法隆寺の宮大工。奈良県生まれ。
棟梁として法隆寺金堂の復元、法輪寺三重塔、薬師寺金堂、同西塔等の再建を手掛けた、最後の宮大工棟梁であり、文化財保存技術者、文化功労者、斑鳩町名誉町民。
宮大工(みやだいく)とは、神社仏閣の建築や補修に携わる大工で、技術、技法は徒弟制度という形で師匠から弟子へ口伝で継承されます。法隆寺の昭和の大修理の際、25歳の若さで棟梁となり、法隆寺建築に秘められた先人の叡智にふれ宮大工口伝の確かさを実感し、その伝承と実践に後半生を捧げました。著書も多く、「法隆寺を支えた木」は中学校の国語の教科書の掲載されました。
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西岡常一ニシオカ ツネカズ |
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[西岡常一 人物情報]
Wikipediaの人物情報
西岡 常一(にしおか つねかず、1908年(明治41年)9月4日 - 1995年(平成7年)4月11日)は、宮大工。
人物
奈良県斑鳩町法隆寺西里出身。祖父西岡常吉、父西岡楢光はともに法隆寺の宮大工棟梁であった。
幼少期は、祖父に連れられ法隆寺の佐伯常胤管主に可愛がられ、「カステラや羊羹を常胤さんからようもろうたことを覚えています。」などの記憶があるなど、棟梁になるべく早くから薫陶を受けていた。
斑鳩尋常高等小学校3年生から夏休みなどに現場で働かされた。「・・そのころの法隆寺の境内では、西里の村の子供たちの絶好の遊び場で、休日にはよく『ベースボール』をして遊んだものだが、夏休みにみんなの遊んでいる姿が仕事場から見えたりすると、『なんで自分だけ大工をせんならんのやろ』と、うらめしく思ったこともある。」と述懐している。
生駒農学校入学、父は工業学校に進学させるつもりであったが祖父の命令で農学校に入学することになった。一方在学中は祖父から道具の使い方を教えられるなど、大工としての技能も徹底的に仕込まれた。
卒業後は見習いとなる。大工として独立し、法隆寺修理工事に参加する。1月から翌年7月まで舞鶴重砲兵大隊に入隊し衛生上等兵となる。除隊後の、法隆寺五重塔縮小模型作製を行うが、このときに設計技術を学ぶ。には法隆寺東院解体工事の地質鑑別の成果が認められ、法隆寺棟梁となる。
戦火の拡大と共に、西岡自身も戦争に巻き込まれていく。8月、衛生兵として召集、京都伏見野砲第二十二連隊を経て、翌歩兵第三十八連隊、歩兵第百三十八連隊機関銃部隊に入り中国長江流域警備の任務につく。このとき軍務の傍ら中国の建築様式を見て歩き、自身の知識に大いに役立った。除隊。以降、満州黒龍江省トルチハへ、には朝鮮の木浦望雲飛行場へと二度にわたる応召を受け、陸軍衛生軍曹になり終戦を迎える。その間も戦中期の法隆寺#西院伽藍の解体修理を続けていた。
戦後は法隆寺の工事が中断され、「結婚のとき買うた袴、羽織、衣装、とんびとか、靴とか服はみんな手放してしもうた。」と述懐する如く、生活苦のため家財を売り払わざるをえなくなった。一時は靴の闇屋をしたり、栄養失調のために結核に感染して現場を離れるなど波乱含みの中で法隆寺解体修理を続けるが、その卓抜した力量や豊富な知識は、寺関係者のほか学術専門家にも認められ法隆寺文化財保存事務所技師代理となる。さらにには明王院 (広島県)#伽藍、から法輪寺 (斑鳩町)法輪寺 (斑鳩町)#伽藍(落慶法要)、より薬師寺#金堂・西塔などの再建を棟梁として手掛ける。これらのプロジェクトにおいては、時として学者との間に激しい論争や対立があったが、西岡は一歩も引かず自論を通し、周囲から「法隆寺には鬼がおる。」と畏敬を込めて呼ばれていた。
特に薬師寺金堂再建に関しては『プロジェクトX』(日本放送協会)で取り上げられて紹介されている。また途絶えていた「ヤリガンナ」などの道具の復活を行う。
飛鳥時代から受け継がれていた寺院建築の技術を後世に伝えるなど「最後の宮大工」と称された。文化財保存技術者、文化功労者、斑鳩町名誉町民。実弟西岡楢二郎も宮大工として父や兄を支えた。また、西岡棟梁の唯一の内弟子が小川三夫である。
、癌で死去。
祖父の薫陶
祖父西岡常吉は、後継者たる男子に恵まれず(長男は夭折)、次女ツギの婿養子に二十四歳の松岡楢光を迎えて弟子に仕込んだ。やがて両者の間に長男が生まれると大いに喜び、自身の「常」の字をつけて「常一」と命名した。祖父としては普通に接し、菓子をすぐ与えたり、いたずらをしても厳しく注意することもないなど、非常に甘いところもあったが、常一が四歳のころから法隆寺の現場に連れて行って雰囲気に慣れさせ、小学校に上がると雑用をさせたが、その時の祖父は別人のように厳格になった。以降、祖父は婿の楢光と常一とを将来の棟梁として育成すべく尽力することになる。特に常一には徹底した英才教育を行い、常一自身にとって貴重な財産となっていくのである。
- 見習いの時から祖父常吉に、厳しく仕込まれた。「・・・おじいさんが、ぴっちりと仕込んでくれたんです。とにかく厳しかったです。・・・口笛は吹いてはならんとか、半てんの帯はきちんと結べとか言いました。だらしないのはいかんのでしょうな。」などの生活態度や、法隆寺は皇族を初めとする賓客が来るという理由から礼儀作法なども教えられた。それでも、外部からは祖父は温和になったと見え、祖父の弟子は「やっぱり孫にかかったらこわい親方も仏になった。」と言っていた。
- 祖父の意見で、渋々農学校に入った常一は学習意欲に欠け農場の果実を無断で食べたりして怠けていたが、実習を重ねるうちに興味を持ち成績も上がっていった。「(肥料を)どのくらいの分量を、いつ、どの時間に施すかは、自ら体験しながら、自分で考える。種をおろす、芽が出る、葉やつるが育ち、実りがある・・・・。それがだんだん面白くなってきた。・・・『土の命』を知ることであった。そのためにこそ、祖父は私を農学校にやったのだが、それが本当にわかったのは、のちのことである。」と述懐するように、祖父は生命の尊さと土の性質によって生命も変化することを学ばせようとしたのであり、農学校時代は将来の棟梁としての必要な資質を涵養する時期となった。果たして、後年になって原木の見極め方や地質調査などで農学校時代の知識が大いに役立ち、常一は「三年間の農業教育のおかげやと思います。」と祖父や当時学校関係者に感謝していた。
- 農学校を卒業した常一に、祖父は一年間の米作りをさせた。常一は学校で教えられた通りに行ったが祖父は誉めるどころか、他家の農家よりも収穫が低いことを指摘し「本と相談して米作りするのではなく、稲と話し合いしないと稲は育たない。大工もその通りで、木と話し合いをしないと本当の大工になれない。」と諭した。
- 祖父はまず見本を示し、後は一切教えず、自身で何回も試行錯誤させて覚えさせる方法であった。厳しく叱責することもあったが、評価するのも上手く「わたしに直接誉めないのです。母親に『常一は偉い奴や。わしが言わん先にこういうことをしおった。』といいます。母親が喜んで、わたしに話してくれます。間接的に誉めるんです。」夜は、常一身体をマッサージさせながら大工としての多くの知識を教えた。
- ヒノキなどの原木の見極め方や地質調査の技術など生駒農学校で学んだ技術は、後々になって役に立った。西岡は「三年間の農業教育のおかげやと思います。今になって、はじめてじいさんの真意がわかってきたということですわ。」と晩年に述べている。
- 祖父は、幼い常一をよく奈良の寺院を見に連れて行き、基本を学ばせた。薬師寺の東塔では西塔の礎石跡の水たまりに映るのを示し「これはなあ。水鏡の塔というてな。五重塔がこの水に映ってゆらゆら揺れた姿を実際につくらなはったんや。ようおぼえとき。」と教えた。後年、常一は薬師寺伽藍復元工事を担当する際、「その塔がどういう因縁か知らんけど、こういうふうにさせてもらえるということになって、もうありがたいことやと思いましてな。」と深い感慨を述べている。
口伝
祖父常吉は晩年、一人前となった父楢光と常一に西岡家に代々伝わる口伝を教えた。これは一度しか口移しで教えることができない秘中の教えで、一つずつその意味となる要点を教え、十日後に質問して一語一句違わず意味を理解するまで次に進まなかった。
- 内容
・神仏を崇めず仏法を賛仰せずして伽藍社頭を口にすべからず。
・伽藍造営には四神相應の地を選べ。
・堂塔の建立には木を買はず山を買へ。
・木は生育の方位のままに使へ。
・堂塔の木組は木の癖組。
・木の癖組は工人たちの心組。
・工人等の心根は匠長が工人への思やり。
・百工あれば百念あり。一つに統ぶるが匠長が裁量也。
・百論一つに止まるを正とや云う也。
・一つに止めるの器量なきは謹み惧れ匠長の座を去れ。
・諸々の技法は一日にして成らず。祖神の徳恵也。
- 西岡の述懐
「法隆寺の棟梁がずっと受け継いできたもんです。文字にして伝えるんではなく、口伝です。文字に書かしませんのや。百人の大工の中から、この人こそ棟梁になれる人、腕前といい、人柄といい、この人こそが棟梁の資格があるという人にだけ、口を持って伝えます。(丸暗記してしまうと)それではちっともわかってない。・・・そういうのはいかんちゅうので、本当にこの人こそという人にだけ、口を持って伝える。これが口伝や。・・・どんな難しいもんやろかと思っていましたが、あほみたいなもんや。何でもない当然のことやね」
のち、今上天皇(当時皇太子)に「口伝」について御進講したとき、いつのころからから伝わるかとお尋ねがあり、返事に困った西岡は先祖から代代伝わってきたので「年代はわかりまへん。」と奉答するのがやっとであった。
学者との対立
現場でたたき上げた豊富な経験と勘は、寺院再建の際に大いに活用された。多くの学識関係者が持論を述べても、堂々と反論し、そのたびに衝突を繰り返した。常一は「学者は様式論です。・・・あんたら理屈言うてなはれ。仕事はわしや。・・・学者は学者同士喧嘩させとけ。こっちはこっちの思うようにする。」と述べて、学者の意見を机上の空論扱いして歯牙にもかけなかった。
古代建築学の泰斗、藤島亥治郎(東京大学工学部名誉教授)や村田治郎(京都大学工学部名誉教授)らが創建時の法隆寺金堂の屋根は玉虫厨子と同じ錏葺きであったという説を指示していたが、西岡は解体工事の際に垂木の位置と当て木に使われていた釘跡を発見して入母屋造りと判断し、双方の論争にまで発展したが、結局は釘跡が決定的な証拠となって入母屋造りと判明した。後、西岡は「ありがたい釘穴やなあ。」と述べていた。学者同士の無意味な論争に業を煮やした時は、飛鳥時代は学者でなく大工が寺院を建たもので「その大工の伝統をわれわれがふまえているのだから、われわれのやっていることは間違いない。」と論破するなど、辛辣な言い方をすることも辞さなかった。
法輪寺三重塔再建では、竹島卓一(名古屋工業大学教授)と大論争になった。竹島教授は法隆寺大修理の工事事務局長で、西岡とも面識があり、中国古代建築の専門家としての知識を生かして三重塔の設計を行ったが、常一は補強の鉄骨使用に猛反対した。初めは法輪寺住職井上慶覚の仲介で両者の関係は穏便になっていたが、井上の死後、対立は激化した。竹島は、常一の力量を認めながらも将来飛鳥時代方式の建築技術が断絶することを恐れ、後世にわかりやすい江戸期の技術を採用する考えであったが、常一は江戸期の鉄を補強したやり方は却って木材を痛め寿命を縮めるとして否定、伝統技術も人間の進歩とともに理解する時代が来るので断絶することはないと主張した。やがて両者は感情的に口論する事態となり、果てには新聞紙面で論陣を張るまでに至った。もっとも西岡は「あの人は学者としてちゃんとした意見を主張してはるわけですわ。」と、竹島には敬意を示していて、本来仲介に立つべき文化庁関係者を批判している。結局、最低限度の鉄骨使用ということで折り合いがついたが、青山茂が「非常に気持ちのいい論争」と評しているように双方とも正論を吐き、情熱を傾けた事件であった。
高田好胤との交流
その強烈な職人堅気で摩擦も多かったが、一方では多くの人々との交流もあった。とくに薬師寺管主高田好胤とは薬師寺伽藍再建との関わりが深く、常一が最も影響を受けた僧侶の一人であった。もともと高田は師の橋本凝胤の悲願であった堂宇再建を実現するため、百万巻写経などの話題作りやマスコミに出演して再建の勧進をすすめていたことが、常一には「タレント坊主」と見えてしまい、後年、高田が「最初のころ、私は西岡はんに大分にきらわれていたらしい。」と苦笑交じりに語っているように、評価していなかった。だが、「・・・会って話すうち、これはさすがと感心させられた。仏法を我々に理解できるように説」く態度と、「てらいのない謙虚な」性格とにだんだん魅かれて行った。そして金堂棟上げ式の時、橋本凝胤が棟木に高田管長名を書き入れ、反発した高田が西岡の名前を書き入れるよう訴えた事件が起こり、常一は自身の慾を捨てた高田の態度に心服する。すっかり惚れ込んだ常一は、この人がいるのなら西塔建立ができると、金堂落慶法要直後、西塔再建の建白書を高田に提出する。この時高田は「あんたはひどい目にあわす人や。」ぼやきながらも笑っていた。ヤリガンナの復元
西岡の功績の一つに古代の大工道具の復元がある。焼けた法隆寺金堂の再建に飛鳥時代の柱の復元を目指したが、その際回廊や中門の柱の柔らかな手触りに注目し、従来の台ガンナや手斧よりも創建当時に使用されていたヤリガンナならば可能だと気付いた。しかし、ヤリガンナは15~16世紀に使用が途絶え実物もなければ使用方法も分からない幻の道具であった。
まず「古墳などから出土したヤリガンナの資料が全国から集められた。」が思うようなものはできず、やむなく「正倉院にあった小さなヤリガンナを元に再現したんやが鉄が悪うて切れんのですわ。」そこで法隆寺の飛鳥時代の古釘を材料に堺の刀匠水野正範に制作を依頼し、こうしてヤリガンナが完成した。
完成したヤリガンナは刃の色から違っており、西岡もその出来栄えに感服するほどの出来栄えであった。西岡は絵巻物などを研究し三年間の試行錯誤の末、身体を60度に傾けて腹部に力を入れ一気に引くやり方を身に付け、これを「ヘソで削れ」その切り口は「スプーンで切り取ったような跡になるが、そこに、あたたかみ、ぬくもりがかもし出される。」独自のものであった。使い方が上達するとカンナ屑が長く巻いたきれいなものになり、あまりの出来栄えに、西岡自身「家に持って帰ってしばらく吊っておいたことがあるんですけどね。」と述べていたし、見学者が屑を記念に持ち帰ったこともあった。
エピソード
- 職人肌の強面であったが、優しい面も持ち合わせており周囲の人々に慕われていた。弟子の一人建部清哲は、初対面の時薬師寺の塔の図面を一週間貸してほしいと懇願すると、はじめ「門外不出のもんやから貸すことはできん。」と断っていた西岡が、建部の残念そうな表情を見て「お前、本当に一週間で返しにくるか。」と聞き、建部は「もちろんです。」と答えた。西岡が「そうか。」と言って図面を渡すと、建部はその優しさに感激し、家族を連れて奈良に住むことを決めた。
- 後輩への教え方は祖父常吉と同じで、厳格な姿勢で臨み、教えたりすると甘えてしまって身に付かないから「何、甘えてんねん。自分で考えはなれ!」と突き放していた。だが、相手が考えに行き詰まってしまった時にはさりげなくヒントを与えたり、「わしが一切の責任持つさかいにやってみなはれ。」と励ましたり、寺院建築を全く知らない大工にも「ぼちぼちやりはなれ。要領よく覚えたらすぐに忘れるからな。とにかく基本をしっかりおぼえるこっちゃ。そしたら後はいくらでもおぼえられる。」と激励したり、弟子が若干の寸法を間違えていても気にかけずに「ええやろ。」と済ませるなど、硬軟を上手に使い分けた方法であった。
- 修行時代は母ツギによく叱責された。深夜まで図面の勉強をして朝早く起きるのだが、どうしても寝坊してしまう。すると「親やおじいさんより後ろから出ていくとはどういうことや!おまえはいつからそんなえらくなったんや。もっと早う起きろ!」と怒鳴られ、常一は仕事場に駆け出していった。見習い学業の傍ら、洗濯や弟の子守り食器の後片付けや調理までさせられた。ツギはこれも棟梁になる為の修業であると位置付け「棟梁というものは家の内の事から外の事まで一切知らないといけない。たとえば使用人の置いてある家に言って、使用人の苦しみというものをわからなかったら使用人の苦しみが分からない。使用人の気持ちをわかるためには茶碗洗ったり、洗濯をしっておかなければいけない。」と諭し。常一はあらゆる職人をまとめるためにそれぞれの苦しみを理解すべきことを学んだ。
- 衛生兵時代は、小柄な事もあって威厳をつけるために一時期口髭を生やしていた。また満州に駐屯していた時は、大工だったことが縁で営繕の仕事も命じられ、腕の良さに経理担当の将校から褒められたこともある。西岡が設計して部下の大工を使っての仕事であったが、豚小屋を作ったこともあり、「神社仏閣以外の建物を・・・手がけたのは、後にも先にもこれだけである。」と述懐している。
- 1945年8月15日、常一は朝鮮南部の木浦にある望雲飛行場で衛生曹長として警備防衛に就いていた。昭和天皇の玉音放送が流れると、普段威張っていた将校たちは放心状態となり、師団司令部からの終戦報告書提出の命令が出ても書くこともできなかった。ために、常一は、報告書を書くよう命じられ、一時間くらいかかって「八月十五日、終戦の詔勅を拝す。全軍、粛として声なし・・・」から始まり日本再建を誓う内容の文を書いた。これを読んだ将校から職業を聞かると「大工です。」と答え、相手を驚かせた。後年、この有様について「星は上やけど、人間はなっとらんな。」と常一は述懐している。
- 終戦直後の生活難の時代、息子たちが友人と草野球をするためにグローブを買ってほしいとねだると、西岡は「お前、今の日本の現状を見よ。遊んでいる暇はないやろ。みんな腹すかしてるんやから、鍬持っていけ。たまには天秤棒でこやしをかついでいけ。それが今の日本のスポーツや。それで鍛錬せい。」と叱った。
- 「古代の釘はねっとりしとる。これが鎌倉あたりから次第にカサカカして、近世以降のはちゃらちゃらした釘になる。」「(寺社建築で)一番悪いのは日光東照宮です。装飾のかたまりで・・・芸者さんです。細い体にベラベラかんざしつけて、打ち掛けつけて、ぽっくりはいて、押したらこける・・・」というような独自の感覚による表現を用いて建築、道具などを批評していたが、分かりやすく核心を掴んだものであった。
- 法隆寺の金堂壁画焼損では、佐伯管主の管理責任が問われ、文部省は残った壁画を取り外して東京に保存する方針を出した。「壁画がなかったら魂抜かれる。法隆寺ではなくなる。」管主の悲壮な願いを聞いた西岡は単身文部省に乗り込み、居丈高に拒否する官僚に向かい「どうしても強行するなら、今いる五十人の大工が集まって、運び出すのを止める。」と強硬に反対した。その甲斐あってか、壁画は法隆寺収蔵庫に保存されることとなった。
- 家庭では亭主関白で雷親父として恐れられていたが、夜遅く浅野清の下宿に子供を連れて迎えに来た妻にねぎらいの言葉をかけたり、子供と添い寝しながら東海林太郎の「旅笠道中」を子守歌代わりに歌うなど優しい心根を見せる時もあった。西岡自身法隆寺の事で頭がいっぱいで「躾が大事という事もあるけど、子供をようあやしてやるちゅうよな、気持ちのゆとりがありませんでしたな。」と述懐している。それでも、晩年はすっかり好々爺となり孫に自動車を買い与えたりしていた。
- 家族を大切にする一方、仕事は別という考えを持っていた。小川三夫が正式に弟子入りしてからは、食事の席は小川を実子より上座に座らした。血を分けた子供といえども親の意志に背いて別の道を選んだ(長男は日本国有鉄道、二男は武田製薬に勤務。)のがその理由であった。常一自身小川について、「このわたしというものを信頼して自分から飛び込んできた人や。私の仕事を通じて言えば、この人が直系や。」と述べている。また、実父の楢光については、共に祖父に師事したこともあり親というよりもライバル視していた。父の作成した法輪寺三重塔設計図に多くの欠点を見つけて「やっぱりくそ親父はあかんな。」と酷評したり、常一が父に代わって法輪寺三重塔再建の棟梁に任ぜられた時、父は嫉妬して自分の失敗を望んでいたのではないかと思っていた。
- 大工の腕は一流であったが、自身はあくまでも法隆寺の宮大工であり、聖なる神社仏閣以外は造営しない掟を堅く守っていた。「宮大工は民家は建ててはいかん。けがれるといわれておりましたんや。民家建てた者は宮大工から外されました。ですから、用事のないときは畑作ったり、田んぼ耕しておりました。」と自身も証言している。自宅を改装する時もわざわざ「よその大工さんにやってもろた。」という程の徹底ぶりであった。そのために収入が少なくても気にすることなく清貧に甘んじていた。
- 幼くして法隆寺に出入りしていた影響から敬虔な仏教徒であった。召集された時、「お太子様が必要とおぼしめしならば、この私をどうぞ生かせてください。」と聖徳太子に祈った。。佐伯常胤から法華経現代語語訳全集を読むように勧められ、親から金を出して貰って購入して読んだ。後に佐伯に感想を聞かれ「理解できまへんが、ありがたいもんやいうことがわかります。」と答え佐伯を喜ばせた。、晩年、息子には「宮大工というのは、お堂や伽藍を造営するねん。・・・仏法を知らなあかん。仏法もわからんようなやつは宮大工の座から謹んで去れ。」との言葉を残している。
- 晩年は視力の衰えで砥げなくなり、さらに病気のため薬師寺伽藍復興工事の第一線から引いてしまった。以降、寺側の要請で棟梁の職にとどまり若い大工には優しく声をかけて教えていたが、それでも常一が現場に来ると緊張感が走り、休憩時間にもかかわらずテレビが消されるほどであった。
ことば
西岡はインタビューや座談会で数々の言葉を残している。どれもが、彼の人生観や仕事へのこだわりが感じられている。- 「そんなことしたら、ヒノキが泣きよります。」・・・法輪寺三重塔再建で竹島卓一教授が鉄骨補強を唱えた時の反論
- 「自分からしてみせな。それがいちばんですな。なんぼじょうずに文句言うてもあきませんわ。やっぱりまず私自身鉢巻きをしめて、汗を流して、その人の前でこういうふうにやってくれと、実際してみせんとな。」・・・後輩の大工を統率する時の秘訣
- 「力で切るんじゃなしに、ノコギリで切るということ、よういわれますわ。力入れて切ったらあかんちゅうて、ノコギリ自身が、おれはこんだけしかよう切らんというのをまず知ってやることですわ。」・・・鋸の扱い方についての意見
- 「自然の試験を通らんと、ほんとうにできたといえんのやから、安心はできません。」・・・薬師寺西塔再建直後の感想
- 「自然を『征服する』と言いますが、それは西洋の考え方です。日本ではそうやない。日本は自然の中にわれわれが生かされている、と、こう思わなくちゃいけませんねえ。」・・・松久朋琳との対話で東洋と西洋の比較について
- 「(女性は)亭主を尻の下に敷くことやない。亭主というものは、現世を生き抜くため、自分の家庭を守るため、国民としての責任を果たすために一所懸命や。あるいは間違うたことをしてるかもしれん。それを後ろからじーっと見てるのが母親や奥さんの大切な役目や。そしてその間違いを取り除いたことを子供に教える。それで次の時代が本当に正しくなっていく。」・・・婦人会の口演の内容
- 「職人の中から芸術が生まれて、芸術家といわれる人の中からは、芸術は生まれてきません。」・・・法隆寺伝法堂についての感想
- 「もし、東塔がなかったら絶対これはできませんで。東塔というお手本があって、初めてできたんや。」・・・薬師寺西塔再建完了後太田博太郎に言った言葉、ただし太田に「てめえでもだろ!」と言い返されて「そらそうやわな。」と思った。
- 「大学どころじゃない、大大学に行かせてもろうたようなもんです。」・・・・法隆寺での経験を振り返って
- 「仏教はその慈悲心を自分の子どもだけにだけではなしに、生きとし生けるものに及ぼそうという考えですわな。これが世界に広まれば平和いうこと言わんでも、世界が本当に平和になりますわ。思いやりですわ。」・・・仏教の慈悲心について
- 「木というやつはえらいですがな、泰然として台風が来るなら来い、雷落ちるなら落ちよ。自然の猛威を受けて二千年のいのちがありますねん。そういうこと考えると神様ですがな。」・・・台湾産の樹齢二千年のヒノキについて
略歴
- 法隆寺解体修理。
- 法輪寺 (斑鳩町)三重塔を再建。
- 薬師寺金堂、西塔などを再建。
- 道明寺天満宮の復元修羅を制作。
- 1月 - 時事文化章受章 7月文化財技術保存者に指定
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- 5月25日 - 勲四等瑞宝章受章
- 5月29日 - 日本建築学会賞受賞
- 5月30日 - 共著「法隆寺」でサンケイ児童文学賞受賞
著書
- 『法隆寺を支えた木』(共著・小原二郎、特別寄稿尾崎謙)(NHKブックス)
- 『木に学べ 法隆寺・薬師寺の美』(小学館)
- 『法隆寺 世界最古の木造建築』(共著・宮上茂隆、絵・穂積和夫)(草思社)
- 『宮大工棟梁・西岡常一「口伝」の重み』
- 『木のいのち木のこころ』天・地・人(共著・小川三夫、塩野米松)(草思社)
- 『斑鳩の匠宮大工三代』(共著・青山茂)(徳間書店)
- 『蘇る薬師寺西塔』(草思社)
- 『木のこころ仏のこころ』(共著 松久朋琳・青山茂)(春秋社)
脚注
テレビ番組
- 『プロジェクトX』(日本放送協会)
- 「そして、風が吹いた 幻の金堂 ゼロからの挑戦」(第25回 2000年10月17日放送)
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- 西岡常一を含む記事が 1 件見つかりました ( 1 - 1 件目を表示 )(2月3日 10時06分)「週刊人物大辞典」コーナーで17年前 に86歳で亡くなった宮大工・西岡常一さんを取り上げた。法隆寺の改修や薬師寺の再興にかけた生き様がドキュメンタリー映画になって明日4日(2012年2月)か...[詳細]
- 「最後の宮大工」の生き様、映画に 4日から上映 奈良(2月3日 0時54分)宮大工棟梁(とうりょう)の故・西岡常一さん(1908~95)の仕事を追った記録映画「鬼に訊(き)け宮大工 西岡常一の遺言」(山崎佑次監督、88分)が4日から、奈良県大和郡山市下三橋町の「シネマサンシャイン大和郡山」で公開される。「[詳細]
- 伝説の宮大工の言葉が現代人の心をとらえる理由とは?(1月30日 12時41分)法隆寺や薬師寺の復興に生涯を捧げた宮大工・西岡常一氏の遺した言葉も、一見すると建築や木材について語られた言葉でありながら、それらと無縁の人間にも様々なヒントを与えてくれる。2月4日(土)より公開される映画『鬼に訊け 宮大工 西岡常一の遺言 ...[詳細]
- 最後の宮大工「法隆寺の鬼」が残した至言―ツイッターで大人気(2月3日 14時02分)「週刊人物大辞典」コーナーで17年前 に86歳で亡くなった宮大工・西岡常一さんを取り上げた。法隆寺の改修や薬師寺の再興にかけた生き様がドキュメンタリー映画になって明日4日(2012年2月)から公開されるという。 「最後の宮大工」「法隆寺の鬼」と ...[詳細]
- スポンサーリンク 詳細(2月8日 1時03分)妻子は県内に避難したが、 福島県内に残って仕事を続ける夫のための 就職相談会 ... 今夜、宮大工の故西岡常一さんの映画を見てきました。 改めて仕事に向き合う心構えを見た思いです。 技術を受け継ぎ伝えていくことのすごさ、大変さ、大事さを感じました。[詳細]
- 上映中の映画館(2月4日 22時00分)1990年5月。宮大工の棟梁・西岡常一は、薬師寺木工作業場にいた。癌に侵されながらも、経験と技術、研ぎ澄まされた感覚を最後の力を振り絞り若い人たちに言葉で授けようとしていた。かつて鬼と称せられた彼は、法隆寺の昭和大修復、法輪寺三重塔など ...[詳細]
- 2回連続!『キツツキと雨』公開記念インタビュー 役所広司編(2月8日 17時59分)人里はなれた山村に暮らす木こりの男と、そこへ映画の撮影にやってきた映画監督のふれあいを描く、やさしくおかしくてホロリとさせるハートフルなヒューマン・ドラマ『キツツキと雨』。『南極料理人』から2年、沖田修一監督待望の新作にて、妻に ...[詳細]
- 銀幕閑話:第383回 「イエロー・ケーキ クリーンな ...(1月27日 15時22分)脱原発に向けた映画が続々と公開されているが、「イエロー・ケーキクリーンなエネルギーという嘘」は、原発の入り口を問うドキュメンタリー作品。昨年10月、ヨアヒム・チルナー監督が来日した折にインタビューした。 タイトルに使われている ...[詳細]
- アカデミー賞ノミネート、ルーニー・マーラ来日『ドラゴン・タ ...(2月1日 10時58分)全世界で6500万部を売り上げた大ヒットミステリー小説を『ソーシャル・ネットワーク』のデヴィッド・フィンチャー監督が映画化した大注目作、『ドラゴン・タトゥーの女』。こちらの公開に先駆けて1月31日(火)に行われた記者会見に、2年ぶり3度目の ...[詳細]
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