オットー・フォン・ビスマルク
ビスマルク
Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen
1815年4月1日 – 1898年7月30日 (83歳没)
オットー・フォン・ビスマルクの人物情報
プロイセンとドイツ帝国の政治家である。1862年にプロイセン首相に就くと、議会と対立しながら軍備を拡張した。デンマーク、オーストリア、フランスとの三度の戦争を経て、1871年にドイツ帝国を成立させ、初代の帝国宰相となった。国内ではカトリック勢力や社会主義者を厳しく抑える一方、世界に先駆けて疾病・災害・老齢の社会保険を整えた。外交では同盟網によってヨーロッパの勢力均衡を保とうとしたが、1890年に若い皇帝ヴィルヘルム2世と対立して辞任した。
同時代の人物
ビスマルクが生まれた1815年は、ナポレオンがワーテルローで敗れた年である。同じ年の4月、わずか23日後に、政治小説で知られる英国の作家アントニー・トロロープが生まれている。
少し下の世代には、ドイツで宰相の敵となる顔ぶれが並ぶ。
ヴィクトリア女王(→20110210000)は4歳下、ヴァーグナーは2歳上である。
日本では、適塾の緒方洪庵が5歳上にあたる。洪庵が亡くなった1863年は、ビスマルクが首相になった翌年である。宰相時代の後半には、森鴎外や北里柴三郎がドイツに留学している。
年齢で見る生涯
40代半ばまでは地主と外交官として過ごした。ドイツ統一は、47歳で首相に就いてから9年足らずのうちに成し遂げられた。
人物のつながり
エピソード
「鉄血宰相」の最初の勲章は人命救助(27歳・1842年)
のちに国王や皇帝から最高位の勲章を山ほど贈られたビスマルクが、特に大切にしたものは2つだけだったという。1870年の鉄十字章と、1842年の救命メダルである。まだ地方の地主だった27歳の夏、後備軍の演習中にリッペーネ(現ポーランドのリピアニ)の湖で、馬丁のヒルデブラントが溺れかけた。ビスマルクは自分の命も危ういなか、彼を水から引き上げた。「猪突猛進のユンカー」と陰口を言われていた若者の、最初の公式な勲章だった。
アメリカ民謡とマルセイエーズで録音した「音の手紙」(74歳・1889年)
1889年10月7日、エジソンの助手ヴァンゲマンが蓄音機を担いでフリードリヒスルーの屋敷を訪れた。政治的な発言をという頼みを断ったビスマルクは、英語の民謡、ウーラントの詩、ラテン語の学生歌、フランス国歌の一節を次々と口にした。最後は、ブダペストにいる息子ヘルベルトに「行儀よくせよ」と言い聞かせている。ヴァンゲマンが次にブダペストへ行くと聞いたからで、音声史家プイレはこれを「史上初の音の手紙」と呼ぶ。蝋管は2011年、米国のエジソン記念館の収蔵品から見つかった。
5発撃たれて「なんでもない」(51歳・1866年)
1866年5月7日の夕方、ベルリンのウンター・デン・リンデンを歩いて帰る途中、オーストリアとの戦争を止めようとした22歳の学生コーエン=ブリントに背後から撃たれた。ビスマルクは振り返って相手に組みつき、もみ合ううちに計5発が放たれた。病み上がりで季節外れの厚着をしていたおかげで、弾は肋骨の打撲で済んだという。帰宅すると妻に「今日、撃たれたよ。でもなんでもない」と告げたと伝えられる。エンゲルスはマルクスに「のっぽのビスマルクに5発撃って、なぜ当たらないのか」と首をかしげている。
出典・参考資料