白居易

ハクキョイ

Bai Juyi

772年 – 846年 (約74歳没)

中国 詩歌

白居易の人物情報

中国・唐代中期の詩人で、字は楽天、晩年の号は香山居士。800年に進士に及第して官界に入り、社会の矛盾を詠んだ「新楽府」「秦中吟」や、玄宗と楊貴妃の悲恋を歌った「長恨歌」、左遷先の江州で作った「琵琶行」で名声を得た。平易で親しみやすい詩風で、生前から宮廷から庶民、さらに新羅・日本にまで読者を持った。自ら編んだ『白氏文集』は平安時代の日本で最も愛読された漢詩文集となり、『源氏物語』や『枕草子』にも深い影響を与えている。晩年は洛陽で詩と酒と仏教に親しみ、刑部尚書で官を退いた。

同時代の人物

唐の人物で白居易と世代が重なるのは、4歳年上の韓愈である。文章の韓愈、詩の白居易と並び称される二人だが、作風は「難解・剛直」と「平易・流麗」でまるで対照的だった。

一方、白居易が生まれた772年には、「詩仙」李白はすでに10年前に、「詩聖」杜甫もわずか2年前に世を去っている。盛唐の二大詩人と入れ替わるように生まれ、その二人を批評する側に回ったのが白居易だった。

年齢で見る生涯

  • 29歳(800年) 進士に及第
  • 35歳(806年) 「長恨歌」を作る
  • 44歳(815年) 宰相暗殺事件で犯人の追及を急ぐよう上奏し、越権とされて江州司馬に左遷。翌年「琵琶行」を作る
  • 46歳(817年) 廬山の香炉峰のふもとに草堂を建て、「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」と詠む。約180年後、この句をふまえた清少納言の機転が『枕草子』に書き留められる
  • 51歳(822年) 杭州刺史となり、西湖の堤を修築
  • 67歳(838年) 日本では大宰府の官人・藤原岳守が唐の商人の積荷から「元白詩筆」を見つけて仁明天皇に献上し、昇進した(『日本文徳天皇実録』)。白居易存命中のことである
  • 73歳(844年) 私財を投じて洛陽・龍門の難所「八節灘」の岩を取り除き、詩に「七十三翁旦暮の身」と詠む
  • 75歳(846年) 洛陽で死去。前年に『白氏文集』75巻を完成させていた

唐の代表的な詩人の享年(数え)を並べると、孟浩然52、韓愈57、杜甫59、王維61、李白62に対し、白居易は75。群を抜く長命で、そのぶん作品も約3,000首と唐代の詩人で最も多く残った。自作を自分の手で整理し、寺院などに納めて後世に伝えようとしたことも、作品がよく残った理由である。

人物のつながり

  • 元稹:無二の親友で、「元白」と並び称された。左遷の地から交わした詩や手紙が多く残り、文学観を述べた「元九に与うる書」も元稹宛てである。『白氏長慶集』の序文も元稹が書いた。
  • 韓愈:長安で同じ時期に官職にあり、詩を贈り合った。ただし互いの距離感は微妙だった(エピソード参照)。
  • 李白、杜甫:「元九に与うる書」で、李白の才を「人の及ばぬところ」と認めつつ、社会を諷する詩は少ないと評し、杜甫をより高く置いた。一方で李白の墓を訪ねた詩では「驚天動地の文」をもちながら落ちぶれた詩人の運命を嘆いている。
  • 吉田兼好、鴨長明:後世日本の愛読者。兼好は『徒然草』で「文は文選のあはれなる巻々、白氏文集…」と愛読書の筆頭に挙げ、長明は『方丈記』で「潯陽の江を思ひやりて」と「琵琶行」の世界に思いを寄せた。

エピソード

「長恨歌を暗唱できる」で値上げした歌妓(43〜44歳・814〜815年頃)

白居易は親友・元稹への手紙「元九に与うる書」で、自分の詩の広まりぶりをかなり得意げに書いている。長安に戻ったころ、ある軍の長官が歌妓を雇おうとしたところ、その妓は「私は白学士の『長恨歌』を暗唱できるのよ。ほかの妓と一緒にしないで」と言い放ち、それで値が上がったという。江州へ向かう途中の宴席では、妓たちが白居易を指さして「あれが『秦中吟』『長恨歌』の作者よ」とささやき合った。詩人本人による証言だけに、多少の自慢は差し引いて読みたい。

韓愈の誘いに「泥道はごめんです」(51歳・822年頃)

長安の曲江は花見の名所である。ある春、韓愈は張籍と連名で白居易に詩を送った。「曲江は水満ち花千樹、何がそんなに忙しくて来ないのか」。雨上がりの誘いに、白居易はこう返した。「うちの小さな庭に紅い桜桃を植えたばかり。花の周りを歩けばそれで十分な遊びだ。なにも馬の列について、泥を踏んで曲江まで行くことはない」。別の詩では、無沙汰の続く韓愈を「酒豪だから甘い酒を嫌い、才が高いから私の小さな詩を笑うのだろう」とからかっている。仲が悪かったわけではないが、気質の違いがにじむやりとりである。

老婆に聞かせて詩を直した?(伝承)

白居易は詩を作るたびに一人の老婆に読んで聞かせ、「わかるか」と尋ね、わかると言えば書き留め、わからないと言えば書き直した、という有名な話がある。ただしこれは死後約250年たった北宋の僧・恵洪の随筆『冷斎夜話』が初出で、唐代の資料には見えない。南宋の詩話集『詩人玉屑』は、この話と並べて、張耒(張文潜)が洛陽の旧家で白居易の草稿を見たところ推敲の書き込みだらけで、完成形は初稿とまるで違っていたという証言も載せている。「平易」は苦心の末に作られたものだったらしい。

出典・参考資料

  • Wikipedia「白居易」、中文Wikipedia「白居易」、コトバンク「白居易」(日本大百科全書)
  • 『旧唐書』巻166・白居易伝、『新唐書』巻119・白居易伝(維基文庫)
  • 白居易「與元九書」(維基文庫、古詩文網)
  • 韓愈「同水部張員外籍曲江春遊寄白二十二舍人」、白居易「酬韓侍郎張博士雨後遊曲江見寄」「久不見韓侍郎,戲題四韻以寄之」(『全唐詩』巻442ほか、維基文庫)
  • 白居易「開龍門八節石灘詩二首」(読古詩詞網、国立台湾大学「漢詩文献系統」)
  • 元稹「白氏長慶集序」(維基文庫)
  • 釈恵洪『冷齋夜話』巻1「老嫗解詩」、魏慶之『詩人玉屑』巻8「樂天」(維基文庫)、台湾教育部『成語典』「老嫗能解」