フェリペ2世
フェリペ
Felipe II
1527年5月21日 – 1598年9月13日 (71歳没)
フェリペ2世の人物情報
スペイン・ハプスブルク家の王で、在位は1556年から1598年までの42年間。皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の長男としてバリャドリードに生まれ、父からスペイン、ネーデルラント、イタリア南部、アメリカ大陸の植民地などを受け継いだ。1580年にはポルトガルの王位も得て、「太陽の沈まぬ帝国」の頂点に立った。宮廷をマドリードに置き、エル・エスコリアル修道院を建てた。膨大な書類に自ら目を通し、「書類王」とも呼ばれた。カトリックの擁護者として異端審問を後押しし、ネーデルラントの独立戦争やイングランドとの戦いに国力を注いだが、財政は何度も破綻した。
同時代の人物
同じ1527年には、野菜や果物で肖像を描いたアルチンボルドが生まれている。仕えた先はウィーンとプラハのハプスブルク宮廷で、主君はフェリペの叔父や従弟だった。2歳ほど上には、フェリペが治めるネーデルラントの画家ブリューゲルと、教会音楽のパレストリーナがいる。3歳下はロシアのイヴァン4世である。
宿敵となる2人は、そろって約6歳下である。イングランドのエリザベス1世と、ネーデルラント独立運動のウィレム1世は、ともに1533年に生まれた。
日本では、長谷川等伯が12歳下、狩野永徳が16歳下にあたる。フェリペが1598年9月13日に亡くなったとき、等伯は数え60歳で、まだ健在だった。その5日後の9月18日には、伏見城で豊臣秀吉が世を去っている。
年齢で見る生涯
4人の王妃にはすべて先立たれ、王位を継ぐはずだった息子たちも次々に失った。亡くなったのは、エル・エスコリアルの最後の石が置かれた1584年9月13日から、ちょうど14年後の同じ日だった。
人物のつながり
エピソード
「ナイチンゲールがうらやましい」(53〜54歳・1581〜82年)
ポルトガル王位を固めに2年あまり現地に滞在したフェリペは、マドリードに残した10代の娘イサベルとカタリナに自筆の手紙を送り続けた。1581年5月1日、トマールからの手紙にはこうある。「マダレナは苺を、私はナイチンゲールをたいそううらやましがっている。窓の一つから、ときどき少しは聞こえるのだが」。マダレナは家族同然の道化の女性である。翌年にはバラやオレンジの花を添え、娘たちの背丈をリボンで測って送るよう頼んだ。ただし同じころの手紙には、異端審問の判決宣告の儀式「アウト・デ・フェ」に臨席したことも書かれている。
行列の悪魔は「ボスの絵のよう」(55歳・1582年)
1582年9月2日、リスボンで、7年ごとの宗教行列が王のために2年繰り上げて催された。宮殿の窓から見物したフェリペは、翌日娘たちに書いた。「おまえたちや弟に見せられなかったのが残念だ。もっとも、ヒエロニムス・ボスの絵のような悪魔たちが出てきたから、弟は怖がっただろうが」。フェリペはボス(ボッシュとも)の熱心な収集家で、のちに「快楽の園」も買い取り、1593年にエル・エスコリアルへ送っている。なお、怖がるはずだった7歳の弟ディエゴは、この2か月半後に天然痘で亡くなった。
修道院の大階段をのぼった象(56歳・1583年)
1582年、インド副王がディエゴ王子への贈り物として象を船で送ってきた。フェリペは娘たちに「弟にこの象のことを話してやりなさい」と書いたが、王子は象に会えないまま世を去った。翌1583年10月9日、象はエル・エスコリアルに連れてこられた。修道士の記録によれば、庭では王の前でお辞儀をし、寝そべり、鼻で果物を取ってみせた。修道院長の僧房にも入り、次の日には正面の大階段をのぼって上の階の回廊まで行ったという。1584年にマドリードを訪れた天正遣欧使節の少年たちも、この象と犀を見物したと記録に残している。
出典・参考資料