カトリーヌ・ド・メディシス
カトリーヌ・ド・メディシス
Catherine de Médicis
1519年4月13日 – 1589年1月5日 (69歳没)
カトリーヌ・ド・メディシスの人物情報
フランス王アンリ2世の王妃。フィレンツェのメディチ家に生まれ、生後まもなく両親を失った。1533年、フランソワ1世の次男アンリと14歳で結婚した。1559年に夫が馬上槍試合の傷で亡くなると、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世と3人の息子が相次いで王位に就き、母后として約30年にわたり政治を動かした。新旧両派の和解を探る一方で、1572年のサン・バルテルミの虐殺にも深く関わったとされる。毒殺の噂がつきまとう「黒い王妃」の像は、死後に広まった伝説の部分が大きい。
同時代の人物
1歳上にはヴェネツィアの画家ティントレット、3歳上にはイングランドのメアリー1世がいる。メアリーの夫フェリペ2世は、メアリーの死後にカトリーヌの娘エリザベートを妻に迎えた。
カトリーヌが亡くなった1589年1月、日本では狩野永徳が45歳だった。ガリレオ・ガリレイとシェイクスピアは、ともに24歳だった。2人が生まれた1564年は、カトリーヌが夫の像を頼んだミケランジェロが世を去った年でもある。
年齢で見る生涯
夫の死から亡くなるまでの約30年、3人の息子の王を支え続けた。だがカトリーヌの死から7か月後、最後の息子アンリ3世も暗殺され、ヴァロワ家は絶える。
人物のつながり
エピソード
修道院で泣いた人質の少女、半世紀後の恩返し(10〜11歳・1529〜30年/64〜68歳・1583〜88年)
1529年秋からのフィレンツェ包囲戦のさなか、カトリーヌは共和政府の人質として、ムラーテ女子修道院に置かれていた。同時代人の手紙によれば、修道女たちは共和国のために祈る派とメディチ家のために祈る派に割れた。困った役人が少女を連れ出しに来ると、彼女は殺されると思って泣いたという。王妃になってからも、カトリーヌは院長に手紙を送り続けた。1583年の手紙には自筆で、この王国が自分の来たときの姿に戻るのを死ぬ前に見たい、と書き添えている。翌年には農場4つを寄進した。自分の大理石像を贈る約束は、1588年1月の手紙で「難しすぎる」として、肖像画に改めている。
狩りに連れて行ってと王に頼んだ王太子妃(17〜27歳・1536〜47年頃)
廷臣ブラントームの『名婦伝』によれば、フランソワ1世は気に入りの貴婦人たちを「小さな一団」と呼び、狩りに連れ出していた。留守番に回された王太子妃カトリーヌは、いつも王のお供をさせてほしいと願い出た。王の秘密を探るためでもあった、との噂もあったという。彼女は馬の扱いが巧みで、片脚を鞍の前の突起にかける乗り方を最初に始めたのは彼女だという(ブラントームの言い分で、確かめようがない)。60歳を過ぎても馬を好み、たびたび落馬した。脚を折ったこともあり、頭の傷で穿頭の手術も受けたという。散歩には弩を持たせ、獲物を見つけると自ら射た。
84歳のミケランジェロに頼んだ夫の騎馬像(40歳・1559年〜)
夫を亡くした年の11月14日、カトリーヌはローマのミケランジェロに手紙を書き、夫の記念像の構想を頼んだ(手紙はフィレンツェのカーサ・ブオナローティに残る)。ヴァザーリによれば、84歳の巨匠は高齢を理由に自分では引き受けず、ダニエレ・ダ・ヴォルテッラを推して、助言を約束した。計画は高さ約4.5mの青銅の馬に王の像を乗せるもので、鋳造は一度失敗し、2か月後のやり直しでようやく成功した。だが疲れ果てたダニエレは1566年4月に亡くなり、王の像は作られなかった。残された馬はのちにパリへ運ばれ、1639年にロワイヤル広場(いまのヴォージュ広場)のルイ13世像に使われたとされる。その像も1792年、革命で溶かされた。
出典・参考資料