ロバート・ウォルポール
ウォルポール
Walpole, Robert
1676年8月26日 – 1745年3月18日 (68歳没)
ロバート・ウォルポールの人物情報
イギリスの政治家である。ノーフォークの地主の家に生まれ、24歳で下院議員となった。ホイッグ党の財政家として頭角を現したが、35歳のときには汚職の罪で半年近くロンドン塔に入れられている。南海泡沫事件の後始末を任されて1721年に第一大蔵卿となり、以後20年余り政権を握った。国王の信任と下院の多数派の両方を押さえて国政を動かしたことから、イギリス最初の首相とみなされている。戦争を避け、財政の安定を重んじた。1742年に下院の支持を失って辞任し、オーフォード伯に叙された。
同時代の人物
1678年生まれの作曲家ヴィヴァルディと清の雍正帝は、ウォルポールの2歳下にあたる。雍正帝の在位(1722〜35年)は、ウォルポール政権とほぼ重なる。4歳上にはロシアのピョートル1世がいる。
日本では、禅僧で画家の白隠慧鶴が9歳下にあたる。近松門左衛門が晩年を迎えた享保年間には、幕府が心中物の上演を一時禁じた。ウォルポールが芝居の検閲制度を作る十数年前のことで、東西でほぼ同じころに為政者が芝居の取り締まりに乗り出していたことになる。ウォルポールが亡くなった1745年には、風刺作家のスウィフトも世を去った。
年齢で見る生涯
汚職の罪でロンドン塔を出てから9年足らずで、国政の頂点に立ったことになる。
人物のつながり
エピソード
手紙の束から真っ先に猟犬係の手紙を開けた(44〜65歳・1721〜42年)
ウォルポールは大の狩猟好きだった。郷里ホートンではウサギ狩り用の猟犬ハリアを群れで飼い、届いた手紙はまず猟犬係からのものを開けたと伝えられる。ロンドン近郊のリッチモンド・パークにもビーグル犬を置き、週の半ばに1日と土曜日に狩りをした。1727年に息子が公園の管理官に任じられると、週末を園内の館で過ごすのが習いになる。英国人名辞典(DNB)は、これを下院が土曜に開かれなくなったことの起源としている。ただし地元の資料も「といわれる」と書いており、言い伝えの域を出ない。
芝居『黄金の尻』を書いたのは誰か(60歳・1737年)
1737年春、30歳の劇作家フィールディングは風刺劇『1736年の歴史年鑑』で政権を当てこすり、ロンドンの観客を沸かせていた。そのころウォルポールは、劇場支配人ジファードから届けられたとされる新作の原稿『黄金の尻』を示し、国王と議会に芝居の取り締まりを説いた。6月に成立した劇場検閲法で、新作は上演前に宮内長官の許可が要るようになり、芝居を打てる劇場も絞られた。フィールディングの劇作家としての道はここで断たれる。ところが『黄金の尻』は上演も出版もされず、原稿も残っていない。当時から、ウォルポールが自分で書かせた「おとり」ではないかと疑われ、近年の研究者にもこの見方をとる人が増えている。検閲制度は1968年まで続いた。
名画200点余り、ロシアへ(没後34年・1779年)
ウォルポールはホートン・ホールに当代屈指の絵画コレクションを築いたが、残された借金も重かった。1779年、孫の第3代オーフォード伯ジョージは、コレクションの大半をロシアのエカチェリーナ2世に売り渡す。息子のホレス・ウォルポールは、売るならロシアの王冠ではなく英国の王冠にしてほしかったと嘆いた。英紙の記事によれば、絵を積んだフリゲート艦はオランダ沖で難破し、別の船に積み替えて運ばれた。女帝は翌年、「ウォルポールたちは少々散らかったまま、私の画廊で幸せに冬を越しました」と書き送っている。絵の多くはいまもエルミタージュ美術館にある。2013年には数十点が一時里帰りし、ホートン・ホールのかつての位置に234年ぶりに掛けられた。
出典・参考資料