レフ・トロツキー

トロツキー

Trotsky, Lev Davidovich

1879年11月7日 – 1940年8月21日 (60歳没)

ロシア 政治家

レフ・トロツキーの人物情報

ロシアの革命家、政治家。本名はレフ・ダヴィドヴィチ・ブロンシテインで、ロシア帝国南部(現ウクライナ)ヘルソン県ヤノフカのユダヤ人農場主の家に生まれた。1905年革命でペテルブルク・ソヴィエトを率い、1917年にはレーニンとともに十月革命の武装蜂起を指揮した。陸海軍人民委員として赤軍を創設して内戦を勝ち抜いたが、逃げた兵士の銃殺やクロンシュタット反乱の鎮圧など、苛烈な手段もためらわなかった。レーニンの死後、スターリンとの権力闘争に敗れて1929年に国外追放となる。亡命先から批判を続けたが、1940年、メキシコでソ連の工作員に暗殺された。

同時代の人物

トロツキーは1879年11月7日(旧暦10月26日)に生まれた。同じ年の3月にはアインシュタインが生まれている。宿敵となるスターリンは11か月ほど年上である。日本では、作曲家の滝廉太郎が2か月半早く、彫刻家の荻原守衛と作家の永井荷風が3〜4週間遅く生まれた。トロツキーが2度目の脱走を果たした1907年、荷風はアメリカからフランスへ渡っている。

トロツキーが亡くなった1940年には、6月に同い年の画家クレー、10月に漂泊の俳人種田山頭火、11月にスペイン共和国最後の大統領アサーニャが世を去った。アサーニャもまた、亡命先のフランスでの死だった。

年齢で見る生涯

  • 18歳(1898年1月) 南ロシア労働者同盟を組織し、初めて逮捕される
  • 22歳(1902年) シベリアの流刑地から脱走。偽の旅券に書き込んだ「トロツキー」が、その後の名前になる
  • 26歳(1905〜06年) ペテルブルク・ソヴィエトの議長を務め、逮捕されて終身流刑の判決を受ける
  • 38歳(1917年11月7日) ペトログラードで十月革命の武装蜂起を指揮。新暦ではこの日が、ちょうど38歳の誕生日だった
  • 38〜41歳(1918〜21年) 陸海軍人民委員として赤軍をつくり、内戦を戦う。寝返った指揮官の家族の逮捕を予告する命令も出した。1921年3月にはクロンシュタットの水兵反乱を武力で鎮圧した
  • 48〜49歳(1927〜29年) 党を除名され、カザフスタンのアルマ・アタへ流刑。1929年2月に国外追放となる
  • 57歳(1937年1月) トルコ、フランス、ノルウェーを経てメキシコに渡る
  • 60歳(1940年8月) メキシコシティ郊外のコヨアカンで襲われ、翌日死去

権力の中枢にいたのは38歳からの10年ほどにすぎない。22歳の最初の脱走から数えると、国外で暮らした年月は合わせて20年を超える。

人物のつながり

  • レーニン:9歳上。1903年の党分裂後は激しく対立したが、1917年に合流し、十月蜂起と内戦をともに担った。
  • スターリン:レーニン死後の後継争いの相手。敗れたトロツキーは亡命先から批判を続け、1940年、スターリンの命を受けたソ連の工作員に殺された。
  • ディエゴ・リベラ、フリーダ・カーロ:リベラの働きかけでメキシコへの亡命が実現し、夫妻はカーロの生家「青い家」に2年ほど住んだ。カーロは一時トロツキーと恋愛関係になり、1937年の彼の誕生日に自画像を贈っている。リベラとは1939年に仲違いした。
  • シケイロス:壁画運動の画家で、熱心なスターリン支持者。1940年5月24日未明、警官に変装した武装集団を率いて家を襲い、寝室に銃弾を撃ち込んだ。夫妻は床に伏せて助かったが、14歳の孫が足を撃たれ、護衛の青年は連れ去られて殺された。

エピソード

酔った御者の頭巾をはいで凍えさせる(27歳・1907年)

北極圏の流刑地へ送られる途中、トロツキーは仲間の医師に教わって坐骨神経痛を装い、ベリョーゾヴォの病院に残った。1907年2月18日(旧暦)の深夜、トナカイ3頭立ての橇で脱走する。案内役のニキーフォルは道に通じていたが、大酒飲みだった。出発早々に泥酔して眠り込み、橇が止まる。トロツキーは相手の頭巾をはいで頭を寒気にさらし、「ちゃんと座って走らせないなら、雪に放り出して一人で行く」と怒鳴った。途中の小屋で酒盛りを始めた御者は、トロツキーの毛皮外套まで着込んでいたという。それでも1週間後には、技師を名乗ってウラルで汽車に乗っている。

「10人に1人」の銃殺(38歳・1918年)

1918年8月、白軍側にカザンを奪われたヴォルガ戦線に、トロツキーは専用列車で乗り込んだ。近くのスヴィヤシスク駅に着くと、部隊が勝手に退却すれば「最初にコミッサールを、次に指揮官を銃殺する」と命じた。まもなく第2ペトログラード連隊が奇襲を受けて逃げると、野戦軍法会議は連隊長とコミッサールらを銃殺刑に処した。党幹部グーセフの回想によれば、兵士も「10人に1人」が撃たれた。処刑者は27人とも41人ともいわれる。9月にカザンは奪還され、この「鉄の規律」は赤軍に広がった。トロツキーは後年の自伝でも、死刑なしに大衆を死地へ導くことはできないと、この方針を正当化している。

ウサギ小屋とサボテン掘り(57〜60歳・1937〜40年)

メキシコ・コヨアカンの家で、トロツキーは毎朝ウサギとニワトリの世話を日課にしていた。護衛の若者を連れて郊外へ出かけ、厚い手袋とつるはしで大きなサボテンを掘り出して庭に植えるのも楽しみだった。妻ナターリヤは「懲役」とからかい、本人は「狩りの次にいい」と言った。1940年8月20日の夕方、ナターリヤが見ると、夫はウサギ小屋の前で餌をやっていた。そばには原稿を見てほしいと訪ねてきたラモン・メルカデルがいた。ウサギから離れがたい様子のトロツキーは、小屋の戸をきちんと閉め、手袋を外して書斎へ向かう。そこで背後からピッケルで頭を打たれ、翌日亡くなった。

出典・参考資料

  • Wikipedia(ru)「Троцкий, Лев Давидович」「Кронштадтское восстание (1921)」、Wikipedia「レフ・トロツキー」、Wikipedia(es)「Museo Casa de León Trotsky」
  • Л. Троцкий「Туда и обратно」(1907年、第2部「Обратно」。Искра Research 掲載テキスト、web.archive.org 経由)、Троцкий『Моя жизнь』第15章(坐骨神経痛の仮病と医師フェイトの助言。英訳 My Life, ch. XV, marxists.org で確認)、ИА Красная Весна「Побег Льва Троцкого из Сибири」
  • Wikipedia(ru)「Троцкий в Свияжске (1918)」(命令第18号、グーセフの証言、ライスネルの数字)、Реальное время「Троцкий в Свияжске: «Нельзя вести массы людей на смерть, не имея в арсенале командования смертной казни»」
  • Natalia Sedova Trotsky「How It Happened」(1940年11月執筆、marxists.org)、Hoover Institution「Trotsky in Exile」「Shanghai to Coyoacán—The Camera Eye of Alexander Buchman」(サボテン採り)、La Izquierda Diario「Recinto que guarda la memoria histórica del revolucionario ruso」、Pie de Página「Trotsky, el coleccionista de cactáceas」
  • 人質の命令:Родина「Брал ли Троцкий в заложники семьи военспецов」(2025年)
  • シケイロスの襲撃:Infobae「La noche que David Alfaro Siqueiros trató de matar a Trotsky」、México Desconocido「Siqueiros, el muralista mexicano que intentó matar a León Trotski」