式に結婚した。結婚した二人の関係は良好で、セシリアは健康を取り戻し二人の娘を産んだが、ラヴィニアと名付けられた娘だけが成人した。ティツィアーノは次男のオラツィオを可愛がり、後にオラツィオはティツィアーノの助手を務めることになる。

1530年8月にセシリアはラヴィニア出産時の産褥で死去した。二人の幼児と一人の乳児を抱えたティツィアーノは家を変え、ピエーヴェ・ディ・カドーレにいた妹のオルサを説得して、家事を任せるために呼び寄せた。ビリ・グランデにあったティツィアーノの邸宅の正確な場所は判明していないが、ヴェネツィア中心部から離れた海沿いの瀟洒な郊外の住宅地で、美しい庭園のあるムラノ島が一望できる場所だった。

ティツィアーノは1526年ごろに作家、詩人で、当時の年代記にも有力で独創的な人物として紹介されている) と深い親交を持った。ティツィアーノはアレティーノの肖像画を描き、マントヴァ侯爵フェデリーコ2世・ゴンザーガへと送っている。

後期

フランス大使ダラモンの肖像画(1541年 - 1542年)1530年から1550年にかけての時期にティツィアーノは『聖ペテロの殉教』に見られるような劇的で物語性の強い作風を確立した。ヴェネツィア共和国政府はドゥカーレ宮殿の絵画制作が遅々として進まないことに不満を持ち、1538年にそれまでティツィアーノに支払った賃金の返還を求めている。そして、ティツィアーノの後継として、ティツィアーノの競争相手とみなれてきたイル・ポルデノーネ () を任命した。しかしながらこの年の終わりにポルデノーネは死去し、議会堂の『カドーレの戦い』を仕上げていたティツィアーノが宮殿の絵画制作者に再度任命された。『カドーレの戦い』はヴェネツィア共和国の) が騎乗して敵陣に突撃し、次々に敵を撃破する場面が等身大に描かれた絵画である。この作品はティツィアーノが、ラファエロ・サンティの『コンスタンティンの戦い』に刺激を受けて描いた荒々しく壮大な絵画という意味で非常に重要な作品だった。さらに、どちらも未完成に終わったが、ミケランジェロの『カッシーナの戦い』やレオナルド・ダ・ヴィンチの『アンギアーリの戦い (絵画)』もこの作品に影響を与えていた可能性もあった。しかしながら1577年にドゥカーレ宮殿は大火に遭い『カドーレの戦い』をはじめ、ヴェネツィアの芸術家たちの貴重な絵画は全て焼失してしまっている。現在『カドーレの戦い』はウフィツィ美術館に粗悪で未完成の模写とフォンタナの手による平凡な版画が残るのみである。1541年に描かれたプラド美術館所蔵の『デル・ヴァスト侯爵の演説』も火災によって一部損傷している。『カドーレの戦い』のオリジナルは焼失してしまっていたが、後年のボローニャ絵画会とルーベンスに、細部の書き分けや、馬、兵士、リクトル、沸き立つ群衆、燃える松明、空高く翻る旗印などの表現に大きな影響を与えた。

』(1553年 - 1554年)プラド美術館(マドリード)スペイン王フェリペ2世の依頼で描かれた「ポエジア」とよばれる一連の神話連作画の一つ。ティツィアーノとその工房は『ダナエ』を複数からの依頼に応じて何点か描いた

サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂の穹隅に描かれた『カインとアベル』、『イサクの犠牲』、『ダビデとゴリアテ』については、あまり優れた絵画とはいえない。暴力的な場面が描かれたこれらの作品には、ミケランジェロの有名なシスティーナ礼拝堂天井画のような下方からの透視図法が用いられているが、成功しているとは言いがたい。それでもなお、これらの絵画は高く評価され、手本とされた。ルーベンスはアントウェルペンのイエズス会教会の天井画に、ティツィアーノがサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂で用いた手法で14点の作品を描いているが、現在ではスケッチしか残っていない。

』(1538年頃)ウフィツィ美術館(フィレンツェ)この時代にティツィアーノはローマを訪れており、横たわるヴィーナスをモチーフとした連作を描き始めている。ウフィツィ美術館所蔵の『ウルビーノのヴィーナス』と『愛のヴィーナス』、プラド美術館所蔵の『ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド』である。これらの絵画はローマで古代彫刻を見聞したティツィアーノが、その表現手法やアイディアに影響を受けて制作したものである。ジョルジョーネの作品で、ティツィアーノが完成させたアルテ・マイスター絵画館所蔵の『眠れるヴィーナス』で同じく横たわるヴィーナスという構図を使用しているが、『眠れるヴィーナス』では背景に描かれていた風景画が『ウルビーノのヴィーナス』では暗紫色のカーテンに置き換えられ、作品全体の色調の統一が図られている。

ティツィアーノはキャリア初期から、現在ピッティ宮殿のピッティ宮殿#ピッティ美術館が所蔵する1514年ごろの『ラ・ベッラ (La Bella)』のような優れた肖像画を描いた。君主、元首、枢機卿、修道僧、芸術家、作家など様々な階級の人々を描いた作品が残っている。「多くのモデルの特徴をつかみ、その表情を描ききることに成功した画家は他にはいない」とも言われる。肖像画家としてのティツィアーノは後年のレンブラント・ファン・レインやディエゴ・ベラスケスと比較されることがあり、とくに人物の内面描写ではレンブラント、明快さではベラスケスと比較されることが多い。

File:Carlos_V_en_Mühlberg,_by_Titian,_from_Prado_in_Google_Earth.jpg(マドリード)ミィールベルグの戦いでプロテスタント軍と戦ったローマ皇帝カルロス5世を描いた絵画。乗馬中の肖像画という新しいジャンルを確立した作品である。ローマの伝統的な騎馬像と中世の理想的キリスト教騎士の両方を表現した構図だが、描かれているカルロス5世は疲れ切っている様子で描かれている後期の肖像画では、ナポリの国立カポディモンテ美術館が所蔵する1543年の『教皇パウロ3世の肖像』と1546年の『パウロ3世とその孫たち』、パラティーナ美術館が所蔵する1545年の『ピエトロ・アレティーノの肖像』、プラド美術館が所蔵する『ポルトガル王女エレオノーラの肖像』とカール5世 (神聖ローマ皇帝)を描いた連作の一つ1533年の『皇帝カール5世と猟犬』などでティツィアーノの絵画技術を確認でき、そして1548年の『カール5世騎馬像』に表現された紫色の調和は絵画の頂点を極めた作品といえる。

File:Tizian 085.jpg(ボストン)この絵画を模写したルーベンスの作品がプラド美術館に所蔵されている。初期のティツィアーノの絵画とは対照的な作風で、ほとんどバロック風といえる

当時からのティツィアーノの専門技量と世界的な名声に比肩するのは、同年代のラファエロ・サンティ、ミケランジェロ・ブオナローティと後年のピーテル・パウル・ルーベンスだけである。1540年にヴァスト侯爵ダヴァロスから邸宅を、ローマ皇帝カール5世からは年金として銀貨200枚(後に倍増される)をミラノの国庫から受け取っている。経済面では他にも1542年からカドーレからの穀物貢納契約によって利潤を得ていたことがわかっている。ティツィアーノは故郷のカドーレを毎年のように訪れており、故郷では鷹揚で影響力のある著名人だった。

ティツィアーノはカステッロ・ロガンツォーロ教会の近くにお気に入りの別邸を持っており、ここで風景を描くにあたっての様々な観察を行っている。ティツィアーノの習作に何度も描かれた「ティツィアーノのひき臼」と呼ばれるモチーフを、カステッロ・ロガンツォーロ近隣のベッルーノで今でも見ることが出来るR. F. Heath, Life of Titian, page 5.

ティツィアーノは1546年にローマを訪れて「市の鍵賞 ()」を受けており、これは1537年にミケランジェロが受賞して以来のことだった。同じころにセバスティアーノ・デル・ピオンボの死去に伴い空職になっていた、ローマ教皇の書簡に押す印章を所持する「鉛の職」という非常に実入りのいい役職を与えられることになった。この役職のために聖職に就く準備も進められていたが、1547年にヴェネツィアを離れてアウクスブルクでローマ皇帝カール5世たちの肖像画を描くよう命令されたため、この話は無効になっている。

1550年にスペイン王フェリペ2世 (スペイン王)を描いた肖像画がイングランドへ送られ、フェリペ2世とイングランド女王メアリー1世 (イングランド女王)との結婚に大きな役割を果たした。

晩年

File:Actaeon.jpg

ティツィアーノは、1550年から死去する1576年までの16年間、肖像画家としてフェリペ2世のもとで過ごすことが多かった。年齢とともにますます内省的で止まるところを知らない完全主義者になり、1枚の作品を仕上げるのに10年以上かけることもあった。倦むことなく何度も作品に手を加え、つねに新しい表現を追及した。また、弟子が模写したティツィアーノ自身の初期の作品に自ら手を加えて完成させており、このことが後年になって絵画の作者の特定や、連作の制作順序など諸問題を引き起こすことにつながっている。さらに弟子だけではなく、他の芸術家が制作した模写や贋作も、広く出回ってしまっている。

File:TItian - The Flaying of Marsyas.jpgフェリペ2世の依頼で、ティツィアーノは宗教画と、「ポエジア」と呼ばれる、オウィディウスの『変身物語』に題材をとった一連の古代神話連作絵画を制作した。現在「ポエジア」の作品はティツィアーノの最高傑作とされている。神話に仮託した裸婦が描かれた絵画が多かったこともあり、フェリペ2世からこれらの絵画を相続した子孫は、その多くを贈答品として諸国へ贈ったため、現在スペインには「ポエジア」は2点しか存在しない。プラド美術館所蔵の『ヴィーナスとアドニス』と『ダナエ (ティツィアーノの絵画)』で、どちらも1553年ごろに描かれた作品である。ロンドンのナショナル・ギャラリーとスコットランド国立美術館が共同所有する『ディアナとアクタイオン』と『ディアナとカリスト』は1559年に完成したと考えられている。ロンドンのウォレス・コレクション所蔵で損傷が激しい『ペルセウスとアンドロメダ』、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館所蔵の『エウロペの略奪』は1562年に引き渡された。ただし、現在ロンドンのナショナルギャラリー所蔵の『アクタイオンの死』は1559年に制作が開始され、長期にわたって制作が続けられたものの、結局未完に終わった作品である。

ティツィアーノの死後にアトリエに残されていたといわれる絵画は、近年になるまであまり知られていなかった。生々しい表現で、人によっては受け付けないであろう絵画が多く、チェコのクロムニェジーシュ美術館所蔵の『皮をはがれるマルシュアス』、ケンブリッジ大学フィッツウィリアム美術館所蔵の『ルクレツィアの凌辱』などがある。

1488年生まれの人物
中宗 / ティツィアーノ・ヴェチェッリオ /

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