ヘンリー・フィールディング
フィールディング
Fielding, Henry
1707年4月22日 – 1754年10月8日 (47歳没)
ヘンリー・フィールディングの人物情報
イギリスの小説家、劇作家、治安判事。サマセットに生まれ、イートン校で学んだ。20代は劇場で喜劇や政治風刺劇を書いたが、1737年の演劇検閲法で舞台を追われ、弁護士となる。リチャードソンの『パメラ』をからかう『シャミラ』などで小説に転じ、1749年に『トム・ジョーンズ』を出した。同じころウェストミンスターの治安判事となり、異母弟ジョンとともに捕り手の組織「ボウ・ストリート・ランナーズ」をつくった。療養に向かったリスボンで、47歳で没した。
同時代の人物
同じ世代には、1歳上のフランクリン(DB名「ベンジャミン・フランクリン」)、4歳下のヒューム(DB名「デヴィッド・ヒューム」)、6歳下で『トリストラム・シャンディ』のスターン(DB名「ローレンス・スターン」)がいる。
意外な組み合わせは、清の呉敬梓である。科挙に振り回される知識人を風刺した『儒林外史』の作者で、6歳ほど年上。東西の風刺小説の書き手が、同じ1754年に世を去った。
日本では、フィールディングが17歳だった1725年1月に近松門左衛門が世を去った。与謝蕪村と伊藤若冲は9歳下である。
年齢で見る生涯
演劇検閲法から『トム・ジョーンズ』までは12年。劇場を追われたことが、小説家と治安判事という二つの後半生につながった。
人物のつながり
エピソード
「タッカー親子は田舎者にして臆病者」(18歳・1725年)
イートン校を出たばかりのフィールディングは、港町ライム・リージスで、商人の遺産を継ぐ15歳ほどのサラ・アンドルーに夢中になった。後見人の叔父タッカーは、彼女を自分の息子と結婚させるつもりだった。1725年11月、フィールディングは召使いを連れ、教会へ向かうサラを連れ去ろうとしたが、一家に撃退される。タッカーが町長の法廷に訴えると、本人は出廷せずに町を離れた。去り際に張り出したのが「世間に告ぐ。アンドルー・タッカーとその息子ジョン・タッカーは田舎者にして臆病者なり」という手書きの貼り紙で、いまもライム・リージス博物館に残る。サラは別の後見人の息子と結婚した。『トム・ジョーンズ』のヒロイン、ソファイアのモデルとも言われる。
「この世で最も汚い金」を自ら減らした判事(46歳・1753年)
1753年8月、ロンドンで1週間に5件の殺人が起き、フィールディングは国務大臣ニューカッスル公に対策を求められた。4日ほどで計画書を出して600ポンドを預かると、密告者を雇い、腕利きの捕り手たちに一味を捕らえさせた。7人が捕まり、残りはロンドンや国外へ逃げた。本人の記録によれば、その年の11月と12月には殺人も路上強盗も一件もなかったという。当時の治安判事は手数料が収入で、私腹を肥やす者が多かった。彼は貧しい人のけんかは仲裁で収め、一文無しからは手数料を取らなかったため、年500ポンドほどあった「この世で最も汚い金」が300ポンド余りに減ったと書いている。
嘲りの中の船出、場所のわからない墓(47歳・1754年)
1754年の初め、水腫で腹から10リットル以上の水を抜くほど衰えたフィールディングは、リスボンでの療養を決めた。6月26日、テムズ河畔のロザーハイズで、手足の利かない体を男たちに抱えられてボートに乗り、滑車付きの椅子で船に吊り上げられた。その途中、並んだ船乗りや船頭たちは、やせ衰えた姿をさんざんにからかった。『リスボン航海記』で彼は、腹は立てなかったが人間の残酷さを見る思いがしたと書いている。リスボンに着いたのは8月で、2か月ほどで亡くなった。英国人墓地には1830年に建てられた記念碑があるが、1754年6月から1762年8月までの埋葬記録が失われており、本当の墓の場所はわかっていない。
出典・参考資料