ピエール・ダイイ
ダイイ
d'Ailly, Pierre
1350年 – 1420年8月9日 (約70歳没)
ピエール・ダイイの人物情報
フランスの神学者、聖職者、地理学者。1350年(1351年説もある)、コンピエーニュの裕福な市民の家に生まれた。パリのナヴァール学寮で学び、1389年にパリ大学総長となり、国王シャルル6世の聴罪司祭も務めた。ル・ピュイ、カンブレーの司教を経て1411年に枢機卿となる。教会大分裂(大シスマ)の解決に力を注ぎ、コンスタンツ公会議では指導的な神学者の一人だった。1410年の『世界像(イマゴ・ムンディ)』は、のちにコロンブスが熟読し、西回り航海の構想に影響を与えた。占星術や暦の改革についての著作もある。1420年、アヴィニョンで死去。
同時代の人物
ダイイが生まれた1350年は、DBで『徒然草』の吉田兼好が亡くなった年にあたる(兼好の没年には諸説ある)。逆に、ダイイが亡くなった1420年には、日本で水墨画の雪舟が生まれた。 イギリスの詩人ジェフリー・チョーサーは7歳ほど年上で、二人とも英仏の百年戦争の時代を生きた。中国では永楽帝が10歳年下にあたる。ダイイが『世界像』で机上の世界地理をまとめた1410年ごろ、永楽帝の命を受けた鄭和の大艦隊は、すでに実際にインド洋を往き来していた。
年齢で見る生涯
1350年生まれとして計算した。誕生日が不明なので幅をもたせ、1351年説なら1歳若くなる。
枢機卿になったのは60歳前後で、その後の10年近くを、教会分裂の収拾に費やしている。
人物のつながり
エピソード
「反キリストは1789年、世界がそれまで続けば」(63〜64歳・1414年)
ダイイは、枢機卿でありながら占星術を本気で研究した。1414年の著作では、土星と木星の大会合や土星の公転の周期を歴史に当てはめ、「土星の公転が10回を数え終えるのは1789年」と計算した。そのころ反キリストが現れるかもしれないが、「世界がそれまで続くならば。それは神のみが知る」とも書いている。米国の研究者スモラーによれば、教会分裂を見て世の終わりは近いと恐れていたダイイは、この計算で終末はまだ先だと納得した。だから公会議で分裂を直す時間はある、と考えたのである。1789年は、くしくもフランス革命の年となった。
「春分はもう3月12日に来ている」――早すぎた改暦案(66〜67歳・1417年3月)
当時のユリウス暦は、実際の季節と少しずつずれていた。ダイイは1411年に改暦案を書き、1411年の春分は本来の3月21日ではなく、すでに3月12日に来ていると指摘している。復活祭の日付は春分をもとに決めるので、暦のずれは教会の問題でもあった。案を教皇ヨハネス23世に出したが、予定された1412年のローマ公会議はほぼ失敗に終わった。1417年3月にコンスタンツ公会議で改めて公に発表したものの、何も決まらなかった。暦がようやく改められるのは、165年後の1582年、グレゴリウス13世の時代である。
コロンブスが約900か所に書き込んだ『世界像』(没後・1480年代〜)
『世界像』は1480年代初めにルーヴァンで印刷された。コロンブスが持っていたその1冊は、いまもセビリアのコロンブス図書館(ビブリオテカ・コロンビーナ)にある。余白の書き込みは898か所と見積もられており、大西洋を渡ってインドに着けるかどうかに関わる箇所が多い。なかには、1488年12月、喜望峰を回ったディアスがリスボンに戻ったことを記した書き込みもある。書き手は「私はそのすべてに居合わせた」と書き添えているが、筆跡が弟のバルトロメのものだとする説もある。
出典・参考資料