フランソワ1世
フランソワ
François I
1494年9月12日 – 1547年3月31日 (52歳没)
フランソワ1世の人物情報
ヴァロア朝のフランス王で、在位は1515年から47年まで。親族で義父にあたるルイ12世の後を20歳で継ぎ、即位の年にマリニャーノの戦いでミラノを手に入れた。神聖ローマ皇帝カール5世とはイタリアをめぐって生涯争い、1525年のパヴィアの戦いでは捕虜となってマドリードに送られている。一方でレオナルド・ダ・ヴィンチを招き、シャンボール城の建設やフォンテーヌブロー宮の改装を進めた。1539年のヴィレール=コトレの勅令で、裁判の文書をラテン語ではなくフランス語で書くよう定めたことでも知られる。
同時代の人物
フランソワが生まれた1494年は、16世紀の三大君主がそろった年回りである。オスマン帝国のスレイマン1世は同じ年の11月生まれで、フランソワのほうが2か月年上だ。ヘンリー8世は3歳上で、2人は1547年の1月と3月に、2か月違いで世を去った。
日本では、フランソワが11歳だった1506年に雪舟が亡くなっている。ヴィレール=コトレの勅令を出した1539年には長谷川等伯が、その4年後には狩野永徳が生まれた。
年齢で見る生涯
パヴィアで捕らえた側のカール5世は、フランソワより6歳年下で、このときまだ25歳だった。若い皇帝との争いは、2人が手を結んだ時期をはさみながら、フランソワが亡くなる3年前の1544年まで続いた。
人物のつながり
エピソード
母の日記に残る「ひどい薪」(26歳・1521年)
1521年1月6日の公現祭、宮廷はロワール地方のロモランタンで「豆の王様」を選ぶ遊びに興じていた。別の屋敷でも王様が立ったと聞いたフランソワは、雪玉を手にその屋敷を「攻め」に行く。ところが籠城側の誰かが窓から燃える木を投げ、それが王の頭を直撃した。母ルイーズ・ド・サヴォワは日記に「わが子はひどい薪で頭のてっぺんを打たれた。もし死んでいたら、私は終わりだった」と書き、投げた手に悪意はなかったとも添えている。傷の手当てで髪を短く切った王がひげを伸ばし、宮廷に短髪とひげが広まったと伝えられるが、真偽ははっきりしない。
炎の塔と、皇帝のとりなし(45歳・1539年)
1539年12月、ガン(ヘント)の反乱を鎮めに行くカール5世は、フランソワの許しを得てフランスを縦断した。かつて自分を捕らえた相手を、王は盛大にもてなす。アンボワーズ城では、馬車でも上れるらせん状の通路をもつ塔を、夜に松明で真昼のように照らして皇帝を迎えた。ところが皇帝が塔の途中まで来たとき、松明を持った者の不注意で壁掛けに火が移り、塔は煙に包まれた。側近マルタン・デュ・ベレーの回想録によれば、皇帝が窒息するのではないかと皆が案じたという。王は火を出した疑いのある者たちを絞首刑にしようとしたが、悪意はなかったとして、皇帝のほうが許させたと書かれている。
法廷の言葉を「母語のフランス語」に(44歳・1539年)
1539年8月、フランソワはパリ北東のヴィレール=コトレ城で192条の勅令を出した。大半は裁判の手続きを定めた条文で、そのなかの第110条と第111条が、判決などの文書を「母語のフランス語で、それ以外ではなく」書くよう命じた。ラテン語の判決文では意味をめぐって争いが起きるから、というのが理由である。この2つの条文は一度も廃止されておらず、いまもフランスで効力をもつ最も古い法文とされる。2023年10月30日には、勅令が出されたこの城が「国際フランス語館」として生まれ変わり、マクロン大統領が開館式に臨んだ。
出典・参考資料