アクバル

アクバル

Akbar, Jalālo'd-Dīn Mohammad

1542年10月15日 – 1605年10月27日 (63歳没)

インド 王侯

アクバルの人物情報

ムガル帝国の第3代皇帝で、在位は1556年から1605年までのおよそ50年。父フマーユーンの急死を受けて13歳で即位し、北インドからアフガニスタン、ベンガル、デカン北部に及ぶ大帝国を築いた。ヒンドゥー教徒に課していた人頭税(ジズヤ)を廃止し、ラージプートの王家と婚姻を結んで、少数派のムスリム王朝による支配を安定させた。新都ファテープル・シークリーでは、イスラームやヒンドゥー教、キリスト教など諸宗教の学者を集めて討論させている。生涯読み書きができなかったが、2万点を超える蔵書を集めた文化の保護者でもあった。

同時代の人物

アクバルとほぼ同い年の日本人に、絵師の狩野永徳がいる。生まれたのはアクバルの約4か月後である。1570年代の後半、永徳が織田信長の安土城(1576年築城開始)で障壁画を描いていたころ、アクバルは新都ファテープル・シークリーに「信仰の館(イバーダト・ハーナ)」を建て、夜ごと宗教討論を開いていた。東西の権力者が、同じころ新しい城と都を飾っていたわけである。3歳上には長谷川等伯がいる。

ヨーロッパでは、画家のエル・グレコが1歳上にあたる。1583年には、9歳上のエリザベス1世がアクバルに宛てて通商を求める親書を書いた。アクバルが亡くなった1605年、シェイクスピアは41歳だった。

年齢で見る生涯

  • 13歳(1556年2月) 父フマーユーンの事故死を受け、パンジャーブのカラーナウルで即位
  • 14歳(1556年11月) 第二次パーニーパットの戦いでヘームーを破り、デリーを取り戻す
  • 17歳(1560年) 後見役の宰相バイラム・ハーンを退け、親政に乗り出す
  • 25歳(1568年2月) チットールガル城を攻略。総攻撃の後、約3万人の殺害を命じた
  • 32歳(1575年) ファテープル・シークリーにイバーダト・ハーナを建てる
  • 37歳(1580年) ゴアからイエズス会の第1次使節団を迎える
  • 59歳(1602年) 側近の史家アブル・ファズルが、皇子サリームの差し金で暗殺される
  • 63歳(1605年10月) 赤痢とみられる病で死去

在位はほぼ半世紀に及ぶが、親政を始めたのは17歳である。13歳で即位した少年が、後見役から実権を取り戻すまでに4年かかった。

人物のつながり

  • バイラム・ハーン:父の代からの重臣で、少年皇帝の後見役。パーニーパットの勝利を支えたが、1560年に退けられ、メッカ巡礼に向かう途中で暗殺された。
  • アブル・ファズル:『アクバル・ナーマ』『アーイーネ・アクバリー』を書いた側近の史家。皇帝の宗教政策を理論面で支えたが、1602年、皇子サリーム(のちのジャハーンギール)の指図で殺された。
  • エリザベス1世:1583年、商人ジョン・ニューベリーらに、アクバル宛ての親書を持たせて送り出した。
  • アウラングゼーブ:曾孫で第6代皇帝。アクバルが廃止したジズヤを1679年に復活させた。

エピソード

読めない皇帝の「ペンの印」(40代後半〜50代・1590年代)

イエズス会士モンセラーテは、アクバルを「読むことも書くこともまったくできない」と記録した。それでいて議論は鋭く、事情を知らない人には大学者にしか見えなかったという。アブル・ファズルによれば、蔵書は毎日、皇帝の前で最初から最後まで朗読された。朗読者がその日読み終えた箇所に、皇帝は自らペンで印を付け、読んだ枚数に応じて金貨や銀貨で報酬を払った。読めない皇帝が、自分のペンでしおりを付けていたのである。読字障害(ディスレクシア)だったとする説もあるが、推測の域を出ない。

「火に入ると言うだけでいい」(37歳・1580年)

1580年、ファテープル・シークリーでの討論会で、劣勢に立ったイスラーム学者が神明裁判を持ち出した。双方が聖典を抱えて燃える薪に上り、無事だった側を正しいとするのである。アクバルも神父たちにこれを促した。モンセラーテによれば、神父アクアヴィーヴァが「奇跡を試すのはキリストの教えに反する」と断ると、皇帝は「本当に入らなくてよい。入ると言ってくれればよい」と迫った。宮廷の学者を懲らしめる口実にしたかったらしい。神父は「陛下が公に言うなら、私たちも公に否定します」と応じ、居並ぶ貴族から喝采を浴びた。

赤ん坊を「唖の家」で育てる(39歳・1582年)

アクバルは「人は聞くことで言葉を覚える。言葉を聞かずに育てば話せないはずだ」と主張した。異を唱える者を納得させるため、人の声が届かない場所に宿舎を建て、新生児を集めて口のきけない乳母に育てさせた。人々はここを「ガング・マハル(唖の家)」と呼んだ。『アクバル・ナーマ』によれば、1582年8月に皇帝自ら訪ねると、4歳になった子どもたちは言葉を話さず、聞こえてくるのは唖者の声だけだった。皇帝は自説の正しさを確かめたが、子どもたちのその後は記されていない。

出典・参考資料

  • Wikipedia「アクバル」、Wikipedia(en)「Akbar」、Vincent A. Smith『Akbar the Great Mogul 1542–1605』(1917年)、UNESCO World Heritage Centre / Archaeological Survey of India「Fatehpur Sikri」(1571〜85年の造営、1572〜85年の居住)、狩野永徳の安土城障壁画(天正4〜7年)はWikipedia「狩野永徳」・コトバンク
  • Abu'l-Fazl『Ain-i Akbari』第1巻 Ain 34(Blochmann英訳、1873年、103頁)(蔵書の朗読とペンの印)
  • Antonio Monserrate『Commentarius』(Hoyland英訳『The Commentary of Father Monserrate, S.J.』1922年、37〜43頁、201〜202頁)(聖書の献呈、神明裁判の申し出、読み書きができないこと)
  • Abu'l-Fazl『Akbarnama』第3巻(Beveridge英訳、581〜582頁)(ガング・マハル)
  • Abu'l-Fazl『Akbarnama』第2巻(Beveridge英訳、472〜477頁)(チットールガル攻略の日付、ジャイマル狙撃、ジャウハル、約3万人の殺害)
  • Ellen Smart「Akbar: Illiterate Genius」(1981年)(ディスレクシア説。scroll.in「How Akbar came to love books though he never learnt to read」での紹介を確認)
  • Hakluyt『Principal Navigations』所収「A letter written from the Queenes Majestie to Zelabdim Echebar king of Cambaia」(1583年)