アレクサンドル1世

アレクサンドル

Aleksandr I

1777年12月23日 – 1825年12月1日 (47歳没)

ロシア 王侯

アレクサンドル1世の人物情報

ロシアの皇帝で、在位は1801年から1825年まで。パーヴェル1世の長男としてペテルブルクに生まれ、祖母エカチェリーナ2世の手元で育った。スイス人の家庭教師ラ・アルプから啓蒙思想を学ぶ。1801年、父が宮廷クーデターで殺害されたあと即位し、初めは若い側近たちと改革を構想した。1807年にティルジットでナポレオンと和約を結んだが、1812年にはその侵攻を退け、1814年に連合軍を率いてパリに入った。ウィーン会議ののち神聖同盟を提唱し、晩年は神秘主義に傾いた。1825年、旅先の南ロシアのタガンログで47歳で亡くなった。

同時代の人物

同じ1777年の4月には、ドイツの数学者ガウスが生まれている。皇帝と「数学の王」は同い年である。2歳上にはジェイン・オースティンとターナーがいる。オースティンの誕生日は1775年12月16日で、アレクサンドルのちょうど2年と1週間前にあたる。

日本では、戯作者の式亭三馬が1歳上、頼山陽が3歳下である。

1819年に生まれたイギリスのヴィクトリアは、アレクサンドルが名付け親の一人だった。洗礼名「アレクサンドリナ」は、この皇帝の名にちなむ。

年齢で見る生涯

  • 15歳(1793年) バーデン辺境伯家の公女ルイーゼ(エリザヴェータ・アレクセーエヴナ)と結婚
  • 17歳(1795年) 師ラ・アルプが宮廷を去り、スイスへ帰る
  • 23歳(1801年) 父パーヴェル1世が殺害され、即位する
  • 26歳(1804年) 皇帝の親書を携えた使節レザノフが長崎に来航するが、幕府は受け取らなかった
  • 29歳(1807年) ティルジットでナポレオンと和約を結ぶ
  • 34歳(1812年) ナポレオンのロシア遠征を退ける
  • 36〜37歳(1814〜15年) 連合軍を率いてパリに入城。ウィーン会議に臨み、神聖同盟を提唱する
  • 47歳(1825年) タガンログで死去

23歳で帝位に就き、34歳でナポレオンの大軍を迎え撃った。8歳上のナポレオンが亡くなってから、4年半後に世を去っている。

人物のつながり

  • エカチェリーナ2世:祖母。孫を両親から引き離して手元で育て、息子パーヴェルを飛ばして孫に帝位を継がせることまで考えていた。
  • ナポレオン:ティルジットで手を結んだが決裂し、1812年に侵攻を受けた。2年後、アレクサンドルはパリに入城した。
  • プーシキン:1820年、皇帝を皮肉った警句詩などが問題になった。シベリア流刑も取り沙汰されたが、カラムジーンらのとりなしで、南方の役所への転勤で済んだ。
  • レザノフ:露米会社の幹部。1804年、皇帝の親書を携えて長崎に来航したが、半年余り待たされた末に通商を拒まれた。

エピソード

「生まれたこと以外のすべて」――師との別れ(17歳・1795年)

共和主義者のラ・アルプは宮廷で浮いた存在だった。本人の回想によれば、孫に帝位を継がせる計画に巻き込まれるのを避けたため、エカチェリーナ2世に遠ざけられたという。1795年5月、師が帰国することになると、17歳の大公は監視の目を逃れて宮殿を抜け出し、雇った辻馬車で師の宿を訪ねて泣いた。その晩の手紙には「生まれたこと以外のすべてをあなたに負っている」とある。2年後の手紙では、即位したら国民に代表を選ばせて憲法を与え、権力を手放して「静かな片隅」で暮らしたい、と打ち明けている。

「御者は馬のこと以外、知らなくてよい」(44歳・1822年)

1801年から皇帝の御者を務めたイリヤ・バイコフは、元農奴で、国内外のほぼすべての旅で手綱を取った。デカブリストのローレルの回想によれば、皇帝は行き先を口にせず、曲がる方向をうなずいて示すだけだった。御者はそのたびに振り返らなければならない。1822年のある日、バイコフがつい「存じております、陛下」と答えると、皇帝は怒って「御者は馬のこと以外、何も知らなくてよい」と言い、彼を衛兵所に留め置かせたという。それでも皇帝が亡くなったとき、遺体を乗せた馬車を操ったのはバイコフだった。

シベリアの老人になった皇帝?(伝説・1836〜64年)

皇帝の急死後、「本当は死んでいない」という噂が広まった。1836年9月、ペルミ県で身分証のない老人が浮浪者として捕まる。フョードル・クジミチと名乗った老人は、むち打ちのうえシベリアへ送られ、やがて信心深い隠者として敬われて、1864年にトムスクで亡くなった。この老人こそ退位して姿を消した皇帝だ、という伝説が生まれ、トルストイも小説に書きかけている。ただ、皇帝の伝記を書いた大公ニコライ・ミハイロヴィチが筆跡を比べた結果は別人で、歴史家の多くも伝説とみている。老人は1984年、正教会の聖人に列せられた。

出典・参考資料

  • Wikipedia「アレクサンドル1世」、Википедия「Александр I」(生没日・即位日、ティルジット、パリ入城)、Вокруг света「Александр I」(生没日の新旧暦)、コトバンク「アレクサンドル1世」(ブリタニカ国際大百科事典:1777.12.23〜1825.12.1)、Wikipedia(en)「Queen Victoria」(名付け親)、Википедия「Пушкин, Александр Сергеевич」(1820年の南方転出とカラムジーンのとりなし)、Википедия「Резанов, Николай Петрович」、国立公文書館デジタルアーカイブ、コトバンク「レザノフ」(長崎来航)
  • С. Экшут「Александр I и Лагарп: расставаясь с наставником, будущий император заплакал」『Родина』2016年第5号(vostlit.info に再録) https://www.vostlit.info/Texts/Dokumenty/Russ/XVIII/1780-1800/Lagarp/text4.htm
  • 原典:『Император Александр I и Фредерик-Сезар Лагарп: Письма. Документы』全3巻、А. Ю. Андреев、Д. Тозато-Риго編、РОССПЭН、2014年〜(第1巻164頁=1795年の別れ、338頁=1797年9月27日〔10月8日〕付書簡、363頁=ラ・アルプの回想)
  • Википедия「Байков, Илья Иванович」(Н. И. Лорер『Записки декабриста』、Булгаков 兄弟の往復書簡、英国公使夫人アン・ディズブラウの書簡を引く)
  • Weekend.Rambler.ru(© Кириллица)「Илья Байков: почему Александр I не расставался со своим кучером」2018年
  • Вел. кн. Николай Михайлович『Легенда о кончине императора Александра I в Сибири в образе старца Федора Козьмича』1907年(Президентская библиотека имени Б. Н. Ельцина https://www.prlib.ru/item/342047)
  • Википедия「Фёдор Кузьмич」(1836年の逮捕、1864年の死、筆跡鑑定、トルストイ『Посмертные записки старца Фёдора Кузьмича』、1984年の列聖)
  • Вокруг света「Тайная жизнь императора: 5 мифов и фактов об Александре I」(同一人物説への反論)