ネヴィル・チェンバレン
チェンバレン
Chamberlain, Arthur Neville
1869年3月18日 – 1940年11月9日 (71歳没)
ネヴィル・チェンバレンの人物情報
イギリスの政治家で、保守党の首相(在任1937〜40年)。バーミンガムの大物政治家ジョゼフ・チェンバレンの次男に生まれた。20代の6年間をバハマで父の農園の経営に費やしたが失敗し、帰国後は実業家として成功した。1915年にバーミンガム市長、1918年に49歳で下院議員となり、保健大臣、財務大臣を経て68歳で首相に就任した。ドイツとの戦争を避ける宥和政策をとり、1938年のミュンヘン協定でチェコスロヴァキアのズデーテン地方のドイツへの割譲を認めた。翌年ドイツがポーランドに侵攻すると宣戦布告したが、1940年5月に退陣し、同年11月に癌で死去した。
同時代の人物
1869年の同い年には、インドのマハトマ・ガンディー、作家のアンドレ・ジッド、画家のアンリ・マチスがいる。日本では、日本画家の横山大観が1868年11月の生まれで、4か月半ほど年上にあたる。
チェンバレンが亡くなった1940年は、戦間期の政治家が相次いで世を去った年でもある。8月には亡命先のメキシコでトロツキーが暗殺され、チェンバレンのわずか6日前には、スペイン第二共和政の大統領だったマヌエル・アサーニャが亡命先のフランスで亡くなった。
年齢で見る生涯
国政に出たのは49歳と遅く、首相の座に就いたのは68歳だった。首相在任は3年に満たず、辞任から半年後に亡くなっている。
人物のつながり
エピソード
植物が育たない島で鳥を数える(22〜27歳・1891〜97年)
1891年、22歳のチェンバレンは父が出資したサイザル麻(繊維をとる植物)の農園を任され、バハマのアンドロス島に渡った。家を建て、道を拓き、50人ほどの労働者を使ったが、肝心の植物が育たない。1895年には2か月で60万株を買い足したものの、1896年に会社は清算され、父は5万ポンドを失った。孤独な島で慰めになったのが鳥である。持参した図鑑に載る種の半分近くを見分け、鳴き声まで覚えたと手紙に書いている。1896年には島の鳥45羽を大英博物館に寄贈し、礼状を受け取った。のちに国民兵役局長官の仕事に行き詰まったときは、「植物が育たなかったバハマを思い出す」とこぼした。
朝に鮭2匹、午後に財務大臣(54歳・1923年)
鳥と並ぶ生涯の楽しみが釣りで、毎年のようにスコットランドで鮭を追った。1923年8月、オイケル川に滞在していた彼のもとに、首相ボールドウィンから財務大臣への就任を求める手紙が届く。「なんという日だ! 朝に鮭が2匹、午後に財務大臣の申し出」。だが彼は、自分には財政の才がないとして、すぐに断りの返事を出した。重ねて求められると釣りを切り上げ、長い面談の末に引き受けている。15年後のミュンヘン会談のあとには、感謝の手紙や花とともに、釣り竿や鮭釣り用の毛針が首相官邸に次々と届いた。
「約束すれば信頼できる男」(69歳・1938年)
1938年9月15日、チェンバレンはミュンヘンまで飛行機で飛び、ベルヒテスガーデンの山荘でヒトラーと約3時間会談した。19日付で妹に宛てた手紙には、その様子が細かく書かれている。ヒトラーは見た目がまったく目立たず、人混みにいても気づかないだろうという。会談した部屋には時計もなく、ミネラルウォーターが2本置かれていたが、勧められなかった。そして、顔に厳しさと冷酷さを見たものの、「ひとたび約束すれば信頼できる男だ」という印象を得たと記した。半年後の1939年3月、ドイツはチェコスロヴァキアの残りの地域を占領し、この見立ての誤りは明らかになった。
出典・参考資料