許浚
ホジュン(別名:허준)
1539年 – 1615年10月9日 (約76歳没)
許浚の人物情報
朝鮮王朝の宮廷医(御医)で、医学者である。字は清源、号は亀巌。父は武官の家の出だったが、母が正妻でなかったため中人の身分とされ、医官の道に進んだ。宣祖と光海君の2代にわたって王族を診療し、壬辰倭乱(文禄の役)では宣祖の避難に最後まで付き従った。宣祖の命で始まった医学全書『東医宝鑑』を、流罪の期間も書き続けて1610年に完成させ、1613年に刊行されている。同書は2009年にユネスコ「世界の記憶」に登録された。韓国ドラマで知られる師の柳義泰(ユ・ウィテ)は、小説とドラマが生んだ架空の人物である。
同時代の人物
許浚が生まれた1539年には、日本で絵師の長谷川等伯も生まれている。等伯は1610年の春に亡くなった。許浚が『東医宝鑑』を書き上げたのはその年の秋で、同い年の2人の代表的な仕事がほぼ同じ時期に締めくくられたことになる。2歳下にはスペインで活躍した画家エル・グレコ、3歳下にはムガル帝国のアクバルがいる。
許浚が亡くなった1615年秋の翌年の春には、セルバンテス(DB名「ミゲル・デ・セルバンテス」)とシェイクスピア(DB名「ウィリアム・シェイクスピア」)が相次いで世を去った。
年齢で見る生涯
生年は1539年で、月日はわからない。そのため満年齢は幅をもたせて書いている。
医官としての活躍が実録に記録されているのは、30代半ばからの40年間だ。『東医宝鑑』の半分以上は60代の終わり、流罪の時期に書かれたとされる。
人物のつながり
エピソード
「士大夫はかえってお前たちに及ばぬのか」(52〜53歳・1592年)
1592年、豊臣秀吉の命で日本軍が朝鮮に攻め込み、宣祖は都の漢城を捨てて北へ逃れた。6月には平壌も落ち、戦乱は7年に及んで国土は荒れ果てた。逃避行の途中、名のある官僚は「母の病」などを口実に次々と姿を消した。『宣祖修正実録』によれば、義州まで付き従った文官・武官はわずか17人。宦官数十人とともに、御医の許浚も最初から最後まで王のそばを離れなかった。宣祖は内官に「士大夫はかえってお前たちに及ばぬのか」と嘆いたという。
7日間で14回の弾劾、正一品は取り消しに(66〜67歳・1606年)
病から回復した宣祖は、許浚を正一品の輔国崇禄大夫に上げようとした。大臣と同じ位である。すると年明けの1月3日から、司憲府と司諫院が毎日そろって取り消しを求めた。「医官が崇禄大夫になったことさえ前例がないのに」という理屈である。宣祖ははじめ「改める必要はない」と突っぱねたが、9日、ついに折れた。正一品の位は、許浚の死後に追贈されることになる。
「弑逆といってもよい」(68〜70歳・1608〜09年)
宣祖が亡くなると、司諫院は許浚が「寒の気を強める薬をみだりに用いて王の死を招いた」と処罰を求めた。光海君は「医術が及ばなかったためで、死罪にするのは正しくない」と答えたが、追及は続き、許浚は流罪となった。翌年11月、光海君は「私にも功のある者だ。宮中には老練な医者が少ない」として釈放を命じる。実録の史官はこれに「罪をたどれば弑逆といってもよい」と書き添えており、司諫院はその後10日以上、撤回を求め続けた。
出典・参考資料