何景明
カケイメイ
Ho Chingming
1483年9月7日 – 1521年9月5日 (37歳没)
何景明の人物情報
中国・明代中期の詩人。字は仲黙、号は大復山人。河南の信陽の人。15歳で郷試に合格して神童と騒がれ、18歳で進士となった。宦官の劉瑾が実権を握ると官を退き、劉瑾の処刑後に復職した。最後の官職は陝西提学副使。李夢陽とともに「文は秦漢、詩は盛唐」を掲げる復古運動を率い、「前七子」の一人に数えられる。ただ、古人の型を忠実に守ろうとする李夢陽に対し、何景明は型を学んだうえで自分の表現をつくるべきだと説き、二人は手紙で論争した。数え39歳で亡くなった。
同時代の人物
何景明が生まれた1483年には、ルネサンスの画家ラファエロと、フランスの作家ラブレーも生まれている。ラファエロは1520年に37歳で亡くなり、何景明も翌年、同じ37歳で世を去った。東西の早世した天才は、生まれた年も生きた年数も同じだったことになる。
陽明学の王守仁は11歳年上だ。1506年(正徳元年)冬、王守仁は劉瑾に逆らって杖で打たれ、貴州へ左遷された。何景明が劉瑾に抗う書を送ったのも、同じ正徳元年のことである。
日本では、明に渡って水墨画を学んだ雪舟が、何景明が23歳だった1506年ごろに亡くなった(1502年説もある)。何景明が亡くなったとき、『西遊記』の作者とされる呉承恩はまだ21歳前後だった。
年齢で見る生涯
中書舎人の地位に10年以上とどまり、要職に就いたのは晩年の数年だけだった。それでも、亡くなる直前には「死生は常理(世の定め)だ。悲しむことはない。ただ、わが生は辛苦が多かった」と語ったと、門人の樊鵬が書き残している。
人物のつながり
エピソード
「わかっていたことだ」と寝たまま聞いた合格の知らせ(15歳・1498年)
樊鵬の「行状」によれば、郷試の上位合格の知らせが届いたとき、何景明は横になったまま応対した。なぜ喜ばないのかと聞かれると、「もともとわかっていた。何を喜ぶことがあろう」と答えたという。まだ体も小さく、子どもの髪型をした少年である。王侯や高官は争って人に背負わせて連れて来させ、ひと目見ようとした。草書を求められ、日に数百枚書いたという。ところが翌年の会試では、答案に「奇字」(珍しい難字)が多すぎるとされて落第している。
権力者の古画に一字も書かず(30〜33歳・1514〜17年頃)
正徳帝の寵臣・錢寧が、近づきになろうと古画を持ち込み、題詩を求めた。何景明は「好い画だ。わたしの題で汚すことはない」と言って受け取ったまま、1年たっても一字も書かずに返したという。御史だった友人が都で客死したときには、権臣の廖鵬が棺を贈った。何景明は「友は生涯、筋の通らぬ贈り物は受けなかった。死んだからといって汚させはしない」と叱って突き返し、自分の金で葬儀を助けた。
宴席で目を閉じ、おまるに座る(伝承・在京中)
明の何良俊『四友斎叢説』には、詩人の顧璘から聞いた話が載っている。何景明は世を見下し、都の宴席ではいつも目を閉じて座り、同席者と一言も口をきかなかった。ある日は召使いに「圊桶」(おまる)を会場まで運ばせ、本を抱えてその上に座り込んだ。客が帰るまで動かず、それから悠然と去ったという。同時代人の談話だが、真偽は確かめようがない。
出典・参考資料