Einstein, Albert

アルベルト・アインシュタイン

アインシュタイン (別名:アルバート・アインシュタイン)
Einstein, Albert
1879年03月14日~1955年04月18日
[ドイツ] [自然科学]

[アルベルト・アインシュタイン 人物情報]

ドイツ出身の物理学者。1879年ウルムで生まれる。両親はユダヤ人。
チューリヒ連邦工科大学で数学と物理を学んだ後、1902年にスイスのベルンで特許局の技官となり、働きながら物理学の研究を行った。
1905年に特殊相対性理論を発表、1916年に一般相対相対性理論を発表した。はじめは受け入れられなかった相対性理論だが、1919年の皆既日食で証明されると、革命的理論として世界的な物理学者となった。
1921年光電効果の発見によりノーベル物理学賞受賞。1914年からはドイツに住んだが、1933年にナチス政権が成立すると渡米。アメリカではナチスドイツの原爆開発に対抗するためにルーズベルト大統領に原爆開発を提案している。日本への原爆投下後は科学の平和利用をうったえた。

Wikipediaの人物情報

アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein 、1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれのユダヤ人理論物理学者。

概説

特殊相対性理論及び一般相対性理論、相対性宇宙論、ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理、光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式、ボーズ=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績により、20世紀最大の物理学者とも、現代物理学の父とも呼ばれる。特に彼の特殊相対性理論と一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年のノーベル物理学賞を受賞した。

音楽学者でヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト研究者のアルフレート・アインシュタインは従弟とされる場合があるが、異説もある。数多くの業績のほか、特異な風貌とユーモアあふれる言動によって、専門分野を超え世界中に広くその存在が認知されており、しばしば天才の代名詞として引き合いに出される。1999年、アメリカのニュース週刊誌『TIME』は、アルベルトを『パーソン・オブ・ザ・センチュリー』(20世紀の人)に選出した。

表記

日本語における表記には、以下のようなものがある(表記のゆれの部分を太字で表す)。
  • 「アルベルト・アインシュタイン」(ドイツ語の日本語表記の慣例由来)
  • 「アルバート・アインシュタイン」(現代ドイツ語の発音由来)
  • 「アルバート・アインタイン」(英語の発音由来)

業績

1905年に特殊相対性理論を発表。20世紀に於ける物理学史上の2大革命として量子力学及び相対性理論が挙げられるが、以前から論理的に展開されていた相対性原理(アンリ・ポアンカレ、ジョゼフ・ラーモア、ヘンドリック・ローレンツなど)をもとに、ニュートン力学とマクスウェルの方程式を基礎とする物理学の体系を根本から再構成した。特殊相対性理論では、質量、長さ、同時性といった概念は、観測者のいる慣性系によって異なる相対的なものであり、唯一不変なものは光速度cのみであるとした。

特殊相対性理論は重力場のない状態での慣性系を取り扱った理論であるが、1915年-1916年には、加速度運動と重力を取り込んだ一般相対性理論を発表した。一般相対性理論では重力場による時空の歪みをリーマン幾何学を用いて記述している。さらに後半生の30年近くを重力と電磁気力を統合する統一場理論を構築しようと心血を注いだが、死により未完に終わっている。

一般相対性理論の解として、宇宙は膨張または収縮をしているという結論が得られる。アインシュタインは重力による影響を相殺するような宇宙項Λを場の方程式に導入することで、静的な宇宙が得られるようにした。しかし、エドウィン・ハッブルによって、宇宙の膨張が発見されたため、アインシュタインは宇宙項を撤回した。後に宇宙項の導入を「生涯最大の失敗」と述べている。しかし、ハッブル宇宙望遠鏡による超新星の赤方偏移の観測結果などから、宇宙の膨張が加速しているという結論が得られており、この加速の要因として、宇宙項の存在が再び注目されている。

光量子仮説によって光電効果の理論的な説明付けを行うなど、前期量子論の確立に多大な貢献をした。しかし、量子が確率論的に振舞うとする量子力学自体については、アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」(1926年12月にマックス・ボルンへの手紙にある記述、"Der Alte würfelt nicht.")と懐疑的な立場をとった。アインシュタインの提示した反論の一つがアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスである。量子力学の矛盾点として提示されたものであったが、後に「量子テレポーテーション」として確認され、量子通信などの新たな技術の基礎として注目されている。

その他、ブラウン運動の理論の構築、固体における比熱の理論である「アインシュタインモデル」の提唱、ボース=アインシュタイン凝縮の予言など、物理学の全領域にわたり多大な業績をあげている。

生涯

) と母親)との間に長男として生まれる。1880年から1894年の間、ミュンヘンに居住した。

アインシュタインは、5歳頃まであまり言葉を話さなかったと伝えられる。そのことで、単なる記号処理的な頭脳の働きでなく、全体を把握する能力を養ったという意見もある。5歳のときに父親からもらった方位磁石が、自然界の仕組みに対する興味をもたらすきっかけとなった。また、6歳頃にはヴァイオリンを習い始めた。

ミュンヘンにある) に入学。しかし、やはり軍国主義的で重苦しい学校の校風になじめなかった。

幼少の頃は、言葉を理解したり話したりするのがあまり得意でなかった。頭の中で文章を組み立ててから喋っていたので、受け答えに時間がかかった。現代では、アインシュタインはディスレクシアであったと言われることもある。一方で数学に関しては突出した才能を示し、9歳の時にピタゴラスの定理の存在を知り、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、そして自力で定理を証明した。12歳のときユークリッド幾何学の本をもらい独習。微分学と積分学も、この当時に独学で習得したといわれている。

1894年、父親が事業に失敗したために一家はイタリアのミラノに引っ越すが、ギムナジウムを卒業する必要からアインシュタインはミュンヘンに残される事になる。しかし軍国主義的な教育を嫌い、結局学校を中退し一家を追ってイタリアへやってきた。

) に通う事を条件に、来年度の入学資格を得られる事になった。アーラウの学校の校風はある程度自由が保障されており、さらにこの学校は視覚教育に力を入れていた。言語に障害があったアインシュタインに、この視覚教育はよく合っていた。そして、昔培った視覚能力をそのアーラウでさらに高めた。それがのちの研究者としての人生に大きく関わることになる。なお、この頃には徴兵制度を逃れるためにドイツ国籍を放棄している。これにより、以後スイス国籍を取得するまで無国籍となった。

) という女学生と出会う。チューリッヒ連邦工科大学は女性に門戸を開いていた当時の数少ない大学のひとつであった。アインシュタインは大学の講義にはあまり出席せず、自分の興味ある分野だけに熱中し、物理の実験は最低の「1」、電気技術では優秀な「6」の成績をとっている。大学時代は、化学の実験中に爆発事故を起こし、学校をパニックに陥れてしまったこともあった。

)と不仲であったために、大学の助手 (教育)になれなかった。保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得ていた。

1901年、スイス国籍を取得。スイスもまた兵役義務を課していたが、アインシュタインは扁平足・静脈瘤等の診断からこれを免除される(偏平足は行軍等に支障をきたすとされる)。

)、コンラット・ハビヒト (Conrad Habicht) らと「)」を設立した。その他、父親ヘルマンが死去。

1903年1月6日にミレーバと結婚。翌年には長男ハンス・アルベルト・アインシュタインを授かる。

1905年、博士号を取得すべく「特殊相対性理論」に関連する論文を書き上げ、大学に提出した。しかし内容が大学側に受け入れられなかったため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理されている。この論文は「ブラウン運動の理論」に発展した。この年は「奇跡の年」として知られている。アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する5つの重要な論文を立て続けに発表した。バスに乗車中にベルンの時計台の針が不動に見えることから着想した無名の特許局員が提唱した「特殊相対性理論」は当初、周囲の理解を得られなかったが、マックス・プランクの支持を得たことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。

1906年、2級技術専門職へ昇進。年俸も4,500スイス・フランへと昇給された。

1907年、有名な式E=mc²を発表している。この年には、箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別ができないという、後の一般相対論の基礎となるアイディア(等価原理)を思いつく。アインシュタインはこれを、生涯最良の名案であると述べている。

でのアインシュタイン1909年、特許局に辞表を提出。チューリッヒ大学の助教授となる。この年には彼の生涯で初となる名誉博士号がジュネーヴ大学より授与されている。

) 誕生。

1912年、母校、チューリッヒ連邦工科大学の教授に就任(その契約は妻ミレーバが行ったとされる)。アインシュタインは僅か1年で再びチューリッヒに戻る事になるのだが、これによりプラハ大学では彼と大学との間に問題が生じたのではないかとの噂が生じてしまう。彼はプラハ大学学長宛てに礼状を書き、これを否定したという。

) の会員となる。アインシュタインはベルリンに移住する事になるが、彼とは不仲の状態にあったミレーバは子供を連れて再びチューリッヒに戻ってしまい、別居状態となる。

1916年、一般相対性理論を発表。この理論には星の重力により光が曲げられるという予言も含まれていた(これは後に実証される)。

) が彼の看病にあたる。

一般相対性理論の立証のために1914年クリミア半島でアメリカ人ウィリアム・キャンベルに依頼し皆既日食観測を試みるも曇天で、第一次世界大戦開戦でドイツのスパイと誤認され捕虜となる。1919年、皆既日食において、太陽の重力場で光が曲げられる(いわゆる、重力レンズ効果)事がケンブリッジ天文台のアーサー・エディントンの観測により確認されたが理論の立証にはまだ不充分であった。しかし、このことにより一般相対性理論は物理学理論としての一定の地位を得る。この事は世界のマスメディアにも取り上げられ、これによってアインシュタインの名は世界的に有名となるが、一方で彼がユダヤ人であるとの理由からドイツ国内における彼と相対性理論に対する風当たりは強かった。なお、この年の2月に親友のフリッツ・ハーバーの仲裁も空しくミレーバと離婚し、6月にはエルザと再婚している。ハーバーはユダヤ人であったが改宗しドイツ軍の毒ガス兵器開発に貢献している。キャンベルは、アメリカ・ワシントン州で再度日食を観測、曇天の隙間があり撮影には成功したが立証にはいたらなかった。しかし敵国人アインシュタインの名がアメリカで初報道された。

この間、理論の証明は日食観測によるよりも、数式上の確度の立証に移り、水星軌道の変則性から、ニュートンの理論の誤りを数学者のダフィット・ヒルベルトとほぼ同時に発見したが、ヒルベルトは、その功績をアインシュタインに譲っている。

ケンブリッジのエデイントンは、戦勝国者で、戦後も自由に海外渡航が出来、アフリカのプリンシペのジャングルで日食を観測、理論の立証を発表したが学会での認証は得れなかった。1922年皆既日食が豪州で観測されるとあって、キャンベルを初め7つの観測隊が派遣されたが、キャンベル隊のみが撮影に成功し、エデイントンを立証、ここに一般相対性理論は確立した。

1921年、カイム・ワイズマンの提案により、エルサレムに創立予定のヘブライ大学の建設資金を集める為にアメリカ合衆国を訪問し、その帰りにはイギリスも訪問した(ここではニュートンの墓を訪ねた)。

1922年3月にフランスを訪れた他、10月には日本国への訪問を目的に夫婦で客船「北野丸」に乗船。11月17日に訪日したアインシュタインは、その後43日間滞在している(#アインシュタインと日本参照)。また、日本へ向かう最中、11月9日にアインシュタインは前年度に保留されていた1921年度のノーベル物理学賞受賞の知らせを受けている。受賞理由は「光電効果の発見」によるものであった。当時、アインシュタインが構築した相対性理論について「人類に大きな利益をもたらす様な研究と言えるのかと言えば疑問」との声、更には「ユダヤ的」であるとするフィリップ・レーナルト或は、ヨハネス・シュタルクなどノーベル物理学賞受賞者らの批判があった。ノーベル賞委員会は、これらの批判を避けるために、光電効果を受賞理由に挙げたと言われている。なお、受賞に際して賞金も授与されたが、これはかつての妻ミレーバに渡したとされる。

1923年、日本を出国した後、エルサレム、スペインを訪問しドイツへと戻る。7月11日にスウェーデンのヨーテボリでノーベル賞受賞の講演をおこなっている。

1925年、インドの物理学者サティエンドラ・ボースからの手紙をきっかけとして、ボース=アインシュタイン凝縮の存在を予言する論文を発表。また、この時期に行っていた誘導放出の研究が、後のレーザーの開発につながっている。

1929年、ベルギー王家を訪問。ベルギー王妃エリザベート・ド・バヴィエールと親交を交わす。

)という町に別荘を建てる。1932年、アメリカへ3度目の訪問をすべくドイツを発つ。しかし、翌年にはドイツでアドルフ・ヒトラー率いるナチスが政権を獲得。以後ユダヤ人への迫害が日増しに激しくなっていったため、アインシュタインがドイツに戻ることはなかった。

(フランス語名ル・コック・シュル・メール、Le Coq-sur-Mer)に一時身を置く。しかしこの町はドイツとの国境に近かったため、ナチスの手が及ぶのを恐れたアインシュタインはイギリス、スイスへの旅行の後、再度イギリスへと渡る。その後アメリカへと渡り、プリンストン高等学術研究所の教授に就任。また、プロシャ・アカデミーを辞任。なお、この年にはアインシュタインの別荘をナチスが強制的に家宅捜索している。その後、ナチスはアインシュタインを国家反逆者とした。

1935年、ボリス・ポドリスキー、ネイサン・ローゼンと共にアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスを発表する(量子力学と相対性理論の矛盾)。また、アメリカでの永住権を申請、取得する。アメリカ国籍も申請。

1936年、ローゼンと共にワームホール(アインシュタイン・ローゼン橋)の概念を発表する。この年に妻のエルザが死去。

1939年、当時のアメリカ合衆国大統領であったフランクリン・ルーズベルト宛ての、原子力とその軍事利用の可能性に触れた手紙に署名。その手紙は「確信は持てませんが、非常に強大な新型の爆弾が作られることが、十分に考えられます。この爆弾1つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかその周辺部も壊すことができるほどの威力を持っています。」という内容だった。

1940年、アメリカ国籍を取得。1943年、アメリカ海軍省兵器局の顧問に就任。魚雷の起爆装置の改善に尽力。

1945年、広島への原爆報道に衝撃を受ける。8月第二次世界大戦終結。アメリカは戦勝国となったが、アインシュタインは「我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取った訳ではない」と演説する(ちなみに、ある日本人の記者が後にアインシュタインを訪ねた際、彼は記者に「敗戦国である日本には大変深く同情する。しかし戦勝国もまた苦しい道を歩いている」と述べた事があるという)。

1946年、原子科学者緊急委員会議長の役目を引き受ける。また、国連総会に世界連邦運動樹立を提唱する手紙を送る。

) をファシストと呼び、イスラエルのデイル・ヤシーン事件などのテロ行為を非難する書簡をニューヨーク・タイムズ紙上に発表する。なおこの頃、アインシュタインの大動脈に大きな動脈瘤が存在する事が手術の結果判明する。

1952年、イスラエル初代大統領ハイム・ヴァイツマンが死去したため、イスラエル政府はアインシュタインに対して第2代大統領への就任を要請したが、彼はこれを辞退している。

1955年4月11日、哲学者バートランド・ラッセルとともに核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容のラッセル=アインシュタイン宣言に署名する。4月13日、建国7周年を迎えるイスラエルと同国国民へ寄せるラジオ放送に関する打ち合わせ後、心臓付近の痛みに倒れる(腹部動脈瘤の破裂)。4月15日にプリンストン病院に入院し、周囲から手術を勧められるもこれを拒否。入院中の間、駆けつけた長男ハンスと面会した他、病院でも研究を続けるべく秘書に電話を掛け、必要な用具を持って来るよう伝えてもいる。そして4月18日の午前1時過ぎ、アインシュタインは76歳の生涯を終える。彼は死の間際にドイツ語で最後の言葉を遺したが、その場にいた看護師がドイツ語を理解できなかったため、彼が最後に何を言っていたのか、その内容については不明。アインシュタインの死後、同年7月9日には彼が生前に署名したラッセル=アインシュタイン宣言が発表された他、12月17日にはプリンストンで彼を偲ぶコンサートが開かれ、モーツァルトのピアノ協奏曲第26番 (モーツァルト)、バッハの神の時こそいと良き時などの曲目が演奏された。

平和活動

帰化申請書科学的業績によって得た世界的名声を背景に、アインシュタインは様々な政治的発言を行っている。第一次世界大戦中は平和主義を掲げ、戦争を公然と批判した。「2%の人間が兵役拒否すれば、政府は戦争を継続できない。なぜか、政府は兵役対象者の2%の人数を収容する刑務所を保有していないんだ」と発言し、反戦運動に影響を与えた。しかし、第二次世界大戦の際は、一転して戦争を正当化し、「最早、兵役拒否は許されない」と発言し、同時代人の文学者ロマン・ロランから後に痛烈に批判されている。また、ユダヤ人である彼は、ユダヤ人国家建設運動であるシオニズムを支援した。このためナチス・ドイツから迫害を受け、アメリカ合衆国に亡命している。

一部には「アインシュタインが原子爆弾の理論を発見した」あるいは「アインシュタインが原子爆弾の開発者」という思いこみも存在するが。

1922年(大正11年)、改造社の社長・山本実彦は、東北帝国大学の教授となっていた石原純、および、京都帝国大学の哲学教授・西田幾多郎のすすめによって、すでに同出版社が招致したバートランド・ラッセル、マーガレット・サンガーに次ぐ「革命的人士」として、アインシュタインを妻エルザとともに日本に招待した。これは、講演収入と同出版社の招待者特集本の売上増を見込んだものでもあったが、当時のドイツはユダヤ人迫害、日本は大正デモクラシーの時期であり、社会的にも大きな意味を持った。ただし、アインシュタインは、小泉八雲が記した美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことが来日の目的であると語っている。

10月8日、日本郵船「北野丸」でフランス南部・地中海に面したマルセイユを出港。11月10日(香港~上海市の途上)、スウェーデン科学アカデミーが、アインシュタインに1921年度ノーベル物理学賞(光電効果の法則等について。相対性理論についてではない)を授与することを発表し、船上でこの電報を受けた(1922年度の同賞受賞者・ニールス・ボーアと同時発表。授賞式典には参加できず、受賞者講演は1923年7月に行った)。このニュースは日本国内にも伝えられ、結果、日本各地で更なる歓待を受けることとなった。13日午前11時、上海入港。14日朝、神戸に向かって上海を出港した。

に到着。出迎えたのは、改造社の山本実彦夫妻、そして、発ので着。駅には歓迎の群集が押し寄せ、投宿する帝国ホテルに到着するのに相当の時間が必要だったと記録されている。

一般講演は入場料3円(オペラの上等席に匹敵)で、休憩を挟んで4-5時間程度。講演回数は6回の予定だったが、結局、東京市2回と仙台市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市・福岡市で各1回の計8回行われ、14,000名ほどの聴衆を集めた。講演の通訳は、東北帝大元教授で、助教授時代にアインシュタインのもとに留学した石原純。東京帝大での学術講義では、全国から集まった学者・学生120名が聴き入った。
※当時の六大都市(都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位#1920年(大正9年)の人口順位):東京大阪神戸京都名古屋・横浜
※当時存在していた帝国大学(設立順):東京京都東北九州・北海道
※当時存在していた帝大以外の旧制大学:慶應・早稲田大学など24校(内地22校、外地2校)

日程

  • 11月19日、慶應義塾大学・三田大講堂にて2千数百名の入場者を集めて一般講演田中舘愛橘とアインシュタイン(東京大学)。「特殊相対性理論について」「一般相対性理論について」
  • 11月20日午後、小石川植物園で開かれた学士院の公式歓迎会に出席。参加者は穂積陳重、長井長義、通訳を勤めた長井夫人のテレーゼら。夜は明治座で日本の芝居を見物。
  • 11月24日、東京基督教青年会館で一般講演。「物理学における空間および時間」
  • 11月25日~12月1日、東京帝国大学理学部物理学教室中央講堂で、専門家向け学術講演(日曜は休んで毎日14:00から一時間半、計6回)。「光速度不変の原理」「自然法則とローレンツ変換の共変性」「テンソル解析法」「テンソル微分法」「万有引力」についてなど
  • 12月2日、 2009年12月30日)。東北帝国大学を訪問し、本多光太郎教授と会う。講義室の壁にサインを残すが、仙台空襲で建物が焼失したため、現存しない。
  • 12月3日、に乗り、松島#雪月花をし、瑞巌寺を見学。仙台に戻って土井晩翠と会う。仙台泊。
  • 12月4日、8:30発の列車で日光市へ向かい、日光で2泊する。
  • 12月6日、列車で東京へ。
  • 12月7日、移動。
  • 12月8日、名古屋国技館で一般講演
  • 12月10日、京都市公会堂で一般講演。「いかにして私は相対性理論を創ったか」
  • 12月11日、大阪中央公会堂で一般講演
  • 12月13日、神戸基督教青年会館で一般講演
  • 12月17日、22:14に奈良へ到着。奈良ホテルで2泊する。
  • 12月18日、奈良公園周辺を散策。春日若宮おん祭の後宴能を鑑賞し、奈良国立博物館等を訪れる。
  • 12月20日、厳島に到着。
  • 12月23日夜、門司市の北九州市旧門司三井倶楽部に宿泊。
  • 12月24日、大博劇場で一般講演。東中州のカフェ・パウリスタで慰労会、旅館栄屋に宿泊。
  • 12月25日、九州帝国大学訪問(理工学部にて)、博多見物。門司に移動して、門司キリスト教青年会のクリスマスパーティに参加し、ヴァイオリンでアヴェ・マリアを演奏。
  • 12月27日、関門海峡や下関市を見物。
  • 12月28日夜、送別会。日本人列席者による義太夫、謡曲、長唄、槍さび、どじょうすくいなどの隠し芸と、返礼に博士によるヴァイオリン演奏3曲。

講演の合間を縫って、浅草、松島、日光、熱田神宮、京都、奈良、宮島などを観光し、能と歌舞伎も堪能した。26日に離日の予定だったが、船舶の都合で滞在が3日延びたため、門司三井倶楽部に滞在した。12月29日午後3時、日本郵船「榛名丸」で門司港よりパレスチナに向けて出航・離日。

その他

  • 1922年の来日の際人力車に乗ることを薦められたが、非人道的な奴隷労働と解釈し、乗車を拒否したことがある。
  • 広島の平和活動家の『』を自費で大量に購入し、知人に配って回った事からも、原爆被害について関心を持っていたようである。
  • 第二次世界大戦後、日本の哲学者で雑誌「改造 (雑誌)」の編集者だった篠原正瑛から原爆開発に関して、「その第一の目的が、人類の福祉と幸福に奉仕すべき科学が、なぜにあのように恐ろしい結果を、もたらすようになったのか。偉大な科学者として、原爆製造に重要な役割を演じられたあなたは、日本国民の精神的苦痛を救う資格がある」という手紙を受け取った。それに対してアインシュタインはあえて篠原の手紙の裏面に返事を記し、「原爆が、人類にとって恐るべき結果をもたらすことを、私は知っていました。しかし、ドイツでも、原爆開発に成功するかも知れないという可能性が、私にサインさせたのです。私に敵があって、その無条件の目的が、私と私の家族を殺すことである場合です。」と述べた上で、追伸として、「他人の行為については、十分な情報を手に入れてから意見を述べるよう努力すべきだ」と記した。。篠原とアインシュタインはその後も手紙のやり取りを続け、篠原が受け取ったアインシュタインの書簡6通は篠原の没後の2005年に広島平和記念資料館に寄贈されて保管されているhttp://www.city.hiroshima.jp/www/contents/0000000000000/1132207991848/index.html
  • 1993年、スティーヴン・ホーキング博士が仙台を訪れた際、来仙理由を訊いたところ、『アインシュタイン博士の本を読んでいたら、「やがてわれわれの大学と競争関係に入る大学は東北大学だ」と書いてあったからだ。』と答えた。
  • 日本のネット上で、アインシュタインが述べたとされるいくつかの言葉が出回っているが、そのほとんどは本当にアインシュタインがそう述べたのかという確証が取れていない。例としては、「日本が世界の盟主になる」とした予言(→アインシュタインの予言)や、「『複利』は人類史上最大の発見」とするもの、またそこから派生した「アインシュタインの72の法則」(→72の法則)と呼ばれるものなどである。

脚注

参考文献

  • W・ヘルマンス『アインシュタイン、神を語る 宇宙・科学・宗教・平和』雑賀紀彦訳 工作舎 2000 ISBN 978-4-87502-327-2
  • E・レジス『アインシュタインの部屋 天才たちの奇妙な楽園』上下 大貫昌子訳 工作舎 1990 ISBN 4-87502-171-2 ISBN 4-87502-172-0
  • D・トルブホヴィッチ=ギュリッチ『二人のアインシュタイン ミレヴァの愛と生涯』田村雲供+伊藤典子訳 工作舎 1995 ISBN 4-87502-259-X
  • K・ウィルバー編『量子の公案 現代物理学のリーダーたちの神秘観』田中三彦+吉福伸逸訳 工作舎 2000 ISBN 4-87502-137-2

関連項目

  • アインシュタインの式
  • アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス
  • アインシュタインリング
  • アインシュタイン (単位)
  • アインスタイニウム
  • アインシュタインの予言
  • アインシュタイン=シラードの手紙
  • ロバート・オッペンハイマー
  • アインシュタインの脳(映画)
  • アインシュタインロマン(NHKスペシャル)
  • 世界物理年
  • ロンジン - 愛用していたという懐中時計。現在もほぼ同等の時計を販売している。
  • 高機能自閉症
  • アスペルガー症候群

外部リンク

1879年生まれの人物
アルベルト・アインシュタイン / 荻原守衛 / パウル・クレー / 滝廉太郎 / レフ・トロツキー / 永井荷風 / オットリノ・レスピーギ /

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    アルベルト・アインシュタインの言葉『 不運は、幸運とは比較にならないほど、 人間によく ... [アインシュタイン]自分自身の、そして他の人々の人生に意味を見だせない人は、単に不幸であるばかりでなく生きるのに向いていないと言えましょう。
  • 自分自身の、そして他の人々の人生に意味を見だせない人は、単に不幸 ...
    アルベルト・アインシュタインの言葉『 自分自身の、そして他の人々の人生に意味を見だせない人は、 単に不幸であるばかりでなく 生きるのに向いていないと言えましょう。』 不動産、特にマイホームを購入されたお客様の幸せそうなご様子に、 ...
  • アインシュタイン[アルベルト・アインシュタイン](20世紀の理論物理学者 ...
    アインシュタイン[アルベルト・アインシュタイン](20世紀の理論物理学者、ノーベル物理学賞受賞、1879 01955)の名言. 投稿時の僕の感情はあらわす名言は 私には特別な才能などありません。ただ、ものすごく好奇心が強いだけです。(ver.0) ...
  • しげの日記: 情報起業とは?情報ビジネスの全てを公開
    聖なる好奇心を持ちたまえ」(アルベルト・アインシュタイン) こんにちは。 いつもご覧いただき、ありがとうございます。 太郎です^^ さて、今日は情報起業に関して非常に勉強になる動画を発見したのであなたにシェアしようと思います。 情報起業 ...
  • アルベルト・アインシュタインの名言 : twaltherp38uのブログ
    俺様の心に響く今の名言は 信念は、推進力としては役に立つが、調整器としては役に立たない。 【アルベルト・アインシュタイン】 評判の商品をランキングでチェック!! ランキングでゴルフ場も見てみる人気商品をショップ別も見てみる今日の ...
  • アインシュタイン[アルベルト・アインシュタイン](20世紀の理論物理学者 ...
    核連鎖反応の発見が人類の滅亡につながるわけではない。それはマッチの発明が人類の滅亡につながらないのと同じだ。 【アインシュタイン[アルベルト・アインシュタイン](20世紀の理論物理学者、ノーベル物理学賞受賞、1879 01955)】 ...

アルベルト・アインシュタインに関するニュース
  • 保守的な人ほど効果UP! 散らかったデスクはあなたの思考をより ...(1月24日 17時13分)
    20世紀最大の物理学者とも言われるアルベルト・アインシュタイン、イギリスの有名作家ロアルド・ダールはその机が散らかっていたことで有名であり、今回の研究結果を支持するものともとれる。また研究者たちは、この思考クリア効果について次のよう ...
  • プロフェッショナルは「ファクトの前では平等である」(1月22日 10時34分)
    このことを考えるとき、しばしばアルベルト・アインシュタインのことを思い起こす。その名を知らぬ者はいない、20世紀最高の物理学者である。 1905年は物理学の世界では奇跡の年と呼ばれている。なぜなら、アインシュタインによって特殊相対性理論 ...
  • シンコーミュージック・エンタテイメント、iPhone/iPad用電子書籍 ...(1月31日 20時03分)
    シンコーミュージック・エンタテイメントは大人気書籍『男の座右の銘』をiPhone/iPad用電子書籍として2ヶ月連続リリース。 『男の座右の銘~世界と日本編~』を1月25日に販売開始。 リリースキャンペーンとして特別定価250円でご提供。 iPhone/iPad用電子書籍 ...
  • 株式会社アドベンチャー プレスリリース(2月1日 7時59分)
    iPhoneiPad 電子書籍 『 男の座右の銘 世界と日本編 』 アプリリリース リリースキャンペーン 250円 58%オフ 書籍定価600円 『 寝るのはバカだ。みんな寝過ぎだ。私は死んだあとでたっぷりと寝る! エジソン 』 自分に合う歴史的人物はだれだ ...
  • iPhone iPad 電子書籍『男の座右の銘 世界と日本編』アプリリリース(1月31日 17時54分)
    『寝るのはバカだ。みんな寝過ぎだ。私は死んだあとでたっぷりと寝る! エジソン 』 アップル関連製品のサービスを提供する株式会社アドベンチャー(本社:東京都渋谷区、代表取締役 中村俊一 http://www.adventure-inc.co.jp/ )は、シンコーミュージック社 ...

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