Noguchi, Hideyo

野口英世

ノグチヒデヨ
Noguchi, Hideyo
1876年11月09日~1928年05月21日
[日本] [応用科学]

[野口英世 人物情報]

日本の細菌学者。1876年(明治9年)現在の福島県猪苗代町の貧しい農家に生まれる。苦学して20歳で医師免許を取得し、1898年北里伝染病研究所の助手となり、細菌学の研究を行った。
1900年に渡米し、ペンシルベニア病理学研究室の助手を経て、1904年からロックフェラー医学研究所に勤務する。1913年梅毒スピロヘータに関する研究などで名声を得、ノーベル賞候補ともなった。
1918年エクアドルに渡り、黄熱病の研究に従事する。その後、アフリカに渡り黄熱病の研究を続けたが、自身も黄熱病にかかり、1928年に現ガーナの首都アクラで死去した。

Wikipediaの人物情報

野口 英世(のぐち ひでよ、1876年(明治9年)11月9日 - 1928年(昭和3年)5月21日)は、日本の細菌学者。

1876年11月9日、福島県生まれ。ペンシルベニア大学医学部を経て、ロックフェラー医学研究所研究員。細菌学者として数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞候補に3度なる。黄熱病の研究中、自身も罹患し、1928年5月21日、アフリカのガーナのアクラにて死す。栄典は、正五位・勲二等・旭日章。学位は博士 (医学)(京都大学)、博士 (理学)(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル陸軍軍医・名誉大佐。キリスト者。妻はメリー・ロレッタ・ダージス。学歴は、猪苗代高等小学校卒業、済生学舎(現在の日本医科大学)修了。

概要

黄熱や梅毒等の研究で知られる。また、ロベルト・コッホから始まる細菌学的医学権威の最後の一人ともいわれる。ガーナのアクラで黄熱病原を研究中に自身も感染して51歳で死去。3度、ノーベル医学・生理学賞候補となる。

人物

野口英世を主人公とした、子供向けの偉人伝が多数刊行されて「偉人の代表」ともよべる存在となったため、医学研究者としては非常に知名度が高い人物である。2004年より発行されている日本銀行券の千円紙幣の肖像になっている。

趣味は、浪花節、将棋、囲碁、油絵であった。アメリカ合衆国シャンデイケンに野口の設計した別荘があり、画家でもある堀市郎に師事し油絵の多くはここで描かれた。

アメリカ合衆国・ニューヨークにあるロックフェラー大学の図書館入り口の双方には、ジョン・ロックフェラーと、ロシア人彫刻家カニョンコフが制作した野口英世の胸像がある。この像はロックフェラー財団からの贈呈を受け、福島県の猪苗代町にある野口英世記念館と東京都にある野口英世記念会館にも設置されている。また長野県佐久市にある川村吾蔵記念館には彫塑家川村吾蔵が制作した胸像がある。さらに東京、上野恩賜公園の国立科学博物館前にも銅像がある。

年譜

1876年(明治9年)
11月9日 - 福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・猪苗代町)に野口佐代助・野口シカ夫妻の長男として生まれ、清作と名付けられる(後述の理由により22歳で英世と改名)野口家は代々農家の家系であった。彼の母は勤勉で真面目な性格であったが、母の奉公先の二瓶家の紹介で婿入りした父は酒好きで怠け者の性格であり、それが野口家の貧困に拍車をかけていたと言われる。後年、野口は母に似て勤勉な努力家になる一方、酒好きで怠け者な父の性格も同時に受け継いだものか、放蕩で多額の借金を重ね、周囲の人々に迷惑を及ぼし続けるという、極端な二面性を持つことになった。
1877年(明治10年)4月
1歳の時に囲炉裏に落ち、左手を大火傷するこの当時、医者といえば内科的漢方医が主流で、また農村においては医療と法術祈祷の境界も明確ならざる認識であり、祈祷師による医学的根拠のない民間治療に頼る以外に方法はなく、その結果、野口の左手の指は癒着してしまった。また、明治政府は新しく医師免許法を敷き西洋医を都市部へ導入しようとしていた段階で、三ッ和村には外科手術が可能な西洋医はおらず、仮にいたとしても野口家の経済状態では治療費を払うこともできなかったと思われる。また、たとえ治療費を払えるだけの経済力が野口家にあったとしても、当時の医療技術では、彼の左手を元通りにできるような治療が可能であったとは考えにくい。
1883年(明治16年)
三ッ和小学校に入学当時、義務教育制度はなかったが、小学校の学費は無料で、しかも小学校は野口家の向かい、母シカが奉公していた二瓶家の敷地内にあり、当主の二瓶橘吾は公式に学務委員を務めていた。当時、多くの学童が一里~二里の道程を歩いて学校に通っていた状況に鑑みると、野口が勉学を行うには恵まれた環境であったと言える。。左手の障害から農作業が難しく、学問の力で身を立てるよう母に諭される当時、半数以上の学童が様々な事情で退学していく中、家の手伝いなどで勉強が疎かになり落第したこともあったものの、上級生の時の成績は優秀で、小学校卒業時の成績は首席であった。
1889年(明治22年)
猪苗代高等小学校の教頭であった小林栄に優秀な成績を認められ、小林の計らいで猪苗代高等小学校に入学する当時、高等小学校に通うことができたのは一部の裕福な家庭の子息だけであったが、小林は野口のために自ら学費を援助しており、当時の野口に対する小林の期待の大きさがうかがえる。また、野口自身も母や小林らの期待によく応え、高等小学校でも体操以外の成績はすべて首席であった。野口は左手が不自由なために、体操だけは苦手であったと言われている。また、現存する彼の4年間の成績表の体操の項目には点数が入っておらず、体操は学業評価の対象ではなかったと考えられる。なお、野口は右手で箸を持ちながら左手で弁当箱を持つことができなかったため、彼が学校に持って行く弁当は、箸を使わずに右手だけで食べられるよう、いつも握り飯だったと言われている
1891年(明治24年)
左手の障害を嘆く彼の作文が、小林を始めとする教師や同級生らの同情を誘い、彼の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受ける。その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになる。この手術がきっかけで医師を目指す。
1893年(明治26年)
猪苗代高等小学校を卒業後、自分を手術してくれた渡部の経営する会陽医院に書生として住み込みで働きながら、約3年半にわたって医学の基礎を学ぶ。この間に、渡部の友人であった歯科医で東京都港区の高山高等歯科医学院(現在の東京歯科大学)の講師 (教育)・6歳年長の血脇守之助と知り合う。
1896年(明治29年)
小林らから40円もの大金を借りて上京。医師免許を取得するために必要な医術開業試験の前期試験(筆記)に合格するも、放蕩のためわずか2ヶ月で資金が尽き、下宿からの立ち退きを迫られる。後期試験に合格するまでの間、血脇の勤める高山高等歯科医学院に書生として雇ってもらおうとするが院長に拒否され、血脇の一存で非公式に寄宿舎に泊まり込むこととなる。その後、掃除や雑用をしながら学僕となる。同年、ドイツ語の学習を目的としてエリザ・ケッペン夫人の夜学の学費を得たいと考え、血脇に相談するが、月給4円の血脇には捻出できないため、血脇に策を与え院長に昇給を交渉させる。その結果、血脇の給与は月額7円となり、ここから学費を得ることができた。後期試験(疫学#臨床試験)は実際の患者を相手に診断をするもので、独学が不可能であったため、医術開業試験の予備校である済生学舎(現在の日本医科大学)1876年(明治9年)に開校し、1903年(明治36年)に長谷川泰によって突然廃校される。それまで済生学舎に在学していた学生、教職員は1904年、日本医学校(現在の日本医科大学)を創立した。ただし、野口はアメリカで、自分は東京医科大学を卒業し、医学博士号を授与されたと詐称している。野口が詐称した東京医科大学とは、後に東京帝国大学医科大学になる東京医学校でも、当時は存在しなかった新宿区にある今日の東京医科大学の事ではない。へ通う資金を得るために、再び血脇に秘策を与えて院長と交渉させる。その結果、血脇は院長から病院の経営を任せてもらうことで病院の予算を自由に動かせるようになり、彼自身は血脇から月額15円もの援助を受けることに成功野口に15円を全額渡すと即座に放蕩してしまい、学費が払えなくなることが分かったため、血脇は5円ずつ3回に分けて渡すようになったという逸話がある。。済生学舎(現在の日本医科大学)近くの東京都文京区本郷の大成館に下宿する。
1897年(明治30年)
臨床試験で必須の打診ができないことから、血脇の計らいで帝国大学外科学教授・近藤次繁による左手の無償再手術を受ける。その結果、打診が可能になり後期試験にも合格。21歳で医師免許を取得した明治9年に長谷川泰により設立された済生学舎(現在の日本医科大学)は、有名な人物だけでも高橋辰五郎(1886年22歳で免許取得)、吉岡彌生(東京女子医科大学創立者)(1892年21歳で免許取得)、光田健輔(1896年20歳で免許取得)など若くして医師免許を取得する者を多く輩出し、当時の医師の半数を養成したとも言われ、野口が通学を希望した理由もここにあったと考えられる。ちなみに、当時の医術開業試験は俗に“前期3年・後期7年”とも言われたほどの難関で、30歳を過ぎても合格できない例も珍しくなかった。済生学舎(現在の日本医科大学)の教育水準の高さもさることながら、16歳から医学の勉強を始めて4年余で試験に合格し、21歳で免許を取得した野口は優秀であったと言える。。医師免許取得後、開業資金がなく、また左手を患者に見られたくないという理由から、開業医の道を断念。血脇の計らいで高山高等歯科医学院の講師を務める他、順天堂大学医学部附属順天堂医院で助手 (教育)として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わる。
1898年(明治31年)
10月 - 順天堂の上司である編纂主任・菅野徹三に頼み込み、順天堂医院長・佐藤進 (軍医)の紹介という形で、血清療法の開発などで世界的に名を知られていた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤め始める伝染病研究所では学閥により冷遇されており、後に野口が研究所を辞めてアメリカ合衆国へ渡る原因になったと言われるが、所長の北里柴三郎はその後も野口に対して便宜を図っており、また野口もアメリカから北里に宛てて多くの論文を送っていることから、野口と北里の関係は険悪であったとは考えにくく、この説に疑問を唱える意見もある。もともと、伝染病研究所は北里と帝国大学医学部との対立を発端として設立されており、研究所内における学閥的な風潮はそれほど強くはなかったと思われる。ただし、当時の研究員が平均28歳前後で大学を卒業し入所していた事情を鑑みると、22歳で紹介入所した野口が若輩扱いされていたのは年功序列的に致し方のない面もある。また、野口は当時、研究所勤務と同時に順天堂の雑誌編集と高山高等歯科医学院の講師も継続兼務しており、研究のための十分な時間を確保できず、研究所に在籍した8ヶ月の間に野口は一切研究に関わることはできなかったため、研究所内においては医学者としての実績・評価はない。。研究所では語学の能力を買われ、外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳、および研究所外の人間との交渉を担当した。同年、知人からすすめられて、坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読んだところ、弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る登場人物・野々口精作が彼の名前によく似ており、また彼自身も借金を繰り返して遊郭などに出入りする悪癖があったことから強い衝撃を受け、そのモデルであると邪推される可能性を懸念し改名を決意、郷里の小林に相談の結果、世にすぐれるという意味の新しい名前“英世”を小林から与えられた「当世書生気質」が発刊されたのは1885年(明治18年)であり、当時まだ9歳であった野口の年齢を考慮しても主人公の名前と野口清作との間に直接の関係はない。しかし、坪内は後に、「自分の小説が野口英世の奮起の動機になったと知り、光栄に思う」との旨を語っている。。本来、戸籍名の変更は法的に困難であるが、野口は別の集落に住んでいた清作という名前の人物に頼み込んで、自分の生家の近所にあった別の野口家へ養子に入ってもらい、第二の野口清作を意図的に作り出した上で、「同一集落に野口清作という名前の人間が二人居るのは紛らわしい」と主張するという手段により、戸籍名を改名することに成功した。
1899年(明治32年)
4月 - 伝染病研究所渉外係の業務の一環として、アメリカから志賀潔の赤痢の研究を視察するために来日していたサイモン・フレクスナー博士の案内役を任された際、フレクスナーに自分の渡米留学の可能性を打診。
5月 - 伝染病研究所の蔵書が、野口経由で貸し出された後に売却されるという事件が発覚。この事件を理由に研究所内勤務から外されたが、北里所長の計らいで横浜港検疫所検疫官補となる。
9月 - 横浜港に入港した“あめりか丸”の内部で、ペスト患者を発見・診断した。
10月 - 清でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省より要請のあった、国際防疫班に選ばれる。しかし支度金96円を放蕩で使い果たしたため、資金を血脇に工面してもらい渡航。清国では一般的な病気の治療にあたった。半年の任期終了後も国際衛生局、ロシア衛生隊の要請を受け残留。国際的な業務を体験し、翌年5月にフレクスナー宛にアメリカ留学を希望する手紙を出す(ロックフェラー大学・noguchi-paper)。この時期は大変な高給に恵まれたが、放蕩で使い果たしてしまったため、渡航のための資金を得る事はできなかった。
1900年(明治33年)
6月 - 義和団の乱により清国の社会情勢が悪化。
7月 - 日本へ帰国。開通したばかりの岩越鉄道線(現・磐越西線)で福島県に帰郷。小林に留学資金の融通を要請するも、「いつまでも他人の金に頼るな」と諭され拒否される。再び神田・東京歯科医学院(芝より移転した元・高山高等歯科医学院)の講師に戻る。
12月 - 箱根の温泉地にて知り合った斉藤文雄の姪で、医師を志す女学生・斉藤ます子と婚約を取り付け、その婚約持参金を渡航費に当て、アメリカへ渡航斉藤ます子との結婚を前提とした婚約持参金の他に、小林夫人が内職で作った金、旧友から借りた金など計500円もの大金を渡航費として準備したが、横浜の遊郭でほとんどが使い果たされてしまった。結局、出航直前に血脇が高利貸しから借りた300円の金が渡航費となった。。北里の紹介状を頼りに、フレクスナーのもとペンシルベニア大学医学部で助手の職を得て、蛇毒の研究というテーマを与えられ、研究の成果を論文にまとめる。この蛇毒の研究は、フレクスナーの上司で同大学の理事であったサイラス・ミッチェル博士からも絶賛され、野口はミッチェルの紹介で一躍アメリカの医学界に名を知られることとなったミッチェル博士はもともと彼の父親から受け継いだ蛇毒の研究に生涯をかけて取り組んでいたが、彼は野口の作成した論文を読んで、「私と父が親子二代にわたって取り組んできた長年の研究が、一人の日本人青年の協力によってようやく完成を迎えた」と賞賛し、研究の成果はミッチェル・フレクスナー・野口の連名で正式に学会で発表された。
1901年(明治34年)
ジョン・ロックフェラー医学研究所が設立される。この研究所の設立にあたっては、フレクスナーが組織構成を任されていた。
キューバの眼科医キャロル・フィンレーとアメリカの軍医、ウォルター・リード大佐が人体実験により黄熱が蚊により伝染することを突き止める。また黄熱患者の血清を細菌濾過器に通過させることにより、黄熱病病原体が血液中にあり濾過性のウイルスであることを証明する。(野口は後年南米での黄熱研究でこの証明を受け入れていない。)
1903年(明治36年)
フレクスナーの指示によりデンマーク、コペンハーゲンの血清学研究所に留学。物理学者アーレニウス・マドセンとの連名でいくつかの論文を執筆する。
1904年(明治37年)
10月 - アメリカに戻り、ロックフェラー医学研究所に移籍。
1905年(明治38年)
血脇が婚約持参金300円を斉藤家に返済し、斉藤ます子との婚約を破棄。
1911年(明治44年)
8月 - 「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表。世界の医学界に名を知られることとなる。(ただし、病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は野口株について追試に成功したものがおらず、また当時の培地での完全な純粋培養は非常に困難であることが明らかになったため(病原性梅毒スピロヘータの純粋培養はニコラスI株について1981年以降に成功が複数報告されている)、純粋培養の成功は現代ではほぼ否定されている)。同時期に同じ研究室で仕事をしていたHans Zinsserは、培養された野口株が病原性を示していないことを報告している((a) Zinsser, H.; Hopkins, J. G.; Gilbert R. "NOTES ON THE CULTIVATION OF TREPONEMA PALLIDUM" J. Exp. Med. 1915, 21(3), 213-221. (b) Zinsser, H.; Hopkins, J. G. "ANTIBODY FORMING AGAINST TREPONEMA PALLIDUM-AGGLUTINATION" J. Exp. Med. 1915, 21(6), 576-582.

)。また野口の報告に遅れて単離されたニコラスI株は、純粋培養は失敗したものの病原性を有し(Nichols, H. J.; Hough, W. H. "Demonstration of Sprochaeta pallida in the cerebrospinal fluid from a patient with nervous relapse following the use of salvarsan" J. Am. Med. Assoc. 1913, 60, 108-110.)、最終的に1981年に二つのグループによって純粋培養の成功が報告された。(a) Fieldsteel, A. H.; Cox, D. L.; Moeckli, R. A. "Cultivation of Virulent Treponema pallidum in Tissue Culture" Infect. Immun. 1981, 32(2), 908-915.(b) Norris, S. J. "In Vitro Cultivation of Treponema pallidum: Independent Confirmation" Infect. Immun. 1982, 36(1), 437-439. 非病原性の梅毒スピロヘータの純粋培養は野口の報告と前後して他に5例報告されており、野口が最初ではない。また病原性梅毒スピロヘータの純粋培養には酸素濃度のコントロールが重要であったこと、野口株の遺伝子の型が非病原性のものと一致していることなどから、現在では病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は試行成功していなかったと考えられている。

研究内容 年度 成果 現代の評価
蛇毒の血清学的研究 1900年(明治33年) -- 蛇毒の最初期の血清学的研究として評価されている
梅毒スピロヘータの純粋培養 1911年(明治44年) -- ほぼ否定(詳細は上記記事および脚注を参照:純培養は野口の前後に同様の報告があるため野口の実験の評価は歴史的制約を考慮すべきであるが、野口の培養した株は病原性を有していなかった点が問題とされる)
梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆患者の脳病理組織内で発見 1913年(大正2年) -- 進行性麻痺・脊髄癆が梅毒の進行例であることを証明したもので、評価されている
梅毒スピロヘータの感染実験による梅毒の再現 1913年(大正2年) -- 進行性麻痺患者の脳組織からウサギへの感染実験により麻痺を再現した。梅毒の進行期の病態を生物学的に証明したものとして、評価されている
小児麻痺病原体特定 1913年(大正2年) -- 病原体はウイルスと判明し否定
狂犬病病原体特定 1913年(大正2年) -- 病原体はウイルスと判明し否定
南米・黄熱病病原体特定 1918年(大正7年) ワクチンにより南米でのワイル病流行が収束 稲田龍吉によりすでに日本で同定されていたワイル病の病原体と野口が報告したスピロヘータが血清学的に同一であることが後に、黄熱病ウイルス発見者のマックス・タイラーにより明らかにされた。黄熱病の病原体の報告としては誤りであったが、南米でのワイル病病原体を初めて発見したと評価される。
ペルー疣とオロヤ熱が同じカリオン氏病の症状であることを証明 1926年(大正15年) -- 評価されている。(カリオンの自らを犠牲にした実験の評価は当時アメリカなど一部で懐疑的な見解があった)
熱帯リーシュマニア症の研究 1927年(昭和2年) -- 培養技術、血清学的研究および形態的記述が評価されている。
トラコーマ病原体特定 1927年(昭和2年) -- 別病原体(クラミジア)が判明し否定
アフリカ・黄熱病原体特定(未発表) 1928年(昭和3年) -- 野口の秘書宛書簡に、黄熱病原体が濾過性(ウイルス)である旨の記述がある。

エピソード

  • 少年期の野口は家を疎ましく思い、死を覚悟するほど家を出たいと願っていた。高野川ほとりでのこのような口論があった旨、姉・野口イヌの後年の回想にある。イヌ「私は家を出て行くので、長男のお前があの家を継ぎなさい」清作「俺は継ぎたくない。姉さんが婿をとって継いでくれ。あんな希望のない百姓の家などいらない、姉さんにくれてやる。」押し問答を続け、しまいに清作は川に飛び込もうとする。清作「俺が家を継がねばならないなら死ぬ。」(野口英世記念会「野口英世-少年期」)
  • 野口の父は酒好きの怠け者であり、野口家の貧困に拍車をかけた人物として、伝記では批判の対象とされることが多いが、本人は特に悪人というわけでもなく、性格的にはむしろ人好きで好印象な人物であったと言われる。後年、野口が恩師や友人たちを巧妙に説得して再三にわたり多額の借金を重ね、借金の天才とまで呼ばれたほどの野口の要領の良さ・世渡りのうまさは、良くも悪くも彼の父から受け継いだ才能であったと言われている。
  • 野口の母は農作業のかたわら、副業として助産師を営んでいた。産婆の開業について政府による新しい免許制度が創設され、全ての産婆に免許の取得が義務付けられた時、母は文字の読み書きができなかったが、近所の寺の住職に頼み込んで一から読み書きを教えてもらい、苦労の末に国家試験に合格、正式な産婆の免許を取得し、生涯にわたって合計2000件近くの出産に貢献した。この点において、野口の母も息子と同じく医学に身を捧げる生涯を送ったと言える。
  • 会津若松の書生時代に洗礼を受けた日本基督教団若松栄町教会で出会った6歳年下の女学生・山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送る。しかし女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受ける。その後東京の済生学舎(現在の日本医科大学)で、逝去した医師の父の後を継ぐため、順天堂医院で看護婦をしながら女医を目指す山内に再会し学友となり、頭蓋骨を贈呈している。1899年(明治32年)清国に出向く直前には正装し湯島に下宿する山内に会いに行き、また清国より帰国した折には野口と山内の名を刻んだ指輪を贈っている。山内はそれを迷惑と感じたようで下宿の主婦に依頼し以降の面会を拒否した。その後山内は1902年(明治35年)20才で医師免許を取得、医師森川俊夫と結婚、会津若松で三省堂医院を開業。野口は山内の従兄弟である菊地良馨経由で山内が結婚した事を知り「夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ。君よ、快活に世を送り給え」との一文を菊池に送っている。野口が日本に帰郷した際の記念写真には、山内の姿がある。
  • 渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種となった。血脇とやりとりされた手紙の中で幾度もこの件に触れており、斎藤ます子に対し「顔も醜く学がない」旨の評がある。血脇は破談を薦めるが、野口は自ら破談にする事はなく先方から破談されるよう策していた。現代と適齢期の常識が異なり、婚期を逃す事を恐れた斎藤家から幾度も婚約履行の催促が来るのに対し、野口からは数年は研究で帰国できないと宣言する、欧州への留学資金を数千円要求するなど、ずれたやりとりが多く見られる。
  • フレクスナーに渡した履歴書には、1893年(明治26年)5月に東京医科大学に入学し3年で卒業とあり、ロックフェラー医学研究所の公式記録にもその旨記載されている。実際には1893年(明治26年)には会津若松で書生をしており、その後も医術開業試験予備校である済生学舎(現在の日本医科大学)にも数ヶ月通っただけであった。またアメリカで出した初論文から一貫して医学博士(M.D.)であることを明示していたが、日本には当時医学博士は数十人単位しかおらず、学歴詐称・肩書詐称の状態であった。1927年(昭和2年)に友人・堀市郎がアメリカの新聞記者に取材を受けた際に苦学生であったことを説明するために野口が大学を卒業していないことを語ったところ、憤慨し、電報で取り消しを求めた。
  • アメリカに渡った後に母親にアメリカの自分の住所が刻印された判子を送っている。これは母親が大変字が下手な事を考慮して送った物である(前記の通り野口の母はもともと文字の読み書きができず、正式な産婆の免許を取得するために苦労して一から読み書きを学んだ)。一度の帰国も母親の手紙に端を発しており、帰国した折には母親とずっと一緒に居たとも伝えられている。
  • ニューヨークでの将棋の相手は、絵の師でもある写真家堀市郎であり、囲碁の相手は、彫塑家川村吾蔵があたった。「野口さんが勝ち出すと、堀君が待ったをかけ、三手、四手も遡って最後に堀君が勝つまで待ったをする。2回戦は野口さんが勝つ。それで一勝一敗で夜遅くなり、その翌晩に対戦する。これが幾晩も幾年も続いた」と川村吾蔵が野口英世と堀市郎の将棋の様子を「野口博士との思い出」で綴っている。
  • 1904年(明治37年)、24歳の時に、星一の計らいでアメリカ・フィラデルフィアに滞在していた前総理大臣伊藤博文の宿舎を訪ね、1時間ほど歓談を行っている。後にお互いが千円紙幣の肖像に採用される。
  • 台湾医学界の重鎮であった、杜聡明が学生時代、ニューヨークにいる野口英世を訪ね、ロックフェラー研究所の食堂で日本語で歓談していた際、食堂内に米国人が入ってきた途端、野口はさっと言語を日本語から英語に切り替えたという。杜聡明は、「これが真の国際マナーであり、国際人というものか」と感嘆した、と自らの書で野口英世について語っている(「中国名医列伝」・中公新書)。

野口英世語録

  • 志を得ざれば再び此の地を踏まず(青年期、上京の際、猪苗代の実家の柱に彫りこんだ言葉)
  • 人生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない。
  • 努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。
  • 絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。
  • ナポレオンは三時間しが寝なかった(口語)
  • 偉ぐなるのが敵討(ガタキウ)ちだ(口語)
  • 学問は一種のギャンブルである。
  • 名誉のためなら危ない橋でも渡る。
  • 忍耐は苦い。しかし、その実は甘い。(原典フランス語)
  • 英雄却相親(星一との写真に添え書き)

後世への影響

  • 「偉人伝」としては、戦前からよく取上げられる人物であった。
  • 野口英世記念医学賞 - 財団法人野口英世記念会が優れた医学研究に贈る賞(1957年創設)
  • 2004年11月1日に発行された日本銀行券の肖像画になっている。
  • 2004年9月13日、野口英世の出身地に因んで、福島県耶麻郡猪苗代町の翁島郵便局が野口英世の里郵便局と改称された。
  • 野口英世アフリカ賞 - 日本で開催されるアフリカ開発会議で表彰される賞。医学者が主な受賞対象となる。

系譜

  • 野口家

清太郎━━岩吉==善之助==佐代助━━清作(英世) (渡部氏)(小檜山氏)

関連項目

  • 済生学舎
  • 日本医科大学
  • ペンシルベニア大学
  • 野口英世記念館

関連人物

  • 小林栄
  • 渡部鼎
  • 血脇守之助
  • サイモン・フレクスナー
  • 星一
  • 石塚三郎
  • 川村吾蔵
  • 長谷川泰
  • 北里柴三郎
  • ジョン・ロックフェラー

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 『野口英世 知られざる軌跡 メリー・ロレッタ・ダージズとの出会い』 山本厚子 山手書房新社 ISBN 4841300430 (1992年)
  • 『野口英世の妻』飯沼信子 新人物往来社 ISBN 4404018940 (1992年)
  • 『遠き落日』 ISBN 4041307147、ISBN 4041307155 (角川文庫) - 渡辺淳一による伝記的小説
  • 『背信の科学者たち』ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド著 化学同人 ISBN 475980160X (1988年)
  • 『背信の科学者たち』ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド著 講談社 ISBN 4062575353 (2006年) - 上の書籍の新書版
  • 『正伝 野口英世』北篤 毎日新聞社 ISBN 9784620316154 (2003年)
  • "Noguchi and His Patrons" by Isabel Rosanoff Plesset, Fairleigh Dickinson Univ Press, ISBN 0838623476 (1980年)
  • 『朝日選書389 野口英世 』 中山茂著 朝日新聞社 ISBN 4022594896 (1989年)
  • 『医聖 野口英世を育てた人々』小桧山六郎 福島民友新聞社 ISBN 978-4897577043 (2008年)
  • 『野口英世―少年期』野口英世記念会 (1980年)
  • 『当世書生気質』坪内 逍遙 岩波文庫 ISBN 978-4003100424
  • 『野口英世 [改稿]』小泉 丹 岩波新書 (1939年)
  • 『野口英世』イザベル・R・プレセット著、翻訳 中井久夫、枡矢好弘 星和書店 ISBN 4791101545 (1987年2月)

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野口英世に関するブログ記事
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    2月3日、スキー学習で猪苗代を訪れた茨城県那珂市立第一中学校の1年生のみなさんが被災地支援として野口英世記念館や町内の仮設住宅の雪かきボランティアに来てくださいました。 東日本大震災で被災した人たちを、一人でも多く元気 ...
  • HOT ORANGE : 野口 英世
    こんな寒い日にスムースにエンジンがかかるこの幸せ◎ が、しかしGASがない。 環八沿いの人気ガソリンスタンドに車を滑り込ませる。 お財布から引っ張りだした野口英世数枚。 日差しに透ける 英世 に暫しウットリ こんなにも紙幣って美しかっ ...
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    1月31日、会津若松市野口英世広場。ひまわりプロジェクトで収穫したひまわり脂を燃料にしたイルミネーションをみた。 by garagephoto on 2月 1, 2012 • 1:40 PM コメントはまだありません. このエントリーを含むはてなブックマーク · はてなブックマーク - 1月31 ...
  • コラージュフォルムカード(福島県:野口英世) :: *しあわせなココロ*
    福島県の第1弾フォルムカード、野口英世です♪ 野口英世は、会津若松市出身者で、 医師への道を志して勉学に励んだそうです フォルムカードでは、いろんな地域の知識を知ることが出来ますね♪ とても素敵なカードでございます このカードの宛名面はこちら ...
  • 第2回野口英世アフリカ賞授賞式開催へ | 野口英世記念館
    画像提供 内閣府 野口英世アフリカ賞担当室). 第2回野口英世アフリカ賞の授賞式開催が発表されました。 1月20日(金)藤村官房長官の記者会見において、来年(2013年)6月1日~3日、横浜市で第5回アフリカ開発会議が開催され、この ...
  • 第2回野口英世アフリカ賞授賞式開催へ | 野口英世記念館
    画像提供 内閣府 野口英世アフリカ賞担当室). アフリカでの医学研究・医療活動の分野で顕著な功績をあげた方々顕彰する事を目的に創設された「野口英世アフリカ賞」の第2回授賞式が開かれることとなりました。 野口英世アフリカ賞は5年 ...
  • 猪苗代再発見3 野口英世記念館 : Good morning , Fukushima
    猪苗代再発見3 野口英世記念館. 昨日、お客様から逆接待をいただき、今日は会社に行ってデスクワークをするつもりでしたが、激しい二日酔いで仕事にならず、一日中倒れるように寝ていました(笑) というわけで、先週の猪苗代再発見 ...
  • 親方のチャリと祭りな話 : 野口英世のビール
    お得意様の新年会でいわき市の湯本温泉で一泊しております。 野口英世のビールを初めて見ました。 by yjj7top | 2012-01-27 20:46 | Trackback | Comments(0). トラックバックURL : http://yjj7top.exblog.jp/tb/17694279 トラックバックする(会員専用) [ヘルプ] ...
  • 上野公園の「野口英世」像。 - 書とお寺が大好きな春逕の「日々是好日」
    上京はほとんど「東京博物館」に何かの記念展を観に行くためだ。 今回は息子が楽曲提供した公演を観るためがメインで、 「北京故宮博物院200選展」、横浜の「ベン・シャーン展」を観ようと思って上京したのだった。 前々日まで、東京はまれに ...
  • 野口英世記念館様サイト制作 : ダイレックス株式会社
    野口英世記念館 福島県猪苗代町の記念館・野口英世記念館様のサイトを制作いたしました。(デザイン:ホットクリエイティブスタジオ ランドホー). ベースのCMSにWordPressを使い、オリジナルデザインにてフルカスタマイズで制作しました。 ミュージアムショップ ...

野口英世に関するニュース
  • 13年6月に「野口英世アフリカ賞」第2回授賞式(1月21日 10時35分)
    政府は20日、アフリカの疾病対策に顕著な功績を挙げる研究者を顕彰する政府の「野口英世アフリカ賞」の第2回授賞式を来年6月1日から3日まで横浜市で開かれる第5回アフリカ開発会議(TICAD)の席上実施すると発表した。藤村修官房長官が ...
  • 合コンで鉄板ターバン野口の作り方アプリ「お札の折り紙」(1月21日 19時54分)
    お札を細かく折りこむことで紙幣に描かれた野口英世が、まるでターバンを巻いているような姿に生まれ変わる。 そんな「ターバン野口」の折り方を解説したアプリがリリースされた。このAndroidアプリ「お札の折り紙」は、千円、五千円、一万円札を ...
  • JavaScriptが無効です。(2月4日 11時37分)
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  • アフリカ開発会議、来年6月の横浜開催が決定(1月21日 19時11分)
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  • 1月29日付・県文化功労者展(1月29日 9時21分)
    「野口シカの手紙」は野口英世の、無学な母が息子にあてて懸命に書いた手紙。「おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけ(げ)ました…」と感動的な内容を新解釈で見せる。3人の大作から、春のあけぼのの、清新な風も吹いてくる。(N)
  • 横浜でアフリカ開発会議開催が決定、来年6月1日から3日間/神奈川(1月21日 7時01分)
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  • 第5回アフリカ開発会議 来年6月 横浜で開催(1月23日 10時54分)
    藤村官房長官は、同会議にあわせて、第2回野口英世アフリカ賞授賞式も開催する予定だと語った。
  • 米国で活躍した松江出身写真家 堀市郎の作品100点…(1月25日 14時48分)
    ニューヨークでアパートの隣の部屋に住むなど親友だった野口英世の妻・メリー・ダージス、ハリウッドの無声映画俳優・早川雪洲、テニスの世界ランキング4位になった清水善造ら7人を特定。中でも、白い軍服姿で眼光鋭い東郷平八郎の写真は ...
  • EconomicNewsからのお知らせ(1月23日 8時46分)
    藤村官房長官は、同会議にあわせて、第2回野口英世アフリカ賞授賞式も開催する予定だと語った。(編集担当:福角忠夫)

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