中宗
チュンジョン(別名:중종)
Jungjong
1488年4月16日 – 1544年11月29日 (56歳没)
中宗の人物情報
朝鮮王朝の第11代国王です(在位1506〜44年)。名は李懌。成宗の次男で、異母兄の燕山君を朴元宗らが廃したクーデター(中宗反正)で、18歳で王に推されました。即位7日後には、功臣の求めで妻の慎氏を宮中から出しています。1515年ごろから若手儒者の趙光祖を重用して改革を進めましたが、1519年の己卯士禍で自ら彼らを退けました。1510年には三浦(釜山浦・薺浦・塩浦)に住む日本人が対馬の兵とともに蜂起する三浦の乱が起き、1512年の壬申約条で通交を大きく絞っています。ドラマで知られる医女「長今」が実録に登場する王でもあります。
同時代の人物
中宗が生まれた1488年には、ヴェネツィアの画家ティツィアーノ(DB名「ティツィアーノ・ヴェチェッリオ」)も生まれたとされます。3歳下にはイングランドのヘンリー8世がいます。中宗も3人の王妃を迎え、晩年は世継ぎをめぐる后妃の争いに悩まされました。
明では、中宗より16歳上の王守仁が陽明学を唱えていました。同じころ朝鮮では、趙光祖が朱子学の理想をそのまま政治で実現しようとしていました。
日本では、狩野派の祖狩野正信が中宗の治世の途中、1530年まで生きていました。中宗が亡くなった1544年には、のちの長谷川等伯が5歳、狩野永徳が1歳でした。
年齢で見る生涯
DBの生没日はユリウス暦です(陰暦の成宗19年3月5日〜中宗39年11月15日)。年齢は満年齢で書いています。
王になったのは自分の力ではなく、他人に担がれた18歳のときでした。それから38年、功臣や外戚と若手官僚の間で揺れ続けた治世になりました。
人物のつながり
エピソード
「糟糠の妻をどうせよというのか」(18歳・1506年/56歳・1544年)
反正の7日後、功臣たちは中宗に、妻の慎氏を宮中から出すよう迫った。慎氏の父・慎守勤は反正に加わらずに殺されており、王妃になれば報復を招くというのである。中宗は「言うことはもっともだが、糟糠の妻をどうせよというのか」と答えたが、重ねて決断を迫られ、その日の夕方に妻を宮中から出した。38年後、中宗が亡くなった当日の実録には、王が臨終に慎氏に会いたがったため宮中に呼び入れられた、という噂まで記録されている。ただし史官は、実際には祈祷のための尼僧を呼んだだけで、噂は根拠がないと書き添えた。
「わしの症状は女医が知っている」(56歳・1544年)
ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』の主人公のモデル、医女・長今は、中宗実録に何度も名前が出てくる。中宗が最後の病に倒れた1544年10月、内医院の提調は「このような病状は女医にわかるものではない」と述べ、男性の医官に脈をとらせるよう願い出た。ところが翌日、提調が容体を尋ねると、中宗は「わしの症状は女医が知っている」と答えている。同じ日の記事には、薬の飲み具合や眠った時刻を長今が報告している様子も残る。
掘り返された王陵と「疑わしい遺体」(没後49年・1593年)
壬辰倭乱(文禄の役)さなかの1593年4月、日本軍が中宗の靖陵と、父・成宗の宣陵を掘り返したとの報告が届いた。宣陵では、棺が焼かれて灰の中に骨片が残っていた。ところが靖陵の墓道からは、ほぼ完全な遺体が一体見つかる。調査には、生前の中宗に仕えた者たちが呼ばれた。彼らはまず記憶する王の姿を書き出してから見比べたが、背丈や体つきの証言は食い違い、遺体は髪がすっかり抜けて年齢もはっきりしなかった。重臣たちの多くは「疑わしい」と判断し、遺体は別の棺に入れて陵の近くに埋めることになった。中宗の孫、宣祖の時代のことである。
出典・参考資料