日本の思想家・教育者。1835年1月10日(天保5年12月12日)現在の大阪市北区に下級藩士の子として生まれる。
1854年長崎で蘭学を学び、大阪に出て緒方洪庵の適塾で学んだ。適塾の塾頭となったのち、1858年江戸に出て藩の下屋敷に蘭学塾「一小家塾」を開く。
1860年咸臨丸に従者として乗船して渡米。以後、計3回渡欧・渡米している。1866年から西洋の文明を紹介した『西洋事情』を刊行。1868年には蘭学塾を移転し、「慶応義塾」と改名した。1872年からは「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」で知られる『学問のすすめ』を刊行、日本の文明化と個人の独立を説いた。1885年には「脱亜論」を発表し、西洋文明の積極的需要を唱えている。
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福沢諭吉フクザワユキチ (別名:福澤諭吉) |
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[福沢諭吉 人物情報]
Wikipediaの人物情報
福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、天保5年12月12日 (旧暦)(1835年1月10日)- 1901年(明治34年)2月3日)は、日本の武士(中津藩士のち旗本)、19世紀後期の学者、蘭学者、著述家、啓蒙思想、教育者、新聞『時事新報』の創刊・発行者。慶應義塾の創設者であり、専修学校 (旧制)(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所、土筆ヶ岡養生園の創設にも尽力した。他に東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務めた。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)。
現代では「福沢諭吉」と記載される事が一般的である。
経歴
出生から中津帰藩、長崎遊学
天保5年12月12日(1835年1月10日)、大坂堂島浜(現・大阪府大阪市福島区福島 (大阪市)1丁目、通称ほたるまち)にあった豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順の次男(末っ子)として生まれる。諭吉という名の由来は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことによる。
父は、鴻池家や加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にあり、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山・伊藤東涯などの儒教に通じた学者でもあった。百助の後輩には江州水口藩・藩儒の中村栗園がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉は後に「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制には疑問を感じていた。世間の仕来りや信仰・迷信にも無頓着で、「子供ながらも精神はまことにカラリとしたものでした。」(『福翁自伝』)と述べる。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。なお、母兄姉と一緒に暮してはいたが、幼時から叔父中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。後、福澤の実家に復する。体格が良く、当時の日本人としてはかなり大柄な人物となる。
天保6年(1836年)、1歳6か月のとき父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、豊前国中津(現・大分県中津市)で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。お札を踏んでみたり、神社で悪戯をしてみたりと、悪童まがいの溌剌とした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表変え、障子の貼り変えをこなすなど内職に長けた子供であった。
5歳頃から藩士・服部五郎兵衛に漢学と一刀流の手解きを受けはじめる。初め読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後様々な漢書を読みあさり、漢籍を修める。8歳になると、兄・三之助も師事した野本真城、白石照山の塾(晩香堂)へ通い始める。『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で十五巻を十一度も読み返して面白いところは暗記したという。この頃には先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。
福澤の学問的・思想的源流に当たるのは、亀井南冥や荻生徂徠であり、諭吉の師・白石照山は陽明学や朱子学も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた。したがって、福澤の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまで遡ることが出来る。のちに蘭学の道を経て思想家となる過程の中にも、この学統が原点にある。傍ら立身新流の居合術を習得し、免許皆伝となる。
黒船が来襲したことにより中津藩でも西洋砲術を学ぶ必要が起きたことで、安政元年(1854年)、19歳で長崎市へ遊学して蘭学を学ぶ。黒船来航により砲術の需要が高まり、オランダ流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないがそれを読んでみる気はないかと兄から誘われたのがきっかけであった。長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。
長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)のもとへ通ってオランダ語を学んだ。山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝礼金をもらっており、福澤は鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。同時期に長崎遊学していた薩摩藩の松崎鼎甫にはアルファベットを教えてもらっている。
その時分の諸藩の西洋家、例えば宇和島藩(大村益次郎)、五島藩、佐賀藩(本島藤太夫)、水戸藩(菊池富太郎)などの人々が来て、出島のオランダ屋敷に行ってみたいとか、大砲を鋳るから図をみせてくれとか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな福澤の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、福澤はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。山本自身は蘭書が読めなかったため、実際に蘭学を習ったのは楢林健吉(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの弟子の楢林栄建の子孫)という通詞の家であった。その傍ら石川桜所の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。
適塾時代(大坂)
安政2年(1855年)、その山本家を紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平氏(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし福澤本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から江戸へは行くなと引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者の緒方洪庵の適塾(適々斎塾)で学ぶこととなった。ところが腸チフスを患い、緒方から「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」(自伝)と告げられ、緒方の朋友、内藤数馬から処置を施され、体力が回復し一時中津へ帰国する。
安政3年(1856年)、再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済した後、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って再び大坂の適塾で学んだ。学費を払う余裕はなかったので、福澤が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch 1852年)を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。この時、丹後宮津藩士・高橋順益から酒と煙草を勧められ、これを覚えた。先輩の一人、村田蔵六(大村益次郎)は人一倍暗い性格で、殴り合いになっても怒らず、抓る程度だったという。
安政4年(1857年)には最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、福澤は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また工芸技術にも熱心になり、化学の道具を使って硫酸を製造し、頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある。また、筑前の国主黒田長溥が金80両を投じて購入したワンダーベルツと題する物理書を写本して、元素を配列してそこに積極消極(プラスマイナス)の順を定めることやファラデーの電気説(ファラデーの法則)を始めて知ることになる。こういった電気の新説などを知り、発電を試みたりもしたようである。他にも昆布や荒布からのヨジュウムの製造、淀川に浮かべた小舟の上でのアンモニア製造などがある。
適塾時代のエピソードには「熊の解剖」、「豚の頭を貰ってきて、解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、散々いじくった跡を煮て食った話」などが自伝で語られており、他にも大坂の町人と江戸の町人の対比や「鯛の味噌漬と欺して河豚を食わせる」、「禁酒から煙草」、など自伝には福澤の人物像を表すエピソードが多数記されている。
幼少の時から酒を好みよく飲んでいたが、この適塾時代にはかなり飲んだとされ、「書生の生活酒の悪弊」「血に交わりて赤くならず」「書生を懲らしめる」(自伝)には、恐ろしく飲んで緒方夫妻を驚かせる、囲碁の話、茶屋の話などが記されている。塾長になり、金弐朱の収入を受けてからもほとんどを酒の代に使い、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買って来て塾中で独り飲むということであった。
江戸に出る
安政5年(1858年)、中津藩から江戸出府を命じられる(差出人は江戸居留守役の岡見清熙)。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となるために吉川正雄(当時の名は岡本周吉、後に古川節蔵)、原田磊蔵を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介、沼崎済介が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」が後の学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。
元来、この蘭学塾は佐久間象山の塾(象山書院)から受けた影響が大きく、マシュー・ペリーの渡来に先んじて嘉永3年(1850年)ごろから既に藩士たちが象山について洋式砲術の教授を受け、月に5~6回も出張してもらって学ぶものも数十名に及んでいる。藩士の中にも、島津文三郎のように象山から直伝の免許を受けた優秀な者がおり、その後は杉亨二(杉はのちに勝海舟にも通じて氷解塾の塾頭も務める)、薩摩藩士の松木弘安を招聘していた。諭吉が蘭学塾の講師に就任してからは、藤本元岱・神尾格・藤野貞司・前野良伯らが適塾から移ってきた他、諭吉の前の適塾塾頭・松下元芳が入門するなどしている。岡見清熙は大変な蔵書家であったため佐久間象山の貴重な洋書を、福澤は片っ端から読んで講義にも生かした。住まいは中津藩中屋敷が与えられたほか、江戸扶持(地方勤務手当)として6人扶持が別途支給されている。
島村鼎甫を尋ねたのち、中津屋敷からは、当時、蘭学の総本山といわれ、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた桂川家が500m以内の場所であったため、桂川甫周・神田孝平・箕作秋坪・柳川春三・大槻磐渓・宇都宮三郎、村田蔵六らと共に出入りし、終生深い信頼関係を築くことになった。また、親友の高橋順益が近くに住みたいと言って、浜御殿(現在の浜離宮)の西に位置する源助町に転居してきた。
安政6年(1859年)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜市の見物に出かける。しかしそこでは専ら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来英語の必要性を痛感した諭吉は、英蘭辞書などをたよりにほぼ独学で英語の勉強を始める。世界の覇権は大英帝国が握っており、すでにオランダに昔日の面影が無いことは当時の蘭学者の間では常識で、緒方洪庵もこれからは英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、オランダが鎖国の唯一の例外であり、現実にはオランダ語以外の本は入手困難だった。
横浜を見物して以来、オランダ語が通じないと分かった諭吉は、幕府通辞の森山栄之助を訪問して英学を学んだ後、蕃書調所へ入所したが英蘭辞書が持ち出し禁止だったために1日で退所している。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇を見せており、今までと同じように蘭学のみを学習することを望んだ。そこで村田蔵六に相談してみたが村田はジェームス・カーティス・ヘボンに手ほどきを受けようとしていた。ようやく蕃書調所の原田敬策と一緒に英書を読もうということになり蘭学だけではなく英学も習得していくことになる。
渡米
難航の図(鈴藤勇次郎画)
安政6年(1859年)の冬、日米修好通商条約の批准交換のために万延元年遣米使節が米軍艦ポーハタン (フリゲート) で渡米することとなり、その護衛として咸臨丸をアメリカ合衆国に派遣することが岩瀬忠震の建言で決定した。万延元年1月19日(1860年2月10日)、福澤は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行木村芥舟の従者として、アメリカへ発つ。翻訳途中だった『万国政表』(統計表)は留守中に門下生が完成させている。5月5日帰国。なお咸臨丸の指揮官は勝海舟であった。
後に福澤は、蒸気船を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって我が国で初めて太平洋を横断したこの咸臨丸による航海を日本人の世界に誇るべき名誉であると述べている。
なお当時、福澤と勝はあまり仲が良くなかった様子で、晩年までぎこちない関係が続いた。一方、木村摂津守とは明治維新によって木村が役職を退いた後は、晩年に至るまで親密な交際を続けており、帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま幕府外国方(現在の外務省)に出仕することになった。その他、戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。
一行が日本を離れているうちに、日本では幕府の開国政策に反対する志士たちの攘夷論がますます高まっていた。その状況を察していた諭吉は、日本への上陸第一歩の海辺で出迎えに来た木村摂津守の家来に、「何か日本に変わったことは無いか」と尋ねた。その家来は顔色を変えて、「イヤあったともあったとも大変なことがあった」と言う。諭吉はそれを押し止めて「言うてくれるな、私が当てて見せよう、大変といえば何でもこれは水戸の浪人が掃部様(大老井伊直弼)の邸に暴れこんだというようなことではないか」(自伝)と、3月3日の桜田門外の変を正確に言い当て、家来を驚かせたことがある。もっとも、徳川斉昭の反目や安政の大獄による弾圧などで、このような事態は幕府の有識者の間では前もって分かっていたことだった。
アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては様々に衝撃を受けた。たとえば、日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民がジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している(ちなみに、ワシントンに子孫はいない)。福澤は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の抄略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。
帰国し、アメリカで購入してきた」や「ワ」に濁点をつけた文字「ワ゛」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。再び鉄砲洲で講義も行うが、その内容は従来のようなオランダ語ではなく専ら英語であり、蘭学塾から英学塾へと方針を転換した。また幕府の外国方に雇われて公文書の翻訳をおこなった。これら外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたため、英語とオランダ語を対照するのに都合がよく、これで英語の勉強をおこなったりもした。この頃にはかなり英語も読めるようになっていたがまだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。
渡欧(幕臣時代)
、福澤諭吉、太田源三郎、福田作太郎にて撮影)東京大学史料編纂所蔵
文久元年(1861年)に中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。その年の冬、竹内保徳を正使とする文久遣欧使節を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、文久2年1月1日(1862年1月30日)、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。同行者には松木弘安・箕作秋坪がおり、行動を共にした。
一行は香港、シンガポール、インド洋、紅海、スエズの地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、デン・ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク(サンクトペテルブルク)、リスボンなどを見物し12月11日帰国した。ロンドンでは、ちょうど開かれていた万国博覧会を視察し、蒸気機関車・電気機器・タイプライターに触れる。樺太国境問題を討議するために訪れたサンクトペテルブルクでは、陸軍病院で外科手術を見学した。なお、オランダのユトレヒトを訪問した際にドイツ系写真家によって撮影されたと見られる写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された。
この旅で福澤は幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰っている。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚きつつ、書物では分からないような、ヨーロッパ人にとっては通常であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について調べた。たとえば病院や銀行、郵便法、徴兵令、選挙制度、議会制度などについてである。これら遣外使節団などへの参加経験を通じて、福澤は日本に洋学の普及が必要であることを痛感する。また、香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。また、フランスの青年レオン・ド・ロニーと友好を結び、「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となり、外国の学会の正会員に最も早い時期で就任している。
帰国後、『、器械学」が特に強調されており、病院・銀行・郵便・徴兵制の制度や設備について言及してある。
文久3年(1863年)7月、薩英戦争が起こったことにより幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳に当たった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった。
品川に到着した翌日の12月12日には品川御殿山に建設中のイギリス公使館に高杉晋作ら英国公使館焼き討ち事件が起こり、文久3年3月に入ると天皇の賀茂神社への攘夷祈願、4月には石清水八幡宮への行幸をうけて、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つようになった。同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が切られそうになるという事件も起こり、この頃には既に江戸では「福澤」の名は洋学者の間では知れ渡っていたため、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・藤沢志摩守の家で会合した後に帰宅する途中、浪人と鉢合わせ、居合で切り抜けなければと考えながら、すれ違いざまに互いに駆け抜けたことがある。この文久2年頃~明治6年頃までが江戸が一番物騒な世の中であったと回想している。7月に禁門の変が起こると、長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し、代わりに、以前より親交のあった仙台藩の大童信太夫を通じて、文久3年秋頃に塾で諭吉に師事していた横尾東作を派遣して新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳して諸藩の援助をした。
元治元年(1864年)には、福澤は郷里である中津に赴き、小幡篤次郎や三輪光五郎ら6名を連れて来た。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用(幕臣)として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて、御目見以上となり、旗本となった。
慶応元年(1865年)に始まる幕府の長州征伐の企てについて、幕臣としての立場からその方策を献言した『長州再征に関する建白書』では、大名同盟論の採用に反対し、徳川幕府の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。この見通しによって、維新後の新政権のために何の貢献もなしえないことが当然となり、この時期の徳川家への愛惜の情をうかがうことが出来る。長州征伐で幕府軍が長州藩に敗北したと聞き、イギリスの鉄砲を取り寄せて分解し、初の西洋兵学書の翻訳『雷銃操法』を訳し始める。続いて、戊辰戦争に際し仙台藩が福澤に翻訳せしめた『兵士懐中便覧』は奥羽越列藩同盟藩士の多くが読んだとされる。明治2年には、熊本藩の依頼で本格的な西洋戦術書『洋兵明鑑』を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳した。
明治維新
をよそに、中屋敷内で経済書の講義を続ける。(安田靫彦画)慶応3年(1867年)には使節主席・小野友五郎と共に幕府の軍艦受取委員会随員としてコロラド号という郵便船で横浜から再渡米し、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れた。津田仙、尺振八が同乗していた。現地で小野と揉めたため帰国後はしばらく謹慎することとなったが、中島三郎助の働きかけですぐに解けた。紀州藩や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や物理書・地図帳を買い込み、帰国後、『西洋旅案内』を書き上げた。
慶応4年(1868年)には蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念する。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意になり、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩とは懇意になり、慶應蘭学所内に「紀州塾」という紀州藩士専用の部屋まで造られた。長岡藩は藩の大参事として指導していたもしくはの訳語として定着した)。
外国奉行の川路聖謨は病床で『西洋事情』を読んで大きな衝撃を受けたといい、老中・稲葉正邦から千俵取りの御使番として出仕するように要請されてもいたが、6月には幕府に退身届を提出して退官。自身も徳川将軍家を中心とする封建政治の再編成と幕府の延命策(公武合体論)を考えていたようであるが、維新後は、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、英国流憲法論を唱えた。
嫁・お錦の実家である土岐家と榎本武揚の母方の実家・林家が親戚であったことから、榎本武揚助命のため寺島宗則(以前の松木弘安)の紹介で官軍参謀長・黒田清隆と面会し、赦免を要求。その後、以前から長州藩に雇われていた大村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府への出仕を決め、諭吉にも山縣有朋・松本良順等から出仕の勧めが来たがこれを断り、九鬼隆一や白根専一、濱尾新、渡辺洪基らを新政府の文部官吏として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。
新銭座の土地を攻玉社の塾長・近藤真琴に300円で譲り渡し、三田に移動して『帳合之法(現在の簿記)』などの講義を始めた。また明六社に参加。当時の文部官吏には九鬼や田中不二麿・森有礼ら福沢派官吏が多かったため、明治6年(1873年)に慶應義塾と東京英語学校(かつての開成学校でのち東京大学 (1877-1886)#大学予備門さらに第一高等学校 (旧制)に再編され、現・東京大学教養学部)は、例外的に徴兵令免除の待遇を受けることになった。
廃藩置県を歓迎し、「政権」(軍事や外交)と「治権」(地方の治安維持や教育)の全てを政府が握るのでは無く「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした『分権論』には、これを成立させた西郷隆盛への感謝と共に、地方分権が士族の不満を救うと論じ、続く『丁丑公論』では政府が掌を返して西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張した(『丁丑公論』は内容が過激だった為、発表は福沢諭吉没後となった。また、佐賀の乱で敗走した江藤新平の裁判が公正に行われなかったことに疑問を呈している)。『通俗民権論』『通俗国権論』『民間経済禄』なども官民調和の主張ないしは初歩的な啓蒙を行ったものであった。しかしながら、自由主義を紹介する際には「自由在不自由中(自由は不自由の中にあり)」という言葉を使い、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を鳴らした。明治6年(1873年)9月4日の午後には岩倉使節団に随行していた長与専斎の紹介で木戸孝允と会談。木戸が文部卿だった期間は4か月に過ぎなかったが、「学制」を制定し、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」の声があるほど、明治初期までは福沢の思い描く国家の構想が反映されるかのように見えた。
薩長藩閥との対立
明治8年(1875年)、福澤は懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて大久保利通と会談した。大久保は福澤のことを民権論者の首魁のように思っていたのでそれを否定し会談を終えた(「面白」(流石有名に恥じず。大久保の日記。)による。)が、大久保は出版検閲の権限を文部省から内務省に移管したことで、秋山恒太郎が官吏を移動するという災難に遭った。これを見た福澤は、『民間雑誌』に「内務卿の凶聞」という社説を大久保暗殺後に掲載。これが問題となり、編集長の加藤政之助が内務省警視局に呼び出され、『民間雑誌』は廃刊となる。
そこで目を付けたのが、薩長藩閥では無い、大隈重信の存在だった。福澤は大隈を頼りに統計院(後の内閣統計局)を設立させる。統計院にはある秘密があり、設立直後から「憲法の調査立案」というおよそ統計と関係の無い機能を併せ持っていた。ここに矢野文雄・犬養毅・尾崎行雄といった人材を投入し、大隈のブレーンとして活躍できるようにした。明治7年(1874年)には板垣退助、後藤象二郎、江藤新平が野に下るや、高知の立志学舎に門下生を教師として派遣した他、後藤象二郎の政治活動を支援し、国会開設運動の先頭に立って郵便報知新聞に「国会論」と題する社説を掲載。特に後藤には大変入れ込み、後藤の夫人に直接支援の旨を語るほどだった。同年、岩崎弥太郎と面会し、岩崎が山師では無いと評価した福沢は、三菱商会にも荘田平五郎や豊川良平といった門下を投入した他、後藤の経営する高島炭鉱を岩崎に買い取らせた。他、愛国社から頼まれて『国会を開設するの允可を上願する書』の起草に助力。
入念に門下らと憲法を思案し、大隈重信が提出していた早期国会開設論の背後に福澤の影があると、放った密偵によって察知した伊藤博文は、対処をプロシア流憲法の草案者で、明治政府一番の能吏・井上毅に一任することになる。丁度、開拓使官有物払下げ事件で本山彦一、箕浦勝人、門田三郎兵衛らが『大阪新報』を通じて問題を糾弾。薩摩閥の怒りはピークに達し、岩倉具視・九鬼隆一らも加わって大隈一派を政府内から一掃するクーデター(明治十四年の政変)が起こる事となった。福澤は、この事件に際して2,500字に及ぶ、人生で最も長い手紙を伊藤と井上馨に送ったが、聞き入れては貰えず、さらに井上毅が『大日本帝国憲法』、『旧皇室典範』、『教育勅語』、『軍人勅諭』の起草全てに参加したため、福澤は明治政府とこれ以後一切の付き合いを辞めることとなった。その他にも、東京府会議員副議長の辞職、東京学士会院も小幡篤次郎・栗本鋤雲ら福沢派学者と共に脱会するに至った。
政変の後の福澤への明治政府の仕打ちは厳しく、政府主導で設立する予定だった『時事新報』も自らの手で創刊することになったが、明治15年(1882年)3月1日に創刊されるや否や1,500部全てを売る結果となり、この後、時事新報は一定の成功を収めることとなった。結局、明治31年(1898年)5月16日に広尾の別邸で行われた鎌田栄吉塾長就任披露の園遊会で伊藤博文が出席するまで伊藤との関係は修復されなかった。『時事新報』の創刊にあたって掲げられた同紙発行の趣旨の末段には「唯大に求る所は国権皇張の一点に在るのみ」が掲げられ、福澤諭吉は明治10年(1877年)前後から自由民権運動を批判し始め、「国権論」を強調し始めた。明治15年3月28日の『圧制も亦愉快なる哉』や『時事小言』でも国権皇張を目的とすることが説かれ、国家の独立と富国強兵、官民調和を積極的に主張した。この国権論に、福澤の師・白石照山は激励の手紙を送っている。やはり『時事新報』の論調は著しく「国民主義」(ナショナリズム)に傾いているものが多く、明治初年には自由主義を標榜としてきたかのように思われた福沢の論調は、欧米列強のアジア侵略が刻々と迫ってくる時局認識もあってか、「国権皇張」を特に強調し始め、自由主義の楽観的な見解を警戒し始めた。このいわば明治の新しいナショナリズムは、のちに陸羯南や徳富猪一郎らによって模倣されていくこととなる。
その典型例は明治7年12月の『明六雑誌』第26号で、「外国人の内地雑居許す可からざるの論」で、我が国民利益を守るために外国人の内地雑居を許してはならないと主張。外国人の内地旅行を認めるべきであるという西周および津田真道に反論。攘夷論(外国の力を取り入れ、日本が植民地になること防ぐという概念)を唱え、不平等条約の結果、我が国貿易がこうむる不利益を警戒していった。
朝鮮独立運動支援
福澤は、朝鮮人愛国者・金玉均との出会いをきっかけにして、朝鮮の独立運動にも加担することになる。当時の朝鮮は日本の明治維新前夜の状況と酷似しており、小規模な武力闘争も起きていた(江華島事件)。福澤が日本の文明開化の立役者であるということは朝鮮にも知れ渡っており、明治14年(1881年)3月6日、金玉均は福澤と面会を果たし、朝鮮独立への協力を依頼した。
明治15年(1882年)7月23日、壬午事変が勃発すると、福沢は横浜正金銀行から17万円の借款を得、賠償金の一部に充当することができた。また、井上馨から国王の委任状があれば、さらに300万円の借款を供与するという提案を貰う。この時、金を支援するべく牛場卓蔵と井上角五郎を派遣。『漢城旬報』という朝鮮最初の新聞を発行する。井上は諭吉の助言に従い、朝鮮式かな混じり文を考案するべく朝鮮の文法学者と共に李朝第四代の王・世宗 (朝鮮王)によって公布された訓民正音の研究を開始。国王・高宗 (朝鮮王)の内諾を取り、新字体で紙面を構成し始める。これが今日の朝鮮文体『ハングル』である。朝鮮では大正9年(1920年)頃から呼ばれるようになった。
後藤象二郎も協力し、フランス公使に艦隊を借りて、自由党の荘士で民兵を組織し、朝鮮半島に送り込む計画を立て始めたが、伊藤博文によって却下される。明治17年(1884年)12月4日、甲申事変が起こるも失敗。この直後の明治18年(1885年)3月16日、福沢は『時事新報』に『脱亜論』を発表し、その5か月後には社説『朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す』を発表する。内容は、「人民の生命も財産も独立国民の誇りも守ってやれないような国は、むしろ滅びてしまった方が人民のためだ。」という強烈なものだった。
その後、金玉均は福沢邸にしばらく潜伏していたが、清の最高実力者・李鴻章の引渡しに応じ、日本郵船の西京丸で上海へ向かわせたが、無残にも暗殺されることとなった。その後、明治政府は日清戦争への道を歩み、福沢も開戦はやむなしとして南方熊楠から頼まれて、共に軍資金を寄附した。なお、上海で暗殺された金の供養のために法名をつけることを真浄寺住職寺田福寿に依頼し、寺田はただちに福沢の要請に応え、「古筠院釈温香」という法名を付け、法要は東京朝鮮公使付通官山崎英夫や朴泳孝などを福沢邸に招いて営んだ。
これら一連のアジア解放運動は、アジア主義団体として知られる黒龍会が、昭和8年(1933年)から同11年(1936年)にかけて編纂・刊行した『東亜先覚志士記伝』にも取り上げられている。また、紀州出身の大陸浪人・岡本柳之助とは面識があり(書簡)、同じく紀州出身の鎌田栄吉に岡本の活動を援助するように伝えていた。
教育支援
教育令が思った通りにならず、福沢考案の田中不二麿や土佐藩出身の中島信行(後の自由党副総裁)の建言が、佐野常民と元田永孚、更には薩長派文部卿に転じた九鬼隆一によって潰され、教育の画一化・中央集権化・官立化が確立されると、東京大学に莫大な資金が注ぎ込まれ、慶應義塾は経営難となり、ついに福澤は勝海舟に資金調達を願い出るまでとなり、勝からは「そんな教育機関はさっさと止めて、明治政府に仕官してこい」と返されたため、島津家に維持費用援助を要請することになった。その上、優秀な門下生は大学南校や大学東校、東京師範学校の教授として引き抜かれていくという現象も起こっていた。
明治13年(1880年)、伊藤博文から、西郷隆盛や板垣退助等と同じく政府に反発する者・自由民権運動の火付け役として睨まれていた福澤の立場は益々厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることにした。この頃から平民の学生が増えた事により、運営が徐々に黒字化するようになった。
また、私立の総合大学が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を大阪商業講習所や商法講習所で活躍させる一方、専修学校 (旧制)や東京専門学校、英吉利法律学校の設立を支援し、開校式にも出席した。しかし東京専門学校などはあからさまに大隈重信嫌いの山縣有朋など薩長参議が潰そうとしてきた為、設立は困難を極め、開校式に大隈が15年間出席せず、「学問の独立」という取って付けた宣言を小野梓が発表するに留まった。
明治25年(1892年)には、長与専斎の紹介で北里柴三郎を迎えて、伝染病研究所や土筆ヶ岡養生園を森村市左衛門と共に設立していく。丁度帝国大学の構想が持ち上がっている頃だったが、慶應義塾に大学部を設置し小泉信吉を招聘して、一貫教育の体制を確立した。
晩年・年譜
三田キャンパス内)
晩年は旅行や著作に多くの時間を費やし、旅行に出かける時は常に居合刀を携帯して、健康のために振った。自叙伝『福翁自伝』を記し始め、『時事新報』掲載の社説には明治政府の国家社会主義的な西洋化・近代化への批判(『民情一新』や明治維新以降のエセ文明より旧幕府のほうが良かったのではないかと言い切る等)、キリスト教を始めとした宗教批評など多岐に及んだ。
親友の木村芥舟と交遊しながら要人との会談も積極的に行い、木村浩吉 (海軍軍人)(芥舟の息子)の推薦で山本権兵衛・後藤新平等、見込みのある人物との交流を行っている。また、旧幕人懇親会で福沢と同じく明治政府に出仕していなかった友人の栗本鋤雲が勝海舟に向かって「腰抜けは下がれ!」と大渇し、また『瘠我慢の説』の草稿をいち早く栗本に見せたため、内容が外部に漏れてしまうこととなったが、明治34年(1901年)1月1日から時事新報に連載が開始された。晩年までに出版された著作は、現在の『学問』『科学』領域にある分野についてほとんどが言及されており、そのほとんどが日本で始めて著されているもので、出版されていない作品も多く、また当時の時勢・文化・歴史上の人物評等が得られる貴重な歴史資料ともなっている。
- 1879年(明治12年):東京学士会院(現・日本学士院)初代会長就任。東京府会副議長に選出されるが辞退。『民情一新』刊。
- 1880年(明治13年):専修学校(現・専修大学)の創設に協力し、京橋区の福澤の簿記講習所、また木挽町の明治会堂を専修学校の創立者4人に提供した。11月、慶應義塾が塾生の激減により財政難に陥ったため、福澤は廃塾を決意するが、広く寄付を求める「慶應義塾維持法案」を発表して、門下生たちが奔走した結果、危機を乗り切る。
- 1881年(明治14年):1月23日、「慶應義塾仮憲法」を制定、引き続き福澤が社頭となる。8月、明治十四年の政変が起き、政府要人と絶交する。上野 - 青森間の日本鉄道会社設立に助力。
- 1882年(明治15年):日刊新聞『時事新報』を創刊し、不偏不党・国権皇張の理念のもと、世論を先導した。『帝室論』刊。
- 1887年(明治20年):伊藤博文首相主催の仮装舞踏会を家事の都合を理由として欠席する。
- 1889年(明治22年):8月、「慶應義塾規約」を制定。
- 1890年(明治23年):1月、慶應義塾に大学部発足、文学科・理財科・法律科の3科を置く。
- 1892年(明治25年):伝染病研究所の設立に尽力(北里柴三郎が初代所長となる)。
- 1893年(明治26年):土筆ヶ岡養生園開設
- 1894年(明治27年):郷里、中津市の景勝・競秀峰を自然保護のため買い取る。
- 1895年(明治28年) - 1897年(明治30年):箱根、京都、大阪、広島、伊勢神宮、山陽方面へ旅行に出る。
- 1898年(明治31年):5月、慶應義塾の学制を改革し、一貫教育制度を樹立、政治科を増設。9月26日、脳出血で倒れ、いったん回復。
- 1900年(明治32年):1月21日、勝海舟没。多年に亘る著訳教育の功労により、皇室から金5万円を下賜される。8月8日、再び倒れ意識不明になったが、約1時間後に意識を回復。『修身要領』完成。12月31日、翌年の幕明けにかけて慶應義塾生らと19世紀と20世紀の「学校法人慶應義塾#世紀送迎会」を開催。日本では元号と神武天皇即位紀元が主流で、西暦・世紀の概念が普及していないなかの新しい試みであった。
- 1901年(明治34年):1月25日、再び脳出血で倒れる。2月3日、再出血し、午後10時50分死去。葬儀の際、遺族は福澤の遺志を尊重し献花を丁寧に断ったが、盟友である大隈重信が涙ながらにもってきた花を、福沢家は黙って受け取った。また、死によせて福地源一郎が書いた記事は会心の出来映えで、明治期でも指折りの名文とされる。爵位を断る。2月7日、衆議院において満場一致で哀悼を決議。2月8日、葬儀が執り行われる。生前の考えを尊重して「塾葬」とせず、福澤家の私事とされる。
墓
福澤は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに彼の終焉の地を示した石碑が設置されている(旧居の基壇の一部が今も残る)。戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺 (東京都港区)にその墓がある。命日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。
昭和52年(1977年)、最初の埋葬地から麻布善福寺へ改葬の際、遺体がミイラ(死蝋)化して残っているのが発見された。外気と遮断され比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされた。
人物・思想
慶應義塾の建造物#三田キャンパスに刻まれているラテン語で書かれた言葉」三田 (東京都港区)に現存
- 『福翁自伝』には万延元年(。この他にも、自伝には意図的に書かれていない活動が多く存在する。
- 同世代の思想家を挙げると、橋本左内とは同年代、坂本龍馬は一つ年下、高杉晋作は五つ年下、吉田松陰で四つ年上。これら幕末の人物と同世代であるというイメージが世間一般ではすらりと出にくいとされる。
- 同時代の思想家で、最も共通しているといわれているのは横井小楠で、小楠が唱えた天意自然の理に従うという理神論「天の思想」と福沢の人生観が合致するとされている 。
- 文久3年(1863年)春頃から『姓名録』(『慶應義塾入社帳』29冊現存)を付け始め、入塾者を記録し始めた。これ以前およびのちの数年の正確な入塾者については明らかになっていない。
- 第二次長州征伐では、徹底的に長州藩を討つべしと幕府に建言し、「尊王攘夷などというものは長州のいい加減な口実で、世を乱すものにすぎない」と進言した。
- 福澤の著書には、しばしば儒学者の荻生徂徠が出てくるが、思想には影響を受けた大儒であってもやはり漢学者には心酔者が多いのでだめである。と論じた
- 文明の本質を「人間交際」にあると考えており、多様な要素の共存が文明の原動力だとし、これを自身の哲学の中心に据えた。
- 孔子と孟子を「古来稀有の思想家」としたうえで、儒教的な「政教一致」の欠点を指摘した。
- 期待していた水戸藩が維新前に水戸学の立原翠軒派と藤田幽谷派の内ゲバや天狗党の乱で分裂してしまったことを例に挙げ、学問や政治の宗教化を厳しく批判し、その他宗教的なものは一切認めないと論じた。
- 徳川家康を「奸計の甚しきものを云ふ可し」としてやや批判的に論じ、豊臣秀吉を非常に高く評価した。
- 「古来唯一の忠臣義士」として佐倉惣五郎を挙げた。
- 明治15年3月13日の時事新報にて『僧侶論』と題する社説を掲載。仏教界の保護を訴え、キリスト教排撃論を説いた(しかしのちに容認の態度も取った)。
- 大久保利通から政体取調掛を命じられ、細川潤次郎が邸宅に赴いたとき「学者を誉めるなら 豆腐屋も誉めろ」といって明治政府の招聘を断った。
- 明治政府内では大鳥圭介と後藤象二郎びいきで、「相撲や役者のように政治家にも贔屓というものがありますが、私は後藤さんが大の贔屓なのです。」と語り、福沢邸から歩いて20分ほどの距離にあった後藤の屋敷(現在の高輪プリンスホテル周辺)には頻繁に行き来していた。大鳥に関しては適塾時代からの友人で、『痩我慢の説』でも大鳥は批判されていなかった。
- 特に後藤象二郎との交遊は深く、明治30年(1897年)に後藤が亡くなると、時事新報に『後藤伯』と題する社説を掲載。「風雷一発、天地を振るい動かして、積り積もった諸悪をはらい除いて清めることは、非常大胆の豪傑でなければ出来ない。後藤伯のごときは、この一点において、満天下唯一の人物である。」と後藤の死を惜しんだ。
- 立憲改進党が結党式を挙げる際に京橋の明治会堂を大隈重信に貸し出してやったことがある。このように、後輩思いで頼まれると中々断れないというお人好しな面が強かったようである
- 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は福沢の言と誤解されることが多いが、学問のすゝめ冒頭には「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」と書かれており、正しくは福沢の言ではない。出典元は諸説あるが、トーマス・ジェファーソンによって起草されたといわれるアメリカの独立宣言の一節を意訳したものというのが有力説である。
- 緒方洪庵の他に自伝でも触れられている英雄の一人が江川英龍で、寒中袷一枚で過ごしているのを聞いて自分も真似たという。
- 『時事新報』は、1888(明治21)年3月23日、日本で初めて新聞紙上に天気予報を掲載した。晴れや雨を表すイラストは現在の天気予報で使用されているお天気マークの元祖である。
- 『西洋旅案内』は外国為替や近代的な保険制度について書かれた日本最初の文献である。
- 明治3年(1870年)5月中旬、発疹チフスを患うと、元福井藩主・松平春嶽が所有していたアンモニア吸収式冷凍機を借用。大学東校の宇都宮三郎のもとで、わが国で初めて機械によって氷を製造した。
- 『文明論之概略』は新井白石の『読史余論』から影響を受けており、維新の動乱の最中、程度の高い成人向けに「なかんずく儒教流の故老に訴えてその賛成をうる」ことを目的とし、故西郷隆盛なども通読したることになった。
- 福澤の代表的な言葉で戒名にも用いられた言葉が「独立自尊」である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」(『修身要領』第二条)。
- 晩年の自伝である『福翁自伝』において、適塾の有様について「塾風は不規則と云(い)わんか不整頓と云わんか乱暴狼藉(ろうぜき)、丸で物事に無頓着(むとんじやく)。その無頓着の極(きよく)は世間で云(い)うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止(と)めない。」と記している。
- ベストセラーになった『西洋事情』や『文明論之概略』などの著作を発表し、明治維新後の日本が中華思想、儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作った(脱亜思想)。
- 『時事新報』に『兵論』という社説を寄稿し、官民調和の基で増税による軍備拡張論を主張した。
- 上記の通り家柄がものをいう封建制度を「親の敵(かたき)」と激しく嫌悪した。その怒りの矛先は幕府だけでなく依然として中華思想からなる冊封体制を維持していた清や李氏朝鮮の支配層にも向けられた。一方で、榎本武揚や勝海舟のように、旧幕臣でありながら新政府でも要職に就く姿勢を「オポチュニスト」と徹底的に批判する一面もある(『瘠我慢の説』)。
- 幼少期よりの習慣を持ったが、結局、両方とも嗜むことになってしまった。
- 宗教については淡白で、『福翁自伝』において、「幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有(ありがた)いだのということは一寸(ちよい)ともない。卜筮呪詛(うらないまじない)一切不信仰で、狐狸(きつねたぬき)が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした」と述べている。
- 銀行、特に中央銀行の考え方を日本に伝えた人物で、日本銀行の設立に注力している。
- 会計学の基礎となる複式簿記を日本に紹介した人物でもある。借方貸方という語は福澤の訳によるもの。
- 日本に近代保険制度を紹介した。福澤は『西洋旅案内』の中で「災難請合の事-インスアランス-」という表現を使い、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の三種の災難請合について説いている。
- 昭和59年(1984年) - 平成16年(2004年)発行の日本銀行券D号1万円札、現行のE号1万円札の肖像にも使用されている。そのせいか、「ユキチ」が一万円札の代名詞として使われることもある。このことから派生して、一万円札の枚数を言う時に1人、2人などのように人数を数えるように言うことがあり、一万円札の代名詞でもある。
- 現在「最高額紙幣の人」としても知られているが、昭和59年(1984年)11月1日の新紙幣発行に際して、最初の大蔵省理財局の案では、十万円札が聖徳太子、五万円札が野口英世、一万円札が福澤諭吉となる予定だった。その後、十万円札と五万円札の発行が中止されたため、一万円札の福澤諭吉が最高額紙幣の人となった。
- 慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の運営する学校では、創立者の福澤諭吉のみを「福澤先生」と呼ぶ伝統があり、他は教員も学生も公式には「○○君」と表記される。
アジア近隣諸国に対して
福澤は、アジアの「改革勢力」の支援を通じて近隣諸国の「近代化」に力を注いでいる。李氏朝鮮の金玉均などを支援しているし、漢文とハングルの混合文を発案するとともに、朝鮮で初めてのハングル交じりの新聞『漢城周報』へと発展する『漢城旬報』(漢字表記)の創刊にも私財を投じて関わっている。また朝鮮からの留学生も1881年(明治14年)6月から慶應義塾に受け入れている。
日清戦争に関して
日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけておこなわれた。福澤は『時事新報』1894年(明治27年)8月14日号に署名入りの「私金義捐に就いて」を掲載し、開戦となった以上、戦勝のために義捐金を寄せて欲しいと訴えた。
晩年の自伝『福翁自伝』の「老余の半生」では、と述べている。
福澤の男女同等論
福澤は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻制や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張した。自身の娘にも幼少より芸事を仕込み、ハインリッヒ・フォン・シーボルト夫人に芸事の指導を頼んでいた。
明治7年(1874年)に発足した慶應義塾幼稚舎が、明治10年(1877年)以降しばらくの間、男女を共に教育した例があり、これは近代化以降の日本の教育における男女教育のいち早い希有なことであった。なお、明治民法の家族法の草案段階は、福澤の男女同等論に近いものであったり彼もそれを支持したが、士族系の反対があったため父家長制のものに書き換えられた。
私生活
文久元年(1861年)、中津藩士江戸定府の土岐太郎八の次女錦と結婚し、四男五女の9人の子供をもうけた。松山棟庵によると、福澤は結婚前にも後にも妻以外の婦人に一度も接したことがなかったという。
或時先生にお話すると「左樣か、性來の健康の外に別段人と異つた所もないが唯一つの心當りと云ふのは、子供の前でも話されぬ事だが、私は妻を貰ふ前にも後にも、未だ嘗て一度も婦人に接した事がない、隨分方々を流浪して居るし、緒方塾に居た時は放蕩者等を、引ずつて來るために不潔な所に行つた事もあるが、金玉の身体をむざ/\汚す様な機會をつくらぬのだ」と先生は嘘をつく方ではない、先生の御夫婦ほど純潔な結合が、今の世界に幾人あるだらう
居合の達人
福澤は、若年の頃より立見新流居合の修練を積み、成人の頃に免許皆伝を許された居合の達人であった。ただし、福澤は急速な欧米思想流入を嫌う者から幾度となく暗殺されそうになっているが、剣を持って戦った事はなく逃げている。無論、逃げる事は最も安全な護身術であるが、福澤自身、居合はあくまでも求道の手段であり殺人術でないと考えていたと思われ、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことが無かった勝海舟・山岡鉄舟の思想と似ている。
晩年まで健康のためと称し、居合の形稽古に明け暮れていた。医学者の土屋雅春は福澤の死因の一つに居合のやりすぎを挙げている。晩年まで一日千本以上行っていた居合日記を付けており、これでは逆に健康を害すると分析されている。
明治中期より武術ブームが起こると、人前で居合を語ったり剣技を見せたりすることは一切なくなり、「居合刀はすっかり奥にしまいこんで」いた。
『瘠我慢の説』という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(共に旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。勝が維新後に栄誉を受けたことを転身、裏切りとするこの手の意見は今も絶えないが、勝、榎本両者は徳川家の名誉回復と存続に大変な労力を裂いており、現在では大局として徳川家という狭い枠にとどまらず、日本の為に尽くしたと評価されている。
現に明治維新という急激な改革に諸藩の不平士族たちが反乱を起こすが、最大の敵性グループであった旧幕臣たちはついに背くことがなかった。これは勝や大久保一翁、山岡鉄舟らの尽力によるものである。
なお福澤は勝に借金の申し入れをしてこれを断られたことがある。当時慶應義塾の経営は薩摩藩学生の退学等もあり思わしくなく、旧幕臣に比較的簡単に分け隔てなく融通していた勝に援助を求めた。だが勝は福澤が政府から払い下げられた1万4千坪に及ぶ広大な三田の良地を保有していることを知っていた為、土地を売却しても尚(慶應義塾の経営に)足りなかったら相談に乗ると答えたが、福澤は三田の土地を非常に気に入っていた為、遂に売却していない。瘠我慢の説発表はこの後のことである。また、『福翁自伝』で福澤は借金について以下のように語っている。
「私の流儀にすれば金がなければ使わない、有っても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、一切世間の人のお世話に相成らぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、嘗(かつ)て人に相談しようとも思わなければ、人に喙(くちばし)を容れさせようとも思わぬ、貧富苦楽共に独立独歩、ドンなことがあっても、一寸でも困ったなんて泣き言を言わずに何時も悠々としているから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持だと測量する人もありましょう。」
勝海舟も福沢と同様に身なりにはあまり気を遣わない方であったが、よく軽口を叩く癖があった。ある日、上野精養軒の明六社へ尻端折り姿に蝙蝠傘をついて現れた勝が「俺に軍艦3隻ほど貸さないか?日本が貧乏になってきたからシナに強盗でもしに行こうと思う。向こうからやかましく言ってきたら、あいつは頭がおかしいから構うなと言ってやればいい。思いっきり儲けてくるよ。ねえ福沢さん、儲けたらちっとあげます。」と言ってからかったという。しかし、勝は福澤のことを学者として一目置いており、自分が学んだ佐久間象山の息子の佐久間恪二郎や、徳川慶喜の十男で養子の、勝精を慶應義塾に入学させる等面倒見のよい一面もあった。
勝は晩年、福沢に自身の『海軍歴史』という書を贈っているが、内容は木村喜毅の功績を始めとする他人の功績を全て勝が横取りした内容となっており、これを見た福沢はますます勝と疎遠となった。
小泉信三はその著『福沢諭吉』の中で「咸臨丸がたまたま日本の近世史上に大きな役目を勤めた、勝海舟と福沢諭吉という両人物を同乗させたことは一つの奇縁」としながらも、明治以後疎遠となった2人は本来気質的に合わなかったと分析した。
西洋医学
土屋雅春の『医者のみた福澤諭吉』(中央公論社、中公新書)や桜井邦朋の『福沢諭吉の「科學のススメ」』(祥伝社)によれば、福澤と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。- 『蘭学事始』の出版
- 杉田玄白が記した『蘭学事始#経緯』の写本を、福澤の友人神田孝平が偶然に発見した。そこで、杉田玄白の4世の孫である杉田廉卿の許可を得て、福澤の序文を附して、明治2年(1869年)に『蘭学事始』として出版した。さらに、1890年(明治23年)4月1日には、再版を「蘭学事始再版序」を附して日本医学会総会の機会に出版している。
(東京大学医科学研究所内)
- 北里柴三郎への支援
- 1892年(明治25年)にドイツ留学から帰国した北里柴三郎のために、東京柴山内に大日本私立衛生会伝染病研究所(伝研)を設立して、北里を所長に迎えた。1894年(明治27年)には、伝研は芝愛宕町に移転した。移転の際に住民から反対運動が起こったので、福澤は次男福澤捨次郎の新居を伝研の隣りに作って、伝研が危険でないことを示した。1899年(明治32年)に伝研が国に移管されると、北里は伝研の所長を辞任し、福澤と長与専斎と森村市左衛門とが創設した土筆ヶ岡養生園に移った。
- 慶應義塾医学所の創設
- 明治3年(1870年)、慶應義塾の塾生前田政四郎のために、福澤が英国式の医学所の開設を決定した。そして1873年(明治6年)、慶應義塾内に医学所を開設した。所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵が就任した。また、杉田玄端を呼んで尊王舎を医学訓練の場所とした。なお、1880年(明治13年)6月、医学所は閉鎖されることになった。
- しかし、福澤の死後15年たった1916年(大正5年)12月27日、慶應義塾に医学部の創設が許可され、1917年(大正6年)3月、医学部予科1年生の募集を開始し、医学部長として北里柴三郎が就任することになった。
研究・評価史
日本における福沢研究をめぐる論争
「脱亜論」再発見から
太平洋戦争後、歴史学者服部之総や遠山茂樹らによって福沢の「脱亜論」が再発見され、福澤はアジア諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者であると批判された。丸山真男は服部之総の福沢解釈を「論敵」としていたといわれる。
2001年(平成13年)、朝日新聞に掲載された安川寿之輔の論説「福沢諭吉 アジア蔑視広めた思想家」に、平山洋が反論「福沢諭吉 アジアを蔑視していたか」を掲載したことで、いわゆる「安川・平山論争」が始まった。平山洋『福沢諭吉の真実』文藝春秋〈文春新書394〉、2004年、ISBN 4-16-660394-9
安川・平山論争
平山は、井田進也の文献分析を基礎に、福沢のアジア蔑視を、『福澤諭吉伝』の著者で、『時事新報』の主筆を務め、『福澤全集』を編纂した石河幹明の作為にみる。平山によれば、福澤は支那(中国)や朝鮮政府を批判しても、民族そのものをおとしめたことはなかった。だが、たとえば清の兵士をブタになぞらえた論説など、差別主義的内容のものは、石河の論説であり、全集編纂時に、福澤のものと偽って収録したのだという。
しかしながらこの問題は、平山自身や都倉武之がいうように、無署名論説の執筆者をは無署名論説認定方法を応用した『福澤諭吉全集』収録の「時事新報論説」執筆者再認定作業を開始している。今後の研究がまたれるところである。
「時事新報」無署名論説
平山洋は、井田の分析を基に、現行全集の第七巻までは署名入りで公刊された著作であるのに対して、八巻以降の「時事新報論集」はその大部分が無署名であることを指摘したうえで、大正時代の『福沢全集』(1925~26)と昭和時代の『続福沢全集』(1933~34)の編纂者であった弟子の石河幹明が『時事新報』から選んだものを、そのまま引き継いで収録している、とした。さらに現行版『全集』(1958~64)の第一六巻には福沢の没後数ヵ月してから掲載された論説が六編収められていることも指摘している。
人気度
2000年3月12日付で朝日新聞が企画した「この1000年・日本の政治リーダー読者人気投票」という特別企画が組まれ、西暦1000年から1999年の間に登場した歴史上の人物の中から、「あなたが一番好きな政治リーダー」を投票してもらう企画で、得票数7863票のうち、第6位の豊臣秀吉(382票)に次ぐ第7位(330票)にランクインするなど、国民的な人気がある。
アメリカ合衆国における評価
台湾における評価
元中華民国総統李登輝は、講演『学問のすゝめと日本文化の特徴』で、福澤について、欧米を日本に紹介するだけではなく、学問のすゝめを著わすことによって、思想闘争を行い、日本文化の新しい一面を強調しながらも日本文化の伝統を失わずに維持したと評価している。
韓国における評価
朝日新聞によれば、大韓民国において、脱亜論を引用した研究論文が見られるようになるのは、1970年以降であり、1980年代に日本で歴史教科書問題が起こり、日本の朝鮮侵略の論理として改めて認知され、現在は韓国の高校世界史教科書にも載っているという。
福澤が援助した李氏朝鮮の開化派は、その中心にいた朴泳孝が日本統治時代の朝鮮において爵位を得るなどの厚遇を得て、金玉均は死後に贈位されたことなどから、独立後の韓国では親日派と見なされ、福澤への関心もほとんど無かったものと推測される。金玉均に対する評価は北朝鮮の方が高く、それを受けた形で、在日韓国・朝鮮人歴史研究家の姜在彦が1974年(昭和49年)に「金玉均の日本亡命」を発表し、福澤に触れていて、「最近の研究で明らかにされてきているように、福沢の思想における国権論的側面」という言葉が見える。この当時の日本において、福沢を自由主義者としてではなく国権論者としてとらえ、侵略性を強調する傾向が高まっていたわけだが、姜在彦は福沢に両面性を見ており、「日本を盟主とする侵略論につながる危険性をはらむ」としつつも、開化派への援助には一定の評価を与えている。
現在の韓国におけるごく一般的な福沢像は、日本における教科書問題を受けて形作られたため、極端に否定的なものとなっている、2006年の琴秉洞『日本人の朝鮮観 その光と影』を挙げることができる。
1990年代におけるこういった韓国の状況が、福澤に侵略性を見る日本側の教科書問題と連動し続けていることは、安川寿之輔が『福沢諭吉のアジア認識』の「あとがき」で詳細に述べている。高嶋伸欣が1992年(平成4年)に執筆した教科書において、日本人のアジア差別に関係するとして脱亜論を引用し、検定によって不適切とされ、訴訟になった。日本の戦争責任を追及する市民運動に身を投じていた安川は、この訴訟を契機として、福澤を「我が国の近代化の過程を踏みにじり、破綻へと追いやった、我が民族全体の敵」とするような韓国の論調に共鳴し、30年ぶりに福澤研究に取り組んだという。
『福沢諭吉と朝鮮』の著者・杵淵信雄は、安川とはちがい、「脱亜論の宣言を注視するあまり、(福澤は)アジアとの連帯から侵略へと以後転じたとする誤解が生じた」として、福澤の侵略性を強調する立場ではないが、1997年(平成9年)の時点において、「李氏朝鮮の積弊を痛罵し、しばしば当り障りの強い表現を好んだ福沢の名が、隣国では、不愉快な感情と結びつくのは自然な成行である」と、韓国における感情的な反発に理解を示している。
一方、1990年代の韓国において、福澤研究に取り組む研究者が複数現れたことを、林宗元は述べている。林宗元の紹介するところによれば、その観点も、日本における「自由主義者か帝国主義者か」という議論を引き継ぐもの、朝鮮の開化主義者と福澤を比較するもの、福澤と朝鮮開化派との関係を追求するもの、福澤の反儒教論を批判分析するものなど、多岐にわたっていて、否定的なものばかりではないことが注目される。
2000年代に入り、こういった学問的取り組みと平行して、近代化の旗手としての福澤への一定の理解が、新聞論調にも見えはじめる。2004年(平成16年)前後に登場したニューライトは、金玉均など朝鮮開化派を高く評価し、日本統治時代の朝鮮における近代化も認める立場をとっていて、従来の被害者意識から離れた歴史観を提唱するなど、新しい風を巻き起こした。そんな中で同年、林宗元によって、福翁自伝が韓国語に訳され、出版されたことも、韓国における福澤像に肯定的な彩りを加えた。韓国主要紙は軒並み好意的な書評をよせ、ハンギョレは「ハンギョレが選んだ今年の本」の翻訳書の一つとして紹介している。
しかし、韓国において福澤に侵略性を見る従来の見解は根強く、また日本においても脱亜論が一人歩きする傾向が著しい。
また、筑波大学の稲葉継雄は、韓国で福澤の侵略性の認識が高まっていると論じてもいて、韓国における福澤像は、韓国内の政治情勢とともに、日韓の外交関係、世論のキャッチボールによっても大きく揺れ動いている。
著作等
主な著書
- 『増訂華英通語』
- 『西洋事情』
- 『雷銃操法』
- 『西洋旅案内』
- 『条約十一国記』
- 『西洋衣食住』
- 『兵士懐中便覧』
- 『訓蒙窮理図解』
- 『洋兵明鑑』
- 『掌中万国一覧』
- 『英国議事院談』
- 『清英交際始末』
- 『世界国尽』
- 『啓蒙手習之文』
- 『学問のすゝめ』
- 『ひびのおしえ』
- 『童蒙教草』
- 『かたわ娘』
- 『改暦弁』
- 『帳合之法』
- 『日本地図草紙』
- 『文字之教』
- 『会議弁』
- 『文明論之概略』
- 『学者安心論』
- 『分権論』
- 『民間経済録』
- 『福澤文集』
- 『通貨論』
- 『通俗民権論』
- 『通俗国権論』
- 『民情一新』
- 『国会論』
- 『時事小言』
- 『時事大勢論』
- 『帝室論』
- 『兵論』
- 『徳育如何』
- 『学問之独立』
- 『全国徴兵論』
- 『通俗外交論』
- 『日本婦人論』
- 『日本婦人論後編』
- 『士人処世論』
- 『品行論』
- 『男女交際論』
- 『日本男子論』
- 『尊王論 (書名)』
- 『国会の前途』
- 『国会難局の由来』
- 『治安小言』
- 『地租論』
- 『実業論』
- 『福澤全集緒言』
- 『福澤全集』
- 『修業立志編』
- 『福翁百話』
- 『福翁百余話』
- 『福澤先生浮世談』
- 『女大学評論』
- 『新女大学』
- 『明治十年丁丑公論』
- 『瘠我慢の説』
- 『福翁自伝』
- 『旧藩情』
- 『唐人往来』
著作集
『福澤諭吉著作集 (全12巻)』が、2002~03年に慶應義塾大学出版会で刊行。- 『西洋事情』※、ISBN 4-7664-0877-2
- 『世界国尽 窮理図解』、ISBN 4-7664-0878-0
- 『学問のすゝめ』※、ISBN 4-7664-0879-9
- 『文明論之概略』※、ISBN 4-7664-0880-2
- 『学問之独立 慶應義塾之記』、ISBN 4-7664-0881-0
- 『民間経済録 実業論』、ISBN 4-7664-0882-9
- 『通俗民権論 通俗国権論』、ISBN 4-7664-0883-7
- 『時事小言 通俗外交論』、ISBN 4-7664-0884-5
- 『丁丑公論 瘠我慢の説』、ISBN 4-7664-0885-3
- 『日本婦人論 日本男子論』、ISBN 4-7664-0886-1
- 『福翁百話』※、ISBN 4-7664-0887-X
- 『福翁自伝 福澤全集緒言』※、ISBN 4-7664-0888-8
- ※は、2009年にコンパクト版(選書版)が刊行別巻に『福澤諭吉事典』 同編集委員会編/慶應義塾発行、2010年12月、 ISBN 4-7664-1800-X
著書翻訳
- 『An Outline of a Theory of Civilization (福澤諭吉、文明論之概略)』
- 慶應義塾大学出版会、2008年11月。ISBN 4-7664-1560-4、『福翁自伝』も数か国語に訳された。
系譜
系図
- 福澤家
中上川才蔵 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━中上川彦次郎━━藤原あき ┃ ┃緒方洪庵━━━━━━━緒方収二郎━━━淑子 ┃ ┃ ┏━美和 ┃ ┣━━━━━━━┫ ┃ ┃ ┗━福澤範一郎 ┏婉 糸 ┏━福澤八十吉 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━╋━遊喜 ┃ ┃ ┃ ┃ ┏━━━━━福澤一太郎 ┗━八重 ┗福澤諭吉 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━房 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━━福澤駒吉 ┃ ┃ 福澤桃介 ┃ ┃ ┃ ┃ 松方正義━━松方五郎━━━松方正信 ┏━松方正隆 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━┻━松方正範 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━里 ┏てる子 紀久子 ┏━いく子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━中村愛作━━╋中村仙一郎 ┣━━━━━╋━ともの ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 中村貞吉 ┗武子 ┏━渡辺紀久男 ┗━純子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━╋━渡辺晴男 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 渡辺良吉 ┗━岩崎正男 ┃ ┣━━━━━俊 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━━清岡暎一 ┣━━━━━━━雅美 ┃ ┃ 清岡邦之介 ┃ ┃ ┃ ┏━━━寛子 ┃ ┣━━━━━滝 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━━多代 ┃ ┃ ┃ 志立鉄次郎 ┃ ┃ ┏━木内宏 ┃ ┃ ┣━━━━━=━┫ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗━木内孝 ┃ ┃ 木内重四郎 ┏木内信胤 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━┫ ┃ ┃ ┃ ┏━━━磯路 ┗木内良胤━━=━━━木内昭胤━━━━木内孝胤 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━╋━=━━━福澤三八 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━━浦子 ┃ ┃ ┃ ┃ 清 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 福澤億之助 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━=━━━福澤大四郎 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━━福澤進太郎 ┃ ┏━福澤幸雄 ┃ ┃ ┃ 益子 ┣━━━━━=━┫ ┃ ┃ ┃ アクリヴィ ┃ ┗━エミ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━=━━━光 ┏━潮田江次 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━┫ ┃ ┃ ┃ ┃ 潮田伝五郎 ┗━潮田勢吉 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 錦 ┃ ┃ ┏━林雅之助━┳━━ラク ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 須賀川誠 林董━━━━=━=━┫ ┗━━岩崎忠雄 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━┻━━━和子 ┏岩崎弥之助━=━=━=━岩崎俊弥━━━━淑子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗━菊 ┏━福澤時太郎 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━┫ ┃ ┗━=━━━福澤捨次郎 ┗━福澤堅次 ┏━━━福澤雄吉 ┃ ┃ ┣━━━━━┫ ┗岩崎弥太郎━━━┻━━━岩崎久弥━━━━綾子 ┗━━━初子
親類縁者
- 子
- 福澤一太郎 - 長男、慶應義塾塾長。文久3年10月12日 (旧暦)(1863年11月22日)生まれ。
- 福澤捨次郎 - 次男、時事新報社長。慶應元年9月21日 (旧暦)(1865年11月9日)生まれ。
- 福澤里(阿三(後に通称をお里))- 長女、中村貞吉に嫁す。慶應4年4月1日 (旧暦)(1868年4月23日)生まれ。
- 福澤房(阿房)- 次女、諭吉の婿養子・桃介の妻。明治3年7月26日 (旧暦)(1870年8月22日)生まれ。
- 福澤俊(阿俊)- 三女、清岡邦之介に嫁す。1873年(明治6年)8月4日生まれ。
- 福澤滝(阿滝)- 四女、志立鉄次郎に嫁す。1876年(明治9年)3月2日生まれ。
- 福澤光(阿光)- 五女、潮田伝五郎に嫁す。1879年(明治12年)3月27日生まれ。
- 福澤三八 - 三男。1881年(明治14年)7月14日生まれ。
- 福澤大四郎 - 四男、実業家。1883年(明治16年)7月24日生まれ。
- 孫
- 福澤進太郎 - 大四郎の長男、フランス文学者・慶應義塾大学教授
- 曾孫
- 福澤幸雄 - 進太郎の長男、レーサー
- 福澤武- 三菱地所会長
- 玄孫
- 福澤克雄 - (TBSテレビ/ 映画監督/ 演出家 / テレビディレクター )
- 片山千恵子 -(日本放送協会アナウンサー)福澤諭吉は大曾祖父
- その他
- 福澤桃介 - 女婿(次女・房の夫)、実業家
- 中上川彦次郎 - 甥(姉・婉の長男)
- 高谷龍洲 - 母の再従兄弟、儒学者
- 藤原あき - 甥の三女
- フランキー堺 - 次男が諭吉の曾孫の娘と結婚
登場作品
- 勝海舟 (NHK大河ドラマ)(1974年、NHK大河ドラマ、演:青山良彦)
- 花神 (NHK大河ドラマ)(1977年、NHK大河ドラマ、演:入川保則)
- 陽だまりの樹(1981年、手塚治虫)
- 春の波涛(1985年、NHK大河ドラマ、演:小林桂樹)
- 幕末青春グラフィティ 福沢諭吉(1985年、TBSドラマ、演:中村勘九郎 (5代目) ・現中村勘三郎 (18代目) )
- 五稜郭 (テレビドラマ)(1988年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:中村雅俊)
- 勝海舟 (テレビドラマ)(1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:石原良純)
- 福沢諭吉 (映画)(1991年、映画、演:柴田恭兵)
- EAST MEETS WEST(1995年、松竹、演:橋爪淳)
- 西部邁・佐高信の学問のすゝめ(2008年、朝日ニュースター)
- ETV特集 シリーズ「日本と朝鮮半島2千年」第10回“脱亜”への道~江華島事件から日清戦争へ~(2010年、日本放送協会ETV特集)
記念行事
- 2009年(平成21年)、慶應義塾創立150年記念「未来をひらく福沢諭吉展」が東京国立博物館、福岡市美術館、大阪市立美術館において、また「福沢諭吉と神奈川展」が神奈川県立歴史博物館において、順次開催された。
脚注
関連項目
関連事項
- 儒学 - 国学 - 蘭学
- 武士 - 居合 - 立身新流
- 進脩館 - 適塾
- 慶應義塾 - 専修学校 (旧制)
- 明六社 - 明六雑誌
- 日本学士院 - 東京地学協会
- 興亜会
- 交詢社
- 三菱商業学校(明治義塾)
- 大坂
- 中津市
- 福澤諭吉旧居
- 幕末の人物一覧
- 明治の人物一覧
- 京都集書院
- 明治時代
- 文明政治の六条件
- 皇室制度
- 科学
- 経済
- 数学
- 演説
- 簿記
- 脱亜論
- 脱亜思想
- 亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説
- 土地は併呑す可らず国事は改革す可し
- 支那人親しむ可し
- 修身要領
- 福澤心訓
- 高尚
- 文銭堂本舗
- 経世済民
- アジア主義
- 甲申事変 - 開化派
- 長沼事件
- 思想史 - 近代日本思想大系 - 現代日本思想大系
- 仮名垣魯文
- 志摩三商会
- 遠洋航路
- ハングル
- 日本の海洋国家論
親交が深かった人物・同門の人物
- 林金兵衛
- 芳蓮院
- 木村芥舟
- 中島三郎助
- ハインリッヒ・フォン・シーボルト
- 楠本イネ
- 大村益次郎
- 大鳥圭介
- 九鬼隆義
- 川本幸民
- 尺振八
- 森村市左衛門
- 長与専斎
- 後藤象二郎
- 北里柴三郎
- 森山栄之助
- 栗本鋤雲
- 桂川甫周
- 箕作秋坪
- 大槻磐渓
- 林金兵衛
- 宇都宮三郎
- 高島嘉右衛門
- 渡辺重石丸
- 山口良蔵
- デュアン・シモンズ
影響を受けた人物
- 荻生徂徠
- 佐倉惣五郎
- 中村栗園
- 白石照山
- 帆足万里
- 緒方洪庵
- 江川英龍
- 新井白石
- 石川桜所
- 西郷隆盛
- アレクシス・ド・トクヴィル
- フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー
- ジョン・スチュアート・ミル
- ウォルター・バジョット
- ヘンリー・バックル
- ウィリアム・ブラックストン
- ハーバート・スペンサー
影響を与えた人物
- 明治以後、福澤の思想に影響を受けた、または論評の手法を真似た人物(慶應義塾関係者を除く)。
- 梁啓超
- 南方熊楠
- 陸羯南
- 徳富蘇峰(猪一郎)
- 中江篤介(兆民)
- 福地桜痴(源一郎)
- 田口卯吉(鼎軒)
- 山路愛山
- 幸徳秋水
- 内村鑑三
- 三宅雪嶺
- 植村正久
- 朝比奈知泉
関連人物脚注
参考文献
「福沢」「福澤」の表記は、著者がどちらを用いていたのかに従う。
- 鳥井裕美子「福沢諭吉──蘭学を洋学に開花させた啓蒙思想家──」、352-359頁。
- 西部邁「保守思想の源流―福沢諭吉」、20-37頁。
- 安川寿之輔「福沢諭吉の文明観とアジア認識──『脱亜入欧』論批判──」、
外部リンク
- 慶應義塾:福澤諭吉年譜
- 福澤諭吉 - Yahoo!百科事典
- 未来をひらく福澤諭吉展(福沢諭吉展) −慶應義塾創立150年記念−
- 「大正版『福澤全集』「時事論集」所収論説一覧及び起筆者推定」
- 「福沢諭吉演説一覧」
- 福沢 諭吉:作家別作品リスト(青空文庫)
- デジタルで読む福澤諭吉:eBOOK版・テキスト版(慶應義塾図書館)
- 肖像メダル「福澤諭吉」 造幣局 (日本)
- 青の洞門と福澤諭吉 中津市
- 福沢諭吉 )
- 著者=“福沢諭吉”で検索(近代デジタルライブラリー)
- 漢学→蘭学→英学そして再び…夢止まぬ福沢諭吉: 今日は何の日?徒然 ...もはや慶応義塾の創始者としても超有名な福沢諭吉(ふくざわゆきち)さんですが・・・. Fukuzawayukiti600 彼は天保五年(1834年)、豊前国(福岡県東部)中津藩士・福沢百助の次男として生まれますが、その頃、父の百助は中津藩の廻米方( ...
- 福沢諭吉の命日に慶應義塾幼稚舎で講演してきました - 龍一日記 ...誉田龍一は、「消えずの行灯 本所七不思議捕物帖」で第28回小説推理新人賞を受賞した小説家です。時代物、ミステリー物の作家として活躍しています。主な著書に、「消えずの行灯 本所七不思議捕物帖」「なにわ春風堂」「瑠璃垣冴の解析 ...
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- 福沢諭吉の学問のススメでも読みなさい: また大阪か・・・大阪だもの福沢諭吉の学問のススメでも読みなさい,2ちゃんねるの大阪関連スレッドのまとめみたいな.
- 福沢諭吉と豊臣秀吉と - 是非にあらず昨日の続きです。 この人こそ最後は知らないでしょう。 【福沢諭吉】:19世紀後期の学者、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者、新聞『時事新報』の創刊・発行者。慶應義塾の創設者。 1835年1月10日(天保5年12月12日):大坂堂島浜(現・ ...
- NHK新キャスターに福沢諭吉のやしゃご…元ミスソフィア・片山 ...(2月1日 5時57分)NHKは31日、2012年度の新キャスターを発表した。その中に歴史的偉人、福沢諭吉の玄孫(やしゃご)にあたる4年目の片山千恵子アナウンサー(27)も含まれており、総合「首都圏ネットワーク」(月~金曜・後6時10分)を担当する。[詳細]
- 諭吉の遺徳しのぶ 中津で112回忌法要(2月4日 10時04分)中津ゆかりの福沢諭吉(1835~1901)の112回忌法要が命日の3日、福沢家先祖の墓がある中津市桜町の明蓮寺(重松祐誠住職)であった。福沢旧邸保存会(理事長・鯨井佳則副市長)の主催。 市民ら関係者約50人が参列。琴の生田流磯貝社中 ...[詳細]
- ミスソフィアのNHK片山アナ、福沢諭吉の子孫だった!4月から ...(2月1日 8時42分)1万円札の肖像画になっている福沢諭吉を先祖に持つNHKの片山千恵子アナウンサー(27)が、全国デビューすることになり31日、都内の同局で会見した。金沢放送局所属の4年目で、4月から東京アナウンス室に異動する片山アナは、偉大な先祖に ...[詳細]
- 憂楽帳:電力王(2月4日 17時28分)福沢諭吉を岳父に持つ福沢桃介は、大正期に今の中部電力や関西電力につながる複数の電灯会社を経営した。今でも“電力業界の奇才”と呼ばれる。 その理由は、木曽川沿いに次々と造った水力発電所の電力を消費するため、数々の事業に自ら乗り出した ...[詳細]
- NHK:「プレマップ」新女性キャスターは諭吉の子孫(2月1日 8時56分)上智大卒の元ミスソフィア。福沢諭吉の子孫で「顔が似ていると言われます」。 また10年に双子の女児を出産し、休暇を取った武内陶子アナ(46)が新番組「連続クイズ ホールドオン!」(月~金曜後1・05)で2年ぶりにテレビ復帰。震災に関 ...[詳細]
- 「プレマップ」新女性キャスターは諭吉の子孫(スポニチ)(2月1日 5時57分)NHK「もうすぐ9時プレマップ」「週末プレマップ」などに出演が決まった福沢諭吉の末裔の片山千恵子アナ NHKが31日、12年度の番組キャスターを発表した。広報番組「もうすぐ9時プレマップ」(月~木曜後8・43)、「週末プレマップ ...[詳細]
- 人生変える言葉が見つかる!?「男の座右の銘 ~世界と日本編~」(2月4日 14時01分)福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」は、「だから勉強しなさい」という意味だった! など、知っているようで知らなかった名言もあって目からウロコの内容になっています。 しかも現在 2 ヶ月連続リリース記念として前作「男の ...[詳細]
- 地域から豊かな日本へ(2月4日 6時22分)福沢諭吉に、国が富み栄えるためには地域が豊かにならなくてはいけない、という言葉がある。足柄があるから日本があることをしっかりと腹に据えて活動していきたい」と話した。会場では東日本復興支援で気仙沼のふかひれスープの販売などもあった。[詳細]
- はてなブックマーク> Glnのブックマーク(2月4日 9時14分)はてなブックマークはオンラインでブックマークを管理・共有できる無料サービス。自宅、職場、外出先、どこからでも同じブックマークにアクセスできます。ユーザーはみんなでブックマークを共有して効率良く情報収集しています。はてなブックマーク ...[詳細]
- 京都人って、やっぱり意地悪? 京都本の正しい読み方(2月2日 14時17分)大学の街といわれる京都ですが、母校の慶応があったなんて知りませんでしたし。 部長 なんだ、それは? 太郎 福沢諭吉が1874年(明治7年)に、京都府の要望に応じて京都所司代の跡地、今の府庁の場所に「京都慶応義塾」を開設したんです。教員不足 ...[詳細]
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