ハーバート・ヘンリー・アスキス
アスキス
Asquith, Herbert Henry
1852年9月12日 – 1928年2月15日 (75歳没)
ハーバート・ヘンリー・アスキスの人物情報
イギリスの政治家で、自由党の首相(在任1908〜16年)。ヨークシャーのモーリーに生まれ、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに学んで法廷弁護士となった。1886年に下院議員に初当選し、内務大臣、財務大臣を経て首相となる。老齢年金や国民保険を導入し、1911年の議会法で貴族院の拒否権を奪った。第一次世界大戦では開戦を決め、1915年に連立内閣を組んだが、戦争指導への批判が高まり、1916年12月にロイド・ジョージに首相の座を譲った。1925年に伯爵に叙された。
同時代の人物
1852年の同い年には、スペインの建築家ガウディと、日本の彫刻家高村光雲がいる。光雲は半年ほど年上である。
アスキスが生まれた2日後の1852年9月14日、ナポレオンを破ったウェリントン公(DB名はアーサー・ウェルズリー)が亡くなった。2人が同じ世にいたのは2日間だけである。
大戦期の米大統領ウッドロウ・ウィルソンは4歳下。作家のトーマス・ハーディーは1928年1月に87歳で亡くなり、アスキスはその35日後に世を去った。
年齢で見る生涯
首相在任は8年8か月に及んだ。前半は社会保障と議会改革を進めたが、後半の2年4か月は戦争指導に追われた。
人物のつながり
エピソード
「疲れた。こいつは君に任せる」(36歳・1889年)
1889年、アスキスはアイルランドの指導者パーネルの側の弁護団に、名弁護士チャールズ・ラッセルの補佐として加わった。タイムズ紙が載せた「パーネルの手紙」の真偽を調べる特別委員会である。2月、タイムズの支配人マクドナルドが証言台に立ち、手紙を買い取ったいきさつを語った。尋問はラッセルの役目だったが、昼の休廷に入るとき、ラッセルはアスキスに「疲れた。こいつは君に任せる」と言った。英国一の尋問の名手が黙って見守るなか、アスキスは2時間ほど問い詰め、マクドナルドは言葉に詰まり続けたと新聞は報じた。手紙はまもなく偽造と判明する。アスキスは晩年、この日を「法廷人生で最大の前進」と回想している。
「様子を見よう」がマッチの名前に(57歳・1910年〜)
1910年4月4日の下院で、貴族院の改革や予算の日程について質問が続いた。アスキスは「様子を見るしかない」「様子を見ておいてもらおう」と同じ言葉で答え続け、議員から「“様子見”政府だ」と野次が飛んだ。言葉はたちまち新聞に広まり、アスキスのあだ名になった。第一次世界大戦が始まると、英国兵はこの言葉を思わぬものに使った。フランス製のマッチは火がつきにくく、つくかどうかは擦ってみないとわからない。兵士たちはこれを「アスキス」や「様子見(Wait and sees)」と呼んだ。1914〜15年の新聞が伝え、1925年刊の兵隊言葉の辞典にも載っている。
首相のラブレター560通(59〜62歳・1912〜15年)
アスキスは、娘の友人で35歳近く年下のヴェネシア・スタンリーに夢中になった。1912〜15年に書いた手紙は560通余り、約30万語にのぼる。1日に4通書くこともあり、書簡集の紹介によれば、下院の討論中や、ときには閣議の最中にも書いた。手紙には国王からの手紙や、軍の移動に関する機密文書まで同封されていた。1915年5月12日、ヴェネシアは若い閣僚モンタギューとの婚約を知らせてきた。アスキスは「知ってのとおり、胸が張り裂けそうだ」と返事を書いている。その2日後、政府は連立をめぐる危機に見舞われた。手紙はいまボドリアン図書館にある。
出典・参考資料