ウラジーミル・レーニン

レーニン

Lenin, Vladimir Il'itch

1870年4月22日 – 1924年1月21日 (53歳没)

ロシア 政治家

ウラジーミル・レーニンの人物情報

ロシアの革命家、政治家。本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフで、ヴォルガ河畔のシンビルスク(現ウリヤノフスク)に生まれた。兄が皇帝暗殺計画で処刑されたのち革命運動に入り、流刑と亡命を経てボリシェヴィキ党を率いた。1917年11月(旧暦10月)に武装蜂起で権力を握り、人民委員会議議長となる。秘密警察チェーカーによる「赤色テロ」で反対派を弾圧し、内戦と穀物の強制徴発の中で多くの犠牲者を出した。1921年に新経済政策(ネップ)へ転じ、1922年にソ連を成立させたが、同じ年から脳卒中に倒れ、1924年に53歳で死去した。

同時代の人物

レーニンが生まれた1870年、日本では物理学者の本多光太郎が2か月早く生まれている。KS鋼を発明した「鉄の神様」と、世界初の社会主義国家をつくった革命家が同い年ということになる。同じ年の12月にはイギリスの短編作家サキが生まれたが、サキは第一次世界大戦の西部戦線で1916年に戦死し、ロシア革命を見ることはなかった。

1869年生まれのガンディーはわずか半年年上である。同じ世代の二人が、片や非暴力、片や「革命的暴力」を掲げて20世紀の政治を動かした。チャーチルは4歳下で、陸軍大臣としてロシア内戦への英国の干渉を最も強く推した一人だった。ロシアの作曲家ラフマニノフは3歳下で、革命直後の1917年末に国を離れ、二度と戻らなかった。

レーニンが亡くなった1924年には、カフカが6月、黒田清輝が7月、プッチーニが11月に世を去っている。

年齢で見る生涯

  • 17歳(1887年) 兄アレクサンドルが皇帝暗殺未遂で絞首刑に。同じ年、学生集会に加わってカザン大学を退学処分となる
  • 21歳(1891年) ペテルブルク大学の法学試験に外部生として合格。翌年からサマーラで弁護士補として働く
  • 25〜30歳(1895〜1900年) ペテルブルクで逮捕され、シベリアのシュシェンスコエに流刑
  • 33歳(1903年) 党大会で党がボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂
  • 47歳(1917年) 4月、亡命先のスイスからドイツ経由の「封印列車」で帰国。11月に武装蜂起で権力を握る
  • 47〜48歳(1918年) 1月に憲法制定議会を解散。8月に狙撃されて重傷を負い、翌月「赤色テロ」の布告が出る
  • 50歳(1921年) クロンシュタットの水兵反乱を武力で鎮圧し、同じ月にネップを導入。この年から翌年にかけてヴォルガ流域などの大飢饉で数百万人が亡くなった
  • 52〜53歳(1922〜24年) 1922年5月に最初の脳卒中。翌年3月には言葉を失い、1924年1月、モスクワ郊外のゴールキで死去

権力を握ってから病で政務を離れるまでは、わずか5年あまりである。しかしその短い期間に、一党独裁と秘密警察という、後継者スターリンが引き継いで拡大する統治の仕組みがつくられた。

人物のつながり

  • スターリン:8歳下。1922年、レーニンの後押しで党書記長に就いた。しかし病床のレーニンは1923年1月、口述した「大会への手紙」の追記で「スターリンは粗暴すぎる」として書記長からの解任を求めた。同年3月には、妻クループスカヤに暴言を吐いたとしてスターリンに謝罪を要求する手紙も口述している。
  • トロツキー:9歳下。革命前は論敵で、レーニンは1911年の未発表原稿で彼を「ユダシカ(小ユダ)」と罵ったこともある。1917年に合流し、十月蜂起の実務と赤軍の創設を担った。「大会への手紙」では「現在の中央委員会で最も有能な人物」と評しつつ、自信過剰を戒めている。
  • ゴーリキー:2歳上の作家で、亡命時代からの友人であり資金面の支援者でもあった。ただし十月革命後は自分の新聞でボリシェヴィキの暴力を批判し、新聞は1918年に発禁となる。逮捕された知識人の助命を繰り返し頼み込んだが、1921年、レーニンは療養を理由に国外へ出るよう彼に強く勧めた。
  • H・G・ウェルズ:1920年10月にクレムリンでレーニンと会見した。著書『影の中のロシア』では、全土の電化を熱っぽく語るレーニンを「クレムリンの夢想家」と呼んでいる。

エピソード

渡し船の独占商人を訴えた新人弁護士(22歳・1892年)

サマーラで弁護士補をしていた1892年の夏、ウリヤノフ青年は義兄マルク・エリザロフとシズラニでヴォルガ川を渡ろうとした。当時、この渡しは富裕な商人アレフィエフが独占しており、客が小舟を雇うと汽船で追いかけて連れ戻させていた。二人の舟もこうして引き戻される。弟ドミトリーの回想によれば、ウリヤノフは「その横暴は法廷で償わせる」と言い放ち、本当に「自力救済」の罪で告訴した。担当の郡役人は審理を引き延ばし、わざと早朝に期日を入れたが、彼はそのたびにシズラニまで出向き、3回目の審理で商人に1か月の拘留を言い渡させた。地元の「サマーラ新聞」も10月にこの結末を報じている。

強盗に拳銃と車を奪われた政府首班(48歳・1919年)

1919年1月6日の夕方、ソコーリニキで療養中の妻クループスカヤを訪ねる途中のレーニンの車が、モスクワ市内で6人組の強盗に止められた。同乗していたのは妹マリヤ、運転手ギリ、護衛1人。レーニンは名乗ったが、強盗の頭目ヤコフ・コシェリコフは名前を聞き違えたらしく、「レヴィンだろうが知ったことか」と言ったと伝えられる。一行は書類とブローニング拳銃を取られ、車ごと持ち去られた。コシェリコフは後で相手の正体を知って悔しがったといい、同年夏にチェーカーとの銃撃戦で死んでいる。翌年、レーニンは著書『共産主義における「左翼」小児病』で、妥協の正しい例として「武装した強盗に車を止められ、金と旅券と拳銃と車を渡して、強盗との嫌な付き合いから解放される」場面を挙げた。自分の体験をそのまま使ったのである。

「見せしめに100人を絞首せよ」(48歳・1918年)

1918年8月、穀物の強制徴発に反発したペンザ県の農民が蜂起し、徴発隊員らを殺害した。報告を受けたレーニンは11日、現地の党幹部に自筆でこう書き送っている。「必ず絞首刑にせよ(民衆が見るように)、名の知れたクラーク、富農、吸血鬼を100人以上」。さらに名前の公表、穀物の没収、人質の指定を命じ、追伸に「もっと強硬な人間を探せ」と添えた。原本は秘書の代筆ではなく、レーニン自身の筆跡である。この手紙はソ連時代の全集には収められず、原本はソ連崩壊後に公開された。同じ年の9月には「赤色テロ」が布告され、チェーカー幹部ラツィスの公式集計だけでも、1918年から翌年半ばまでに8,000人以上が銃殺されている。研究者の推計では、実際の数はこれを大きく上回る。

出典・参考資料

  • Wikipedia(ru)「Ленин, Владимир Ильич」、Wikipedia「ウラジーミル・レーニン」「赤色テロ」「レーニンの遺書」
  • Samaratoday.ru「Истории Самары: 30 января. …Ленин в суде (1892)」、leninism.su「В. И. Ленин — юрист」(第14の事件としてアレフィエフの訴訟を記載)、Д. И. Ульянов「Случай с купцом Арефьевым」(回想)、「Самарская газета」1892年10月3日号「Финал Арефьевского дела」(二次資料による)
  • Wikipedia(ru)「Кошельков, Яков」、Аргументы и Факты「Кошельков против Ленина」、С. К. Гиль『Шесть лет с В. И. Лениным』(運転手の回想)、Ленин「Детская болезнь «левизны» в коммунизме」第4章(Викитека)
  • Электронная библиотека исторических документов(Российское историческое общество)「Письмо В.В. Кураеву, Е.Б. Бош, А.Е. Минкину. 11 августа 1918 г.」(『В.И. Ленин. Неизвестные документы. 1891–1922』РОССПЭН 所収。РГАСПИ〔旧РЦХИДНИ〕ф. 2, оп. 1, д. 6898、自筆)、Wikipedia(ru)「Ленинский приказ о повешении」