リチャード1世

リチャード1世

リチャード

Richard I

1157年9月8日 – 1199年4月6日 (41歳没)

イギリス 王侯

リチャード1世の人物情報

プランタジネット朝のイングランド王(在位1189〜99年)。ヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌの三男としてオックスフォードで生まれたが、14歳で母の領地アキテーヌの公位に就き、話した言葉もフランス語とオック語だった。父と争った末に即位すると、すぐ第3回十字軍に出てサラディンと戦った。帰国の途中でオーストリア公に捕らえられ、莫大な身代金で解放されている。1199年、反乱を起こした子爵の城を攻める最中に弩の矢を受けて亡くなった。在位約10年のうちイングランドにいたのは半年ほどとされる。

同時代の人物

12世紀の人物はDBに少ないが、日本では鴨長明が2歳年上でほぼ同世代にあたる。歌人の西行は、リチャードが十字軍に出る数か月前の1190年2月(和暦)に亡くなった。リチャードがヤッファで病に伏していた1192年8月には、源頼朝が征夷大将軍に任じられている。

意外な組み合わせでは、アンダルス出身の哲学者イブン・ルシュドと、南宋の朱熹がいる。1195年、イブン・ルシュドはコルドバで教えを断罪されて追放され、朱熹の学問は同じ年に始まった「慶元の党禁」で「偽学」とされた。東西の大学者が、同じころ弾圧を受けていたことになる。

年齢で見る生涯

日付は当時のユリウス暦による。DBの生没日もユリウス暦である。

  • 14歳(1172年6月) アキテーヌ公となる
  • 31歳(1189年9月3日) 父の死を受けてウェストミンスター寺院で戴冠
  • 33歳(1191年7月12日) アッコンが降伏
  • 33歳(1191年8月20日) 捕虜交換の交渉が期限を過ぎると、イスラーム教徒の捕虜を城外で殺させた。十字軍側の記録では約2,700人、サラディン側のイブン・シャッダードは3,000人以上と書く
  • 34歳(1192年9月2日) サラディンと3年間の休戦を結ぶ
  • 35歳(1192年12月) 帰国途中、ウィーン近くで捕らえられる
  • 36歳(1194年2月4日) 解放される
  • 41歳(1199年4月6日) 3月26日に肩に受けた矢傷がもとで死去

33歳から36歳までの3年半近くを、王は十字軍と捕囚で国の外で過ごしたことになる。

人物のつながり

  • サラディン:第3回十字軍の敵将。休戦の半年後、リチャードが捕囚の身にあった1193年3月に亡くなった。
  • フィリップ2世:フランス王。父との戦いでは味方だったが、十字軍から先に帰国し、リチャードの捕囚中にその領地を攻めた。
  • ハインリヒ6世:神聖ローマ皇帝。1193年3月にオーストリア公からリチャードの身柄を引き取り、身代金を求めた。
  • ベルトラン・ド・ボルン:リムーザンの領主でトルバドゥール。即位直後の王に宛てた歌で、王を「わがオク・エ・ノ(はい・いいえ)」と呼んだ。口数の少なさを指すのか、判断のぶれなさをほめたのか、意味ははっきりしない。

エピソード

果物と雪の使者は、偵察でもあった(34歳・1192年8月)

ヤッファの戦いの後、リチャードは重い病に倒れた。サラディンの側近イブン・シャッダードによれば、病の間リチャードは梨と桃をしきりに欲しがり、何度も使者を送って果物と雪を求めた。サラディンは毎回これに応じたが、使者の行き来から情報を得るためでもあった。こうしてヤッファの騎士が200〜300人ほどしかいないこと、フランス勢が帰国を決めていることをつかみ、8月27日にはラムラへ兵を進めている。

派手な金遣いで正体がばれた変装旅(35歳・1192年12月)

帰国の途中、リチャードは長いひげと長髪に土地の衣服で巡礼者を装った。しかし年代記作者ロジャー・オブ・ハウデンによれば、土地に似合わぬ派手な金遣いで怪しまれたという。王は家来一人を連れて夜通し馬を走らせ、ウィーン近くの村に宿を取る。ところが食べ物を買いに出た家来が両替の際にオーストリア公の家臣に見とがめられ、王は眠っているところを捕らえられた。皇帝ハインリヒ6世はさっそくフランス王に手紙を書き、この知らせは「大きな喜びをもたらすだろう」と伝えている。

牢から送った歌「囚われ人は誰も」(35歳・1193年春)

ドイツで囚われていたリチャードは、1編の歌を作った。囚われた者は思いをうまく語れないが、歌にすれば慰めになると歌い出し、イングランド、ノルマンディー、ポワトゥー、ガスコーニュの臣下に、身代金が集まらずに二冬も囚われたままなら彼らの恥だと訴える。結びでは異母姉のシャンパーニュ伯夫人マリーに呼びかけた。歌はフランス語とオック語の写本に残り、オック語版では結びが恋歌風に書き換えられている。

出典・参考資料

  • Wikipedia(en)「Richard I of England」「Siege of Acre (1189–1191)」「Massacre at Ayyadieh」「Battle of Jaffa (1192)」「Saladin」「Averroes」、Wikipedia「リチャード1世 (イングランド王)」「西行」「鴨長明」、nippon.com「征夷大将軍」関連記事(頼朝の任命は建久3年7月12日=1192年8月28日)、维基百科「朱熹」「庆元党禁」
  • Behâ ed-Dîn『Saladin, or What Befell Sultan Yûsuf』(C. W. Wilson 編、Palestine Pilgrims' Text Society 第13巻、1897年)、263頁(アッコン攻囲中の果物と雪)、273頁(捕虜の殺害)、378〜379頁(ヤッファ後の病と果物・雪)(archive.org: libraryofpalesti0013pale)
  • Roger de Hoveden『Annals』(H. T. Riley 英訳、第2巻、1853年)、269〜270頁(変装と捕縛)、278〜279頁(ハインリヒ6世がフィリップ2世に宛てた書簡)(archive.org: annalsofrogerde02hove)
  • Wien Geschichte Wiki「Richard I. Löwenherz」(エルトベルクでの捕縛、指輪と金貨の伝承、身代金の使い道)
  • University of Warwick「The French of Outremer」RS 1891「Ja nus hons pris」(本文・英訳・注、成立を1193年春とするGillinghamの説)
  • Charmaine Lee「The Background to 'Ja nus homs pris'」(2018年、iris.unisa.it、写本の数)、epistolae(Columbia/Siena)letter 157(「contesse suer」はマリー・ド・シャンパーニュ)、Ruth Harvey(2022年、lt.unina.it)
  • Rialto「Bertran de Born, 80.3 Anc no·s poc far maior anta」(Gouiran 校訂。成立を1189年9月の戴冠後〜1190年初めとする注)