エリザベス1世
エリザベス1セイ
Elizabeth I
1533年9月7日 – 1603年3月24日 (69歳没)
エリザベス1世の人物情報
テューダー朝最後のイングランド女王で、在位は1558年から1603年までの44年あまり。父はヘンリー8世、母は2歳のときに処刑されたアン・ブーリンである。即位するとイングランド国教会の体制を固め、1588年にはスペインの無敵艦隊を退けた。生涯結婚せず「処女王」と呼ばれ、その治世にはシェイクスピアらが活躍して「エリザベス朝」と呼ばれる文化の最盛期を迎えた。ラテン語やフランス語、イタリア語などを自在に操る、当代屈指の教養人でもあった。
同時代の人物
エリザベスが生まれた1533年には、オランダ独立運動の指導者ウィレム1世も生まれている。4か月違いの同い年で、2人はともにスペイン王フェリペ2世を相手に回して戦った。3歳上にはロシアのイヴァン4世がいる。イヴァンは英露同盟を求めて女王と書簡を交わしたが、思うように話が進まないと、1570年の手紙で女王を口汚くなじっている。
日本では、絵師の長谷川等伯が6歳下、狩野永徳が10歳下にあたる。永徳が信長や秀吉のために城の襖や大屏風を描いていた同じころ、イングランドの宮廷画家ヒリアードは手のひらほどの細密肖像画で女王を描いていた。エリザベスが亡くなった1603年には、本阿弥光悦が45歳、狩野探幽はまだ1歳だった。
アジアの君主とも接点がある。女王は1583年、ムガル帝国のアクバルに通商を求める親書を持たせて商人を送り出した。1596年には明の万暦帝宛ての親書も託したが、船団は途中で消息を絶ち、手紙は届かなかった。
年齢で見る生涯
弟エドワード6世は15歳で亡くなり、姉メアリー1世の在位はわずか5年だった。姉弟が短命・短期で終わったなか、エリザベスは父ヘンリー8世の在位(37年)を超えて44年間在位した。ロンドン塔の囚人から、わずか4年で女王になっている。
人物のつながり
エピソード
影のない肖像画を望む(38歳前後・1572年頃)
ヒリアードは晩年の技法書『細密画法(The Arte of Limning)』で、初めて女王を描いたときの会話を書き残している。女王はイタリアの画家たちが影を使わないことを話題にし、ヒリアードが「影は光の欠陥であり、よく見せたい人には開けた光がよい」と答えると、描かれる場所として「木も近くになく、影ひとつない、見事な庭園の開けた小道」を選んだという。ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーは、1572年の女王の細密画がこのとき描かれたものではないかとみている。
「王国の仕事の合間に」哲学書を翻訳(60歳・1593年)
1593年秋、60歳の女王はウィンザー城で、6世紀の哲学者ボエティウスの『哲学の慰め』をラテン語から英語に訳した。原稿は英国国立公文書館に残り、韻文の部分の多くは女王の自筆である。原稿には側近が女王に宛てて作業時間を計算したメモが添えられ、10月10日に始めて11月上旬に終え、実際に費やしたのは「26、7時間」あるいは「24時間」だったと記されている。ただし、1899年に翻訳を刊行した編者は、筆写するだけでもそれ以上かかると述べ、廷臣のお世辞だろうと疑っている。
ポーランド大使をラテン語で一喝(63歳・1597年)
1597年7月25日、ポーランド大使がラテン語で挨拶の演説をした。ところが、中身は英国がスペインとの交易を妨げていると責める抗議だった。女王はその場でラテン語で言い返した。「なんと欺かれたことか。使節を待っていたのに、そなたが持ってきたのは苦情であった」。同席したロバート・セシルは、エセックス伯への手紙で「これほど見事なラテン語の即答は聞いたことがない」と書いている。演説のあと、女王は廷臣たちに「今日は長く錆びついていた古いラテン語を磨き直させられた」と語ったと伝えられる。
出典・参考資料