ルイ18世

ルイ

Louis XVIII

1755年11月17日 – 1824年9月16日 (68歳没)

フランス 王侯

ルイ18世の人物情報

ブルボン朝のフランス王(在位1814〜15年、1815〜24年)。ルイ16世の1歳下の弟で、即位前はプロヴァンス伯と呼ばれた。1791年6月、兄一家がヴァレンヌで連れ戻された夜に別の道で国外へ逃れ、以後23年近くを亡命者として過ごす。1795年に甥ルイ17世が獄中で亡くなるとルイ18世を名乗り、ヴェローナ、ミタウ、ワルシャワ、英国のハートウェルと居を移した。1814年のナポレオン退位で帰国し、立憲的な「憲章(シャルト)」を発布する。百日天下ではヘント(ガン)へ逃れ、ワーテルローの戦いのあと復位した。痛風と肥満に苦しみ、車椅子の自分を「肘掛け椅子の王」と呼んだ。王位にあったまま亡くなった、フランス最後の国王である。

同時代の人物

ルイ18世が生まれた1755年11月17日の5日前、11月12日には、のちにプロイセン軍を改革するシャルンホルストが生まれている。シャルンホルストが鍛え直した軍は、ナポレオンを倒してルイ18世を玉座に戻す原動力の一つになったが、本人は1813年、解放戦争のさなかに亡くなり、王政復古を見ていない。2か月あまり後の1756年1月にはモーツァルトが生まれた。兄のルイ16世は1歳3か月上である。

日本では、鶴屋南北が同じ1755年に生まれた。ルイ18世が亡くなった翌年の1825年、南北は江戸・中村座で『東海道四谷怪談』を初演している。

年齢で見る生涯

  • 15歳(1771年) サルデーニャ王女マリー=ジョゼフィーヌと結婚
  • 35歳(1791年) 6月20日夜、兄一家と同じ夜にパリを脱出する。兄は連れ戻され、弟だけが国境を越えた
  • 37歳(1793年) 兄ルイ16世が処刑される
  • 39歳(1795年) 甥ルイ17世の死を受け、亡命先でルイ18世を名乗る
  • 41〜45歳(1797〜1801年) ロシア皇帝パーヴェル1世の庇護で、クールラントのミタウに住む
  • 58歳(1814年) 5月3日にパリへ入り、6月4日に憲章を発布
  • 59歳(1815年) 3月19日、ナポレオンの接近でパリを離れ、7月8日に復位。南仏では王党派による報復の暴力「白色テロ」で300〜500人が殺され、12月にはネイ元帥が銃殺された
  • 68歳(1824年) 9月16日、テュイルリー宮殿で死去

名目上の王となったのは39歳、実際に玉座に就いたのは58歳だった。35歳から58歳まで、壮年期をまるごと国外で過ごしたことになる。

人物のつながり

  • ルイ16世:1歳上の兄。1791年6月20日の同じ夜にそれぞれパリを脱出したが、兄はヴァレンヌで捕まった。
  • ナポレオン・ボナパルト:14歳近く年下。1800年2月、亡命中の王は第一統領に、王位を返すよう求める手紙を送ったが、9月に拒む返書が届いた。そのナポレオンの2度の没落が、王を2度玉座に戻した。
  • シャトーブリアン:1814年の小冊子『ブオナパルトとブルボン家について』で王政復古を後押しした。1822年から王の外相を務めたが、1824年に罷免されている。

エピソード

偽造旅券で「フォスター兄弟」になる(35歳・1791年)

脱出の旅券は、愛人バルビ夫人が残していった古い英国大使館の旅券だった。名義は「フォスター氏と令嬢」、日付は4月23日で、有効期間は15日しかない。寵臣ダヴァレーは15分足らずで文字を削り、「フォスター氏2人と令嬢」、6月13日付に書き換えた。2人は「ミシェルとダヴィッドのフォスター兄弟」を名乗る。下着の頭文字のM、D・Aと食い違わないよう選んだ名だった。英国なまりで通して国境の手前の堀を越えると、王は帽子の三色帽章をむしり取ったという。後年、王はこの逃避行を自ら書き残し、ダヴァレーに「わが解放者へ」と献じている。

「あと1ライン下なら、シャルル10世だ」(40歳・1796年)

1796年7月19日の夜、ドナウ河畔の町ディリンゲンの宿「金の星」で、窓辺に立った王を通りからの銃弾が襲った。弾は額をかすめた。随員の回想録によれば、血まみれの王を見たダヴァレーが「あと1ライン(約2ミリ)下なら」と足元に崩れると、王は「友よ、そのときはシャルル10世がいるだけだ」と、王位を継ぐはずの弟の名を挙げて答えたという。町の記録では傷は軽く、犯人は見つからなかった。王は翌日には旅を続けている。

「死者も負傷者もなし」の雪の旅(45歳・1801年)

1801年1月、パーヴェル1世は突然、ミタウからの退去を命じた。22日、王は姪のアングレーム公爵夫人(ルイ16世の娘)と雪の中を出発する。4日目には吹雪で馬車が進めず、肥満で足の弱った王は姪の腕にすがって歩いた。それでもワルシャワに着いた王の手紙は陽気である。馬車は溝に横倒しになり、馬が1頭溺れ、ヴィスワ川の前で2日足止めされたが、「死者も負傷者も出なかったのだから幸運な旅だ」。2時間も雪と氷に足を浸して痛風を覚悟したのに、「図々しくもすこぶる元気だ」と結んでいる。

出典・参考資料

  • Wikipédia(fr)「Louis XVIII」(生年月日と生地、1771年5月14日の結婚、1795年6月8日のルイ17世の死、1797〜1801年のミタウ、1809年のハートウェル、1814年5月3日のパリ入城、6月4日の憲章、1815年3月19日の出発と7月8日の復位、1824年9月16日の死去、「roi fauteuil」)、Wikipédia(fr)「Terreur blanche de 1815」(犠牲者300〜500人、ネイの銃殺1815年12月7日)、Fondation Napoléon「Chronologie de la Correspondance générale de Napoléon Bonaparte, tome 3」(1800年2月20日の王の手紙)、napoleon-empire.org「Chronology 1800」(1800年9月7日の返書)、Deutsche Biographie「Scharnhorst, Gerhard von」、tabi-mag.jp・コトバンク「東海道四谷怪談」(1825年7月初演)、Wikipedia「ルイ18世 (フランス王)」
  • Louis XVIII『Relation d'un voyage à Bruxelles et à Coblentz (1791)』(Paris, Baudouin frères, 1823。archive.org の全文 relationdunvoyag00loui で確認)
  • [Philippe d'Hardouineau]『Mémoires secrets et inédits pour servir à l'histoire contemporaine』第2巻(Beauchamp 編、1825年。Wikisource)
  • Stadtarchiv Dillingen「Das Attentat auf Ludwig XVIII. in Dillingen」(2018年。Jahrbuch des Historischen Vereins Dillingen 第5巻、1892年、153頁に依拠)
  • Ernest Daudet『Histoire de l'Émigration pendant la Révolution française』第3巻(Project Gutenberg 47473。ミタウ退去と王の書簡)