デヴィッド・ヒューム
ヒューム
Hume, David
1711年5月7日 – 1776年8月25日 (65歳没)
デヴィッド・ヒュームの人物情報
スコットランドの哲学者・歴史家。エディンバラに生まれ、12歳にもならないうちにエディンバラ大学で学んだ。20代前半にフランスのラ・フレーシュで『人間本性論』を書き、27歳で匿名で出したが、ほとんど反響はなかった。原因と結果の結びつきは物事のなかに見えるものではなく、習慣から生まれる期待だと論じたその哲学は、のちにカントを「独断のまどろみ」から目覚めさせる。無神論者と見なされて大学の職には就けなかったが、『イングランド史』で名声を得た。
同時代の人物
ヒュームと同じ1711年には、清の乾隆帝が生まれている。1歳下にはプロイセンのフリードリヒ2世がいる。日本では、伊藤若冲と与謝蕪村が5歳下の1716年生まれである。5歳上のフランクリンは、1771年秋にヒュームの新居に泊まった。
ヒュームが65歳で亡くなった1776年は、ジェファーソン(33歳)らのアメリカ独立宣言が出た年である。親友アダム・スミス(53歳)の『国富論』と、ギボン(39歳)の『ローマ帝国衰亡史』第1巻も同じ年に出た。ヒュームは病床で両方を読んで褒めている。日本では平賀源内がエレキテルを復元した年にあたる。
年齢で見る生涯
生前のヒュームは、哲学者より歴史家として有名だった。27歳の哲学書は売れず大学にも二度落ちたが、40代の歴史書で名を上げた。
人物のつながり
エピソード
パリの寸劇でスルタン役、15分間「さて、お嬢さんがた」(53歳・1765年頃)
パリのサロンでは、即興の寸劇で格言を演じて客に当てさせる遊びがはやり、婦人たちは「大柄で太った」ヒュームにも役を振った。デピネ夫人の手紙によれば、ヒュームは二人の女奴隷に言い寄るスルタンを演じることになった。パリ一の美女二人にはさまれてソファに座ると、二人をじっと見つめ、腹と膝を何度もたたきながら「さて、お嬢さんがた……さて、そこにおいでか……」と繰り返すばかり。これが15分続いた。しびれを切らした一人が「この人は子牛を食べるくらいしか能がないのね」と席を立ち、以後ヒュームは見物役に回された。それでも夕食会にはいつも招かれる人気者だった。
沼にはまり「主の祈り」を唱えさせられる(59歳前後・1770年頃、伝承)
新居の工事を毎日見に通っていたヒュームは、近道として湿地のノース・ロッホを横切っていた。ある日、足を滑らせて沼にはまり、抜け出せなくなる。通りかかった魚売りの女たちに助けを求めたが、相手が「不信心者のヒューム」だと気づくと、女たちは「主の祈り」を厳かに唱えなければ助けないと言った。ヒュームはつかえずに唱え、無事に引き上げられた。ヒュームはこの話を愉快そうに語り、エディンバラの魚売り女ほど鋭い神学者はいないと言ったという。ただし、この話が活字になったのは死後78年の1854年で、真偽はわからない。
ボズウェルが見届けた「無神論者の死に方」(65歳・1776年7月7日)
死の7週間前、信心深い伝記作家ボズウェルが、来世を信じない人間の死に際を確かめにやって来た。ヒュームはやせ細っていたが、穏やかで快活だった。来世はありうるかと問われると、「火にくべた石炭が燃えないこともありうる」と答えた。死んで無になるのが不安ではないかと聞かれると、少しも不安ではなく、生まれる前に存在しなかったことと同じだと答えた。ボズウェルは「一時的な疑念に襲われた」と書き、動揺は1か月ほど続いた。後年には、ヒュームが実は敬虔なキリスト教徒だったと記す日記を見つける夢まで見ている。
出典・参考資料