ナポレオン3世
ナポレオン(別名:ルイ・ナポレオン)
Napoléon III
1808年4月20日 – 1873年1月9日 (64歳没)
ナポレオン3世の人物情報
フランスの政治家で、第二共和政の大統領、第二帝政の皇帝である。ナポレオン・ボナパルトの甥にあたる。1836年と1840年に蜂起を企てて失敗し、アム要塞に6年近く幽閉されたが、1846年に脱獄した。1848年の二月革命の後に帰国し、12月の大統領選挙で75%近い票を得て当選する。1851年12月2日のクーデタで議会を解散し、抵抗した人々を大量に逮捕・流刑にしたうえで、翌年皇帝となった。在位中は鉄道網の整備やパリの改造を進め、クリミア戦争やイタリア統一戦争にも加わった。一方、メキシコ出兵は失敗に終わる。1870年の普仏戦争ではセダンで捕虜となって帝政が倒れ、亡命先の英国で没した。
同時代の人物
同じ1808年の2月、2か月早く生まれたのが風刺画家のオノレ・ドーミエである。ドーミエは1850年前後、棍棒を手にしたボナパルト派の扇動屋「ラタポワル」を描き、大統領ルイ・ナポレオンの一派を笑いものにした。
翌1809年にはリンカーンとダーウィンが生まれた。日本では、適塾の緒方洪庵が2歳下にあたる。1835年生まれの福沢諭吉は、1862年に幕府の遣欧使節団の一員としてパリを訪れた。この使節団はナポレオン3世に謁見している。
年齢で見る生涯
40歳までの彼は、2度の蜂起に失敗した亡命者で、囚人でもあった。そこから4年で皇帝となり、18年間その座にあった。
人物のつながり
エピソード
「バダンゲ」の名は脱獄より前からあった?(38歳・1846年)
1846年5月25日、ルイ・ナポレオンは要塞の改修工事にまぎれ、職人の服を着た。本棚の板を肩に担いで顔を隠し、白昼、堂々と門を出た。政敵はその後、服を借りた職人の名だとして、彼を「バダンゲ」と呼んで笑い続けた。ところが19世紀のラルース大辞典は、画家ガヴァルニの戯画「パリの学生」を紹介している。そこでは学生が恋人に骸骨を指して、「わからない? ウジェニーだよ、昔のバダンゲの女さ」と言う。のちの皇后ウジェニーと同じ名と「バダンゲ」が、脱獄の前に一枚の戯画で並んでいたことになる。あだ名の由来は今も定まっていない。
皇帝の著書が3時間で1万4000部(57歳・1865年)
若いころからカエサルに心酔していたナポレオン3世は、皇帝になると自ら『ユリウス・カエサル伝』の執筆に取りかかった。1861年にはアレシアの古戦場とされるアリーズ=サント=レーヌで発掘を始めさせ、1862年からは費用をすべて皇帝の私財でまかなった。1860〜61年には、実物大の三段櫂船まで造らせてセーヌ川で試している。こうした研究の総額は800万フランに近かったという。第1巻は1865年に出て、3時間で1万4000部が売れた。だが翌年の第2巻はそれほど売れず、本は未完に終わった。
蚕の卵のお礼にアラブ馬(59歳・1867年)
1850年代後半、蚕の伝染病が広がり、フランスの養蚕は大打撃を受けた。そこで病気に強い日本の蚕種(蚕の卵)が求められる。1864年に着任した公使ロッシュは、将軍徳川家茂と交渉して蚕種の輸出禁止を解かせた。家茂は皇帝に蚕種を贈り、皇帝はその返礼に1867年7月、日本の小型の馬を改良するためとして、アラブ馬25頭ほどを送った。しかし家茂は前年に急死しており、馬を受け取ったのは次の将軍慶喜だった。フランスは横須賀製鉄所や軍事顧問団でも幕府を支えたが、幕府は翌年に倒れた。
出典・参考資料