ニルス・ゲーゼ

ニルス・ゲーゼ

ゲーゼ(別名:ガーゼ)

Gade, Niels Wilhelm

1817年2月22日 – 1890年12月21日 (73歳没)

デンマーク 作曲家

ニルス・ゲーゼの人物情報

デンマークの作曲家・指揮者。コペンハーゲンの楽器職人の家に生まれた。1840年、序曲「オシアンの余韻」で音楽協会の作曲コンクールに優勝。交響曲第1番がメンデルスゾーンの指揮でライプツィヒで初演されると同地に移り、ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者を務めた。1848年に帰国してからは、音楽協会の指揮者、1867年に創設に加わった音楽院の院長として、40年あまりデンマークの音楽界を率いた。

同時代の人物

ゲーゼが生まれた1817年の11月には、ローマ史家のモムゼンが生まれている。同じコペンハーゲンの哲学者キェルケゴールと、オペラのヴァーグナー、ヴェルディは4歳上の1813年生まれ。日本では、適塾の緒方洪庵が7歳上である。

ゲーゼが73歳で亡くなった1890年には、11月にフランクが、ゲーゼの5日後にトロイア遺跡のシュリーマンが世を去った。

年齢で見る生涯

  • 23歳(1840年) 「オシアンの余韻」で優勝。審査員にはドイツのシュポーアもいた
  • 26歳(1843年3月2日) 交響曲第1番がライプツィヒで初演される。9月に同地へ移る
  • 27歳(1844年) ゲヴァントハウスでメンデルスゾーンと並ぶ指揮者になる
  • 30歳(1847年11月) メンデルスゾーンが急死。残りのシーズンを一人で率いる
  • 31歳(1848年) デンマークとドイツの戦争が始まり、6月にはライプツィヒの市民軍に召集される。シーズン後に帰国
  • 35歳(1852年) 作曲家ハートマンの娘ソフィーと結婚。妻は3年後、双子を産んで間もなく亡くなる
  • 49〜50歳(1867年) 音楽院の創設に加わり、終生院長を務める
  • 73歳(1890年12月21日) 前触れとなる病気もなく急死

名を上げたのは26歳から31歳までのライプツィヒ時代だった。帰国の理由は戦争よりも、ゲヴァントハウスの理事会の内紛が大きかったとする見方もある。

人物のつながり

  • メンデルスゾーン:8歳上。無名の若者の交響曲を初演した。シューマンのメモによれば、ゲーゼを「しゃべっていても黙っていても好ましい男」と評した。
  • シューマン:6歳上の親友。日記に「考えがこれほど合う相手はめったにいない」と書き、遺言では遺作の扱いの判断をゲーゼに託した。
  • アンデルセン:12歳上。1842年、シューマンが付けたアンデルセンの詩の歌曲を、ゲーゼが詩人本人に歌って聞かせた。
  • ハートマン:最初の妻の父で作曲家。音楽院では学生たちの目に「二人の大長老」と映った。
  • グリーグ:1863年、20歳前後のグリーグに交響曲を書くよう勧めた。翌年完成したグリーグ唯一の交響曲は、のちに本人が「演奏してはならない」と書き込んで封印した。

エピソード

楽譜は間違いだらけ、それでも「これほど美しい印象はない」(25〜26歳・1842〜43年)

1842年、ゲーゼは交響曲第1番の演奏を音楽協会に頼んだ。ところが作曲家ヴァイセが亡くなり、予定の演奏会は追悼演奏会に変わる。音楽学者ルンによれば、すぐには演奏できないと言われたゲーゼは腹を立て、「ドアを叩きつけて」楽譜をライプツィヒのメンデルスゾーンに送った。1843年1月13日、メンデルスゾーンは最初のリハーサルの翌日に返事を書いている。「長いあいだ、これほど生き生きとした美しい印象を受けた曲はありません」。ただしパート譜は誤りだらけで、すべて見直させる必要があるとも書き添えた。初演はそれから7週間後の3月2日だった。

名前がヴァイオリンの4本の開放弦(26歳・1844年)

1844年1月1日、シューマンは自分の音楽雑誌の巻頭でゲーゼを紹介し、彼の名前の4文字は不思議なことにヴァイオリンの4本の開放弦(G・D・A・E)の音名だと指摘した。同じ月の初め、パリへ発とうとするゲーゼのために、シューマンはライプツィヒの酒場「カフェーバウム」で記念帳に別れの曲を書いた。歌詞は「また会おう、また会おう」で、低音を順に読むと「G-A-D-E A-D-E(ゲーゼ、さらば)」となる。1848年の『子供のためのアルバム』の「北国の歌(ゲーゼへの挨拶)」も、この4音から始まる。ゲーゼ自身も1851年、ト音記号とハ音記号を使い、前からも後ろからもG-A-D-Eと読める楽譜で署名している。

時計ばかり見る院長と、靴の泥を見張る玄関(66〜69歳・1884〜86年)

晩年のゲーゼは音楽院を事実上一人で率いた。礼儀にうるさく、学生を玄関で会釈して迎えては、靴の泥をマットで拭うかどうかを見ていたという。音楽史の授業を受けたカール・ニールセンの回想によれば、ゲーゼはラファエロやカール大帝、詩人エーレンシュレーアーの話をあちこちに飛ばしながら、しきりに時計を見ていた。それでも恩人だった。1890年、国外へ旅立つ前には推薦状をもらい、フレーデンスボーのゲーゼのもとで丸一日を過ごした。同じ年の12月、旅先で訃報を受けたニールセンは、日記に「空っぽで真っ暗だ! ひどい!」と書いた。

出典・参考資料

  • Dansk Biografisk Leksikon「Niels W. Gade」(Niels Møller Jensen、biografiskleksikon.lex.dk)、Den Store Danske「Niels W. Gade」(lex.dk)、Dansk Biografisk Leksikon「Carl Nielsen」(biografiskleksikon.lex.dk)、Bergen Offentlige Bibliotek「Griegs forbudte symfoni」(bergenbibliotek.no)
  • Danmarkshistorien(lex.dk)「B.S. Ingemann: 'Paa Sjølunds fagre sletter' 1816, med musik af Niels W. Gade」(ヴァイセの死と追悼演奏会)
  • Sven Lunn「Niels W. Gade 150 år」(Dansk Musik Tidsskrift 42巻1号、1967年、seismograf.org)(音楽協会との行き違い、1848年の辞任の理由、音楽院での様子、ニールセンの回想、死去)
  • メンデルスゾーンからゲーゼへの書簡(1843年1月13日、ライプツィヒ)、Dagmar Gade編『Niels W. Gade. Optegnelser og Breve』31〜32頁(Det Kgl. Bibliotek、tekster.kb.dk)
  • Robert-Schumann-Haus Zwickau 特別展「Klänge aus Dänemark – Der Schumannfreund Niels Wilhelm Gade」展示目録(Thomas Synofzik、2017年)(雑誌記事、記念帳の曲、北国の歌、ゲーゼ自身の暗号、シューマンの日記・遺言、メンデルスゾーンの評、アンデルセンの礼状)
  • Carl Nielsen Udgaven「Carl Nielsen biografi」(carlnielsen.dk)(推薦状、フレーデンスボーでの一日、日記)