メアリー1世

メアリー

Mary I

1516年2月18日 – 1558年11月17日 (42歳没)

イギリス 王侯

メアリー1世の人物情報

テューダー朝のイングランド女王で、在位は1553年から1558年まで。ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの娘である。両親の結婚が無効とされて庶子の扱いを受けたが、のちに継承権を回復した。弟エドワード6世の死後、ジェーン・グレイを立てた勢力を退けて即位し、イングランドで初めて自ら統治する女王となった。スペインの王子フェリペと結婚し、カトリックへの復帰を進めた。異端を罰する法を復活させ、約280人のプロテスタントを火刑に処したため、後世「ブラッディ・メアリ(血まみれのメアリ)」と呼ばれる。1558年にフランスにカレーを奪われ、同年42歳で亡くなった。同名のカクテルが女王にちなむという話に裏付けはない。

同時代の人物

3歳下のカトリーヌ・ド・メディシスとは縁がある。メアリーは2歳で、生まれたばかりのフランス王太子フランソワと婚約したが、実を結ばなかった。のちにカトリーヌが嫁いだのは、その弟アンリである。

メアリーの迫害を逃れたプロテスタントの一部は、7歳上のカルヴァン(カルビンとも)がいるジュネーヴに身を寄せた。ロシアのイヴァン4世が1557年に送った使節ネペヤの女王への謁見は、英露の正式な外交の始まりとされる。

日本では、メアリーが亡くなった1558年に、長谷川等伯が数え20歳、狩野永徳が数え16歳だった。

年齢で見る生涯

  • 2歳(1518年) 10月、グリニッジでフランス王太子との婚約の儀が行われる
  • 17歳(1533年) 両親の結婚が無効とされ、12月には生まれたばかりの異母妹エリザベスの屋敷に移される
  • 20歳(1536年) 父への服従文書に署名し、両親の結婚を不法と認める。皇帝の大使シャピュイが、命を守るため署名を勧めた
  • 37歳(1553年7月) 弟エドワード6世が15歳で死去。12日にフラムリンガム城で兵を集め、19日にロンドンで女王と宣言される。10月1日戴冠
  • 37〜38歳(1554年) 2月にジェーン・グレイを処刑。7月25日、ウィンチェスター大聖堂で11歳下のフェリペと結婚
  • 38歳(1555年2月) 最初の火刑が行われる。1558年までに約280人が焼かれた
  • 41歳(1558年1月) 大陸に残る最後の領土カレーを失う
  • 42歳(1558年11月17日) セント・ジェームズ宮殿で死去。同じ日にポール枢機卿も亡くなった

庶子とされてから即位まで20年、在位は5年4か月だった。「私が死んで胸を開けば、そこにカレーが横たわっているのが見つかるだろう」という言葉は後年の年代記(ホリンシェッド)が侍女の話として伝えたもので、確かな記録ではない。

人物のつながり

  • エドワード6世:21歳下の異母弟。父ヘンリー8世の死後、プロテスタント化を進める弟の政府とミサをめぐって対立した。
  • エリザベス1世:17歳下の異母妹。王女時代には遊び用の小遣いを渡しているが、即位後は反乱への関与を疑ってロンドン塔に送った。
  • フェリペ2世:夫。1555年8月に大陸へ渡り、イングランドに戻ったのは1557年3月から7月までだけだった。

エピソード

「プリースト!」と呼んだ2歳の王女(2歳・1518年)

1518年2月、ヴェネツィア大使ジュスティニアンとの会見のあと、ヘンリー8世は2歳になったばかりの王女を部屋に連れてこさせた。一同が王女の手に口づけするなか、王女は少し離れて立っていたヴェネツィア出身の司祭で楽師のディオニシオ・メモを見つけ、英語で「プリースト!」と呼び始めた。メモは行って弾いてやるしかなかった。王は王女を抱いたまま大使に歩み寄り、メモほど忠実な者はいないと褒めた。大使の本国への報告に残る場面である。リュートと鍵盤楽器の名手となる女王の、記録に残る最初の「音楽好き」だった。

毎月のカード代と、負けた朝食(24歳・1540年)

王女時代の家計簿(大英図書館蔵)には、メアリー自身の書き込みや訂正があり、最初の1年は月末ごとに署名もしている。1831年にこれを刊行したマッデンによれば、カード遊びには気前よく興じ、毎月ほぼ決まった額をその小遣いに充てていた。1540年4月の帳簿には、6歳のエリザベスに「遊び用に」20シリングを渡した記録に続いて、レディ・マーガレットとの賭けに負けて払った髪飾り代4ポンドと、ボウリングで負けた朝食代10シリングが並ぶ。マッデンはこれを、陰気なメアリー像への反証に挙げている。

「私はどうなるの」――実らなかった亡命(34歳・1550年)

弟の政府からミサをやめるよう迫られたメアリーは、1550年、従兄の皇帝カール5世を頼って大陸へ逃れようとした。7月初め、皇帝の大使の秘書デュボワが穀物商人を装って、エセックスの港町モールドンに入る。会計長官ロチェスターは墓地で、一握りの麦の値段を交渉するふりをしてデュボワと会い、村人が怪しんでいると訴えた。メアリーは持ち物を、重そうに見えないホップ用の長い袋に詰めている最中だった。協議の途中、彼女は「どうしましょう。私はどうなるの」と口にした。結局その夜の決行は見送られ、デュボワは夜明け前に町を去った。3年後、彼女は国を出ずに兵を集め、王位をつかむ。

出典・参考資料

  • Wikipedia「メアリー1世 (イングランド女王)」、Wikipedia(en)「Mary I of England」、Dictionary of National Biography「Mary I (1516-1558)」(Wikisource)、English Heritage「History of Framlingham Castle」、London Museum「Mary I and the Smithfield martyrs」、Wikipedia(en)「Bloody Mary (cocktail)」、A. A. Kiselev「The Visit of Envoy Osip Nepeya to England (1556–1557)」(Science Journal of VolSU, 2021)
  • Rawdon Brown訳『Four Years at the Court of Henry VIII』第2巻(1854年)、ジュスティニアンの1518年2月28日付ロンドン発報告と訳注(イタリア語原文を併載)(https://archive.org/details/fouryearsatcourt02giusuoft)
  • Frederic Madden編『Privy Purse Expenses of the Princess Mary』(1831年)、序文の回想記および1540年4月の帳簿(88頁)(https://archive.org/details/privypurseexpens00mary)
  • British Library, Royal MS 17 B XXVIII の目録記述(メアリーの書き込みと署名)
  • Calendar of State Papers, Spain, vol. 10(1550年7月、Jehan Duboys の報告「Middle of July. Brussels, R.A. Prov. 13」)(British History Online, https://www.british-history.ac.uk/node/75313)