長野県安曇野市(旧・安曇郡東穂高村)生まれの明治期の彫刻家で号を碌山と称しました。絵画を志して渡米しますが、1903年に渡仏した際に見たロダンの「考える人」に感動し、彫刻家に転向することを決意しました。
1910年、同郷の先輩でもあり、また彼の良き理解者でもあった相馬愛蔵夫妻が経営する新宿中村屋で喀血し、32歳の若さで没しました。
短い制作期間でしたが、ロダンの影響のもとに、再現描写を超えた生命感あふれる作品を日本の彫刻界に残しました。
![]() |
荻原守衛 |
|---|
[荻原守衛 人物情報]
Wikipediaの人物情報
荻原碌山(おぎわら ろくざん、1879年(明治12年)12月1日 - 1910年(明治43年)4月22日)は、明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である。
年譜
1879年(明治12年)長野県安曇野市(旧南安曇郡東穂高村)に生まれ、5人兄弟の末っ子だった碌山は、幼い頃から病弱で大好きな読書をしたり、絵を描き過ごした。碌山が17歳の時、運命的な出会いが訪れる。通りがかった女性から声をかけられた。田舎で珍しい白いパラソルをさし、大きな黒い瞳が印象的な美しい女性であった。その人の名は相馬黒光。尊敬する郷里の先輩、相馬愛蔵の新妻で3歳年上の女性であった。東京の女学校で学んだ黒光は、文学や芸術を愛する才気あふれる女性。碌山はそんな黒光から、あらゆる知識の芸術を授けられ、未知なる世界の扉を開いていく。やがて芸術への情熱に目覚めた碌山は洋画家になろうと決意する。
本格的な勉強をしようと、1901年 (明治34年) アメリカ合衆国のニューヨークに渡り絵画を学ぶ。アルバイトをしながら、アカデミーで西洋画の基礎を学び、来る日も来る日もデッサンを続けた。人間を描くことに夢中になった彼は、目に見えない骨格や筋肉の動きまで徹底的に研究。つぶさに肉体を写し取ろうとした。しかし、碌山はまだ本当に描くべきものを見出せずにいた。そんな修行の日々に1903年 (明治36年) アメリカからフランスのパリに訪れた碌山は衝撃的な作品に出会う。1904年 (明治37年)に後に近代彫刻の父といわれる オーギュスト・ロダンの「考える人」を見て彫刻を志す。碌山は「人間を描くとはただその姿を写し取ることではなく、魂そのものを描くことなのだ」と気づかされる。
アメリカに戻り、1906年 (明治39年) アメリカから再度フランスに渡り、アカデミー・ジュリアンの彫刻部教室に入学し、彫刻家になろうと決意する。学内のコンペでグランプリを獲得するほどの実力を身につけていった。1907年 (明治40年) フランスでロダンに面会。「女の胴」「坑夫」などの彫刻を制作。年末フランスを離れ、イタリア、ギリシャ、エジプトを経て1908年帰国。
そして東京新宿にアトリエを構え、彫刻家として活動を始める。そんな碌山に運命の再会が待っていた。憧れの女性、黒光である。黒光はその頃、夫の中村屋と上京し、新宿にパン屋を開業していた。碌山は黒光の傍で作品を作る喜びに心躍らされた。相馬夫妻はそんな碌山を夕食に招くなど、家族ぐるみのつき合いが始まった。黒光の夫、愛蔵は仕事で家を空けることも多く、留守の時には碌山が父親代わりとなって子供たちと遊んだ。黒光は碌山を頼りにし、碌山はいつしか彼女に強い恋心を抱くようになった。しかし、それは決して許されない恋であった。ある日のこと、碌山は黒光から悩みを打ち明けられる。夫の愛蔵が浮気をしてると告白された。愛する女性の苦しみを知り、碌山の気持ちはもはや抑えようにもない炎となって燃え始めた。碌山は当時、パリにいた友人に高村光太郎宛ての手紙で「我 心に病を得て甚だ重し」と苦しい胸のうちを明かしている。
行き場ない思いを叩きつけるかのように碌山はひとつの作品を作り上げる。1908年 (明治41年) 第二回文展で「文覚」が入選。人妻に恋した文覚は、思い余ってその夫を殺害しようとした。ところが誤って愛する人妻を殺してしまった。大きく目を見開き、虚空をにらみつけた文覚。力強くガッシリとした太い腕。そこにはあふれる激情を押さえ込もうとした表現されているかのようであった。碌山は愛する人を殺め、もだえ苦しむ文覚の姿に抑えがたい自らの恋の衝動とそれを戒める激しい葛藤を重ね合わせた。一方、黒光は碌山の気持ちを知りながらも、不倫を続ける夫の憎しみにもがき苦しんでいた。碌山は黒光に「なぜ別れないんだ ? 」と迫った。しかし、その時黒光は新しい命を宿していた。母として妻として守るべきものがあった。
出口のない葛藤のなかで碌山は作品を生み出していく。体を地面に伏せ、顔をうずめた女性「デスペア」1909年 (明治42年)。苦しみながらも現実を生きていかなければならない。そこには逃れられない黒光の絶望感が込められていた。同年、 第三回文展「北条虎吉像」「労働者」を出品。1910年 (明治43年) 追い討ちをかけるように不幸な出来事が起こる。黒光の次男の体調が悪くなり、病に伏せる日が多くなった。次男を抱える黒光を碌山は黒光を来る日も来る日も描き続け、「母と病める子」を世に出した。消えかかる幼い命を必死に抱きとめようとする黒光。しかし、母の願いもむなしく次男はこの世を去った。悲しみのなか、気丈に振舞う黒光に碌山は運命に抗う人間の強さを見出してゆく。そして思いのたけをぶつけるように、同年「女」を制作。何かに捕らわれているかのようにしっかりと後ろで結ばれた両手。跪(ひざまず)きながらも立ち上がろうとし、天に顔を向けている。信州大学名誉教授の仁科惇はこの「女」を「矛盾しているかもしれないが、碌山は希望と絶望が融合した作品である。手を後ろに組んで跪いて立ち上がっているのは一種の絶望感の現れでしょうし、そうは言っても顔は天井に向けられ、この構成全体から、希望といったものが込められている。そういう葛藤を『相克の中の美』が宿っているのではないか。自分の思いを作品に昇華させた」と評している。黒光はこの像を見て「胸はしめつけられて呼吸は止まり・・・自分を支えて立っていることが、出来ませんでした」と語っている。
同年、4月22日急逝。第四回文展に「女」が出品され、文部省により買上げ。
主な作品
- 「坑夫」
- 「文覚」(1908)
- 「北条虎吉像」(石膏原型が重要文化財指定)
- 「女」(石膏原型が重要文化財指定)
収蔵美術館
- 財団法人碌山美術館
- 東京国立博物館 (「女」「北条虎吉像」)
- 東京国立近代美術館 (「女」)
- など
その他エピソード
- 臼井吉見の『安曇野』は、碌山、相馬夫妻など安曇地方ゆかりの人物の群像を描いた歴史小説である。
- 2007年2月3日にTBSテレビ系列で「碌山の恋」というタイトルのドラマが放映された。碌山役は平山広行、相馬黒光役は水野美紀。制作は信越放送。
演じた俳優
- 平山広行‐『碌山の恋』(2007年 TBSテレビ)
外部リンク
- 日本美学研究所 彫刻家・荻原守衛(碌山)日本人としてロダンから直接指導を受けた最初の人です。 『坑夫』は、ロダンとの初面会を果たした後、フランス滞在時に制作されました。 荻原守衛(碌山)『坑夫』 画家を志していた頃、人体デッサンに明け暮れていた碌山。 その技術力と造形理解が「量塊(マッス)」 ...
- 「荻原守衛と相馬黒光」 - 悠々美術館通信 - Yahoo!ジオシティーズ荻原守衛」 1879年、荻原守衛は、長野県安曇野市(旧南安曇郡東穂高村)に生まれた。 幼い頃から病弱であったため読書や絵を描くことを好んだ。 同郷に相馬愛蔵がいて荻原守衛は相馬愛蔵がつくった東穂高禁酒会に16歳で入会。
- 相馬黒光と荻原守衛 | yutaka aihara's note自分が塑造を学び始めた頃、明治を生きた彫刻家荻原守衛に心酔していました。荻原守衛の代表作「女」は日本美術史に残る名作ですが、その背景を知りたくて当時は「荻原守衛」(林文雄著 新日本出版社)や「彫刻真髄」(荻原守衛著 中央 ...
- 日本観光ミシュラン : 碌山美術館30歳で夭折した彫刻家・荻原守衛(号:碌山)の作品を収蔵する美術館。教会風の建物に外光を ... 考える人」を見て彫刻を志した荻原守衛の作品群は、月並みな表現ながら『日本のロダン』と呼ぶにふさわしい。モチーフと造形が不可分で、 ...
- ホテルから穂高駅まで雪路散歩。 - 横濱路地裏研究会この美術館は日本近代彫刻の扉を開いた荻原守衛(碌山)の作品を公開するために、生地・安曇野に昭和33年(1958年)に誕生しました。残念ながら、また次回のお楽しみということで~。それにしても、安曇野の皆さんの話によると、この地が ...
- 碌山美術館にあるベンチが、すっごくアンニュイな感じ・・・ : 長野ウラドオリ荻原守衛(碌山)の作品を残した、安曇野が誇る名誉ある美術館、碌山美術館です。安曇野に行ったら、絶対!と言われるくらい有名な美術館で、重要文化財にもなっている「女」も展示されています。建物の作りにも凝っていて、レトロな昭和 ...
- 碌山美術館秋景 風を待ちながら・・・/ウェブリブログ荻原守衛は 「愛は芸術なり、相克は美なり(Love is art ,struggle is beauty.) 」という言葉を残している。 碌山館に展示された「女」「デスペア(絶望)」「文覚」などの作品群と生涯をたどる展示物を見てゆくうちに、30年という短い生涯の燃焼度の ...
- ローソン2月パンフ(住宅見学会、荻原守衛展ほか) | 民間連携で長野県を ...ローソン■2月パンフ(住宅見学会、荻原守衛展ほか). 2011年02月08日. カテゴリー:☆ローソン. 2月、ローソン各店には次のパンフレット等が設置されています。どうぞ、ご覧ください。 (都合により設置されていない店舗もありますので、御了承ください。) ...
- 「没後100年荻原碌山展」開幕です!! | 信州ミュージアムナビ〈長野県 ...2月5日(土)「没後100年 荻原守衛展 −ロダンの情熱を継いだ人−」が開幕しました。 初日のセレモニーは、和田恭良長野県副知事をはじめ、展覧会開催にご協力いただいた碌山美術館の所館長様ほか、40名を超えるご来賓の皆さまにご参列 ...
- 宇部市 » 愛に生きた彫刻家 荻原守衛 -“女”の表現とその技法ー 記念 ...3月26日(土)午後2時からときわ湖水ホールにおいて、没後百年愛に生きた彫刻家 荻原守衛 -“女”の表現とその技法-展 記念講演会を開催します。 当日は、碌山美術館学芸員の武井敏さんに「“女”について」というタイトルで、. “女”に関する ...
ニュースはありません。
人名辞典ではこのページで使用している画像の著作権は消失しているものと認識し ているか、許可を得て掲載しております。 万一、画像が許可を得て掲載されていない場合は速やかに画像を外すか、正式な許可を得る手続きをいたしますのでご連絡下さい。

