孫文
ソンブン
Sun Chung-shan
1866年11月12日 – 1925年3月12日 (58歳没)
孫文の人物情報
中国の革命家、政治家である。広東省香山県翠亨村の農家に生まれ、ハワイと香港で西洋式の教育を受けて医師になった。1894年にハワイで興中会を結成し、清朝を倒すための武装蜂起を何度も試みては失敗して、日本や欧米で長い亡命生活を送った。1905年には東京で中国同盟会を結成し、民族・民権・民生の「三民主義」を掲げている。1911年の辛亥革命を受けて、翌年1月に中華民国臨時大総統に就いたが、まもなくその地位を袁世凱に譲った。晩年は広州を拠点に中国国民党を率い、ソ連と結んで国共合作を進めたが、北京で病没した。台湾では「国父」、中国大陸では「革命の先行者」と呼ばれている。
同時代の人物
孫文が生まれた1866年には、SF作家のH・G・ウェルズ、作家のロマン・ロラン、作曲家のエリック・サティが生まれている。日本では、近代洋画の父黒田清輝と、飛行機の着想で知られる二宮忠八が同い年である。サティは孫文と同じ1925年、4か月後に亡くなった。
1歳下の南方熊楠とは、実際に深く付き合っている。1897年3月、亡命中の孫文はロンドンの大英博物館で熊楠と知り合い、6月末にロンドンを離れるまで、ほぼ毎日のように語り合った。別れ際には熊楠の日記帳に「海外逢知音(海外で知己に逢う)」と書き残している。1901年には、帰国した熊楠を和歌山に訪ねた。
晩年の孫文が手を結んだソ連のレーニンは4歳下で、孫文より1年早い1924年1月に亡くなった。3歳下のガンディーとは、同じ時代にアジアの独立と近代化を目指した指導者どうしだが、2人が会ったことはない。
年齢で見る生涯
最初の蜂起から辛亥革命までは16年かかり、その大半を国外で過ごした。大総統の座にあったのは3か月ほどで、58年の生涯のうち、国家の権力を安定して握った時期はほとんどなかった。
人物のつながり
エピソード
「四大寇」を名乗った医学生たち(20代前半・1888〜92年頃)
香港西医書院で医学を学んでいたころ、孫文は陳少白、尢列、楊鶴齢の3人と、楊の実家の商店「楊耀記」の2階に毎日のように集まり、清朝打倒を大声で論じ合った。周囲は4人を「四大寇(4人の大逆賊)」と呼んだ。陳少白の回想では、太平天国の洪秀全が「負ければ賊」とされたのにならい、自分たちも清朝の大寇だと笑って名乗ったのが始まりだという。ただし陳は、それは「縦談(言いたい放題)」の四大寇にすぎず、1895年の広州蜂起には楊と尢は加わらなかったとも書いている。晩年の孫文は3人を広州に呼び、会合に使った楼閣を「四寇楼」と名づけた。
「動くな」と返電するつもりが、寝過ごした(44歳・1911年)
武昌蜂起の翌日の夜、孫文は資金集めの旅の途中で、アメリカのコロラド州デンバーに着いた。荷物から暗号書を取り出して、10日あまり前に届いていた黄興の電報を解読すると、「新軍が必ず動く、至急送金を」とある。金策のあてがなかった孫文は「動くな」と返電しようと考えたが、一日中列車に揺られて疲れ切っていたので、翌朝に考え直すことにした。ところが目覚めたのは午前11時。食堂へ向かう途中で新聞を買うと、「武昌、革命党に占領される」という記事が載っていた。孫文自身が『孫文学説』に書き残している話である。
焼けた原稿と、講演から生まれた『三民主義』(55〜57歳・1922〜24年)
孫文は、三民主義や五権憲法などを8冊にまとめる大著『国家建設』を準備していた。「民族主義」の巻は書き上がり、ほかの巻も大半ができていた。ところが1922年6月16日、陳炯明の軍が広州の観音山にあった住まいを砲撃し、原稿と参考用の洋書数百冊がすべて焼けてしまう。孫文は「殊に痛恨すべし」と書いている。いま読まれている『三民主義』は、1924年に毎週1回行った講演を筆記したものである。孫文は序文で、準備の時間も参考書もなく壇上で話したので、前の原稿よりずっと劣る、と正直に断っている。
出典・参考資料