マルセル・プルースト
プルースト
Proust, Marcel
1871年7月10日 – 1922年11月18日 (51歳没)
マルセル・プルーストの人物情報
フランスの小説家である。パリ郊外のオートゥイユに生まれ、9歳で喘息の発作を起こして以来、生涯この持病に苦しんだ。若いころは社交界に出入りし、短編集『楽しみと日々』やラスキンの翻訳を出したが、作家としての評価は低かった。母の死後、パリの自宅にこもって長編『失われた時を求めて』に取り組む。第1篇『スワン家のほうへ』は出版社に断られ、1913年に自費で刊行された。第2篇『花咲く乙女たちのかげに』で1919年にゴンクール賞を受け、ようやく名声を得る。残りの原稿に手を入れ続けるなか、1922年に51歳で亡くなった。最後の3篇は死後の刊行である。
同時代の人物
1871年生まれの同い年には、詩人のポール・ヴァレリーがいる。2歳上には、のちに原稿を断って後悔するアンドレ・ジッドがいる(「人物のつながり」参照)。
日本では国木田独歩がプルーストの1か月半後、1871年8月に生まれた。独歩は1908年、36歳で世を去った。プルーストが亡くなった1922年には、7月に森鴎外も60歳で世を去った。鴎外の命日は、プルーストの51歳の誕生日の前日である。
年齢で見る生涯
最初の本から、名の知られる作家になるまでに23年かかった。ゴンクール賞から亡くなるまでは3年しかなく、そのあいだにも残りの巻を書き直し続けていた。
人物のつながり
エピソード
雨の森で、ピストルの決闘(25歳・1897年)
1897年2月初め、批評家ジャン・ロランが新聞に『楽しみと日々』を酷評する記事を変名で書いた。次の本の序文はアルフォンス・ドーデだろう、息子リュシアンの頼みは断れまい、という当てこすりで、プルーストとリュシアンの仲をほのめかしていた。プルーストは決闘を申し込み、2月6日、雨のムードンの森で25歩の距離からピストルを撃ち合った。弾は2発とも外れ、双方無傷で決着した。病弱な文学青年の、生涯ただ一度の決闘である。
「ゴンクール賞」の帯に小さく「4票」(48歳・1919年)
1919年12月10日のゴンクール賞は、10票中6票で『花咲く乙女たちのかげに』に決まった。残る4票はドルジュレスの戦争小説『木の十字架』に入った。終戦の翌年で、新聞には戦場を描いた若い作家を推す声が強く、左派の「ユマニテ」紙は「老人に道を譲れ!」と皮肉った。ドルジュレスの版元は宣伝に「木の十字架 ゴンクール賞」と大書し、下に小さく「10票中4票」と添える。この「前代未聞の策略」(批評家ブーランジェの手紙)は、2,000フランの損害賠償で決着した。
ジョイスとの一度きりの対面(50歳・1922年)
1922年5月18日、ストラヴィンスキーのバレエ『狐』初演の夜、英国の作家シフ夫妻がパリのホテルで夜食会を開いた。ピカソ(DB名「パブロ・ピカソ」)やジョイスもいた席に、プルーストは午前2時過ぎ、毛皮をまとって現れたという。だが二大小説家の話は弾まない。ジョイスの後年の話では「彼が某公爵をご存じかと聞き、私はいいえと答えた。会話はそれだけ」とも、「彼は公爵夫人の話ばかり、私はその小間使いに関心があった」とも伝えられる。プルーストは半年後に亡くなった。
出典・参考資料