ニコライ・ゴーゴリ

ニコライ・ゴーゴリ

ゴーゴリ

Gogol, Nikolai Vasilievich

1809年4月1日 – 1852年3月4日 (42歳没)

ロシア 作家

ニコライ・ゴーゴリの人物情報

ロシアの小説家、劇作家である。1809年、ロシア帝国領だったウクライナのポルタヴァ県ソロチンツィで、地主貴族の家に生まれた。19歳でペテルブルクに出て、故郷の民話に取材した『ディカーニカ近郷夜話』で認められた。1836年に喜劇『検察官』が初演されると、その年のうちに国外へ出て、主にローマで暮らした。1842年に長編『死せる魂』第1部と短編「外套」を発表する。晩年は宗教的な思索に傾き、1852年、『死せる魂』第2部の原稿を焼いた9日後にモスクワで亡くなった。

同時代の人物

1809年は「当たり年」で、1月にエドガー・アラン・ポー、2月にメンデルスゾーン(DB名フェリクス・メンデルスゾーン)、さらに同じ2月12日にダーウィンとリンカーンが生まれた。4月1日生まれのゴーゴリは4人の誰よりも年下だ。幻想と怪奇の作品を残したポーとは、40歳と42歳という短い生涯も似ている。

日本では、適塾を開いた緒方洪庵が翌1810年に生まれている。

年齢で見る生涯

  • 19歳(1828年12月) ペテルブルクへ出る
  • 20歳(1829年) 物語詩『ハンツ・キュヘリガルテン』を筆名で出すが酷評され、売れ残りを買い集めて焼く
  • 22歳(1831年) プーシキンと知り合う。『ディカーニカ近郷夜話』第1部を出す
  • 25〜26歳(1834〜35年) ペテルブルク大学で世界史の助教授を務める
  • 27歳(1836年) 『検察官』初演。皇帝ニコライ1世も観劇した。6月に国外へ
  • 33歳(1842年) 『死せる魂』第1部と「外套」を発表
  • 38歳(1848年) エルサレムへ巡礼
  • 42歳(1852年) 第2部の原稿を焼き、3月4日に死去

代表作のほとんどは22歳から33歳までの約10年間に書かれた。最初の作品も最後の作品も、自ら焼いたことになる。

人物のつながり

  • プーシキン:10歳上。1831年に知り合った。ゴーゴリは後年の「作者の告白」で、『検察官』と『死せる魂』の題材はプーシキンから得たと書いている。アンネンコフによれば、プーシキンは気乗りしないまま譲ったという。
  • ツルゲーネフ:9歳下。学生時代にゴーゴリの講義を聴いた(エピソード参照)。ゴーゴリの追悼文をモスクワの新聞に載せ、ニコライ1世の命で約1か月拘禁された。
  • ドストエフスキー:『貧しき人々』(1846年)で、主人公の小役人に「外套」を読ませて憤慨させている。なお「我々はみなゴーゴリの『外套』から出てきた」は彼の言葉として広まっているが、最古の例はフランスの批評家ヴォギュエの1885年の文章で、本人が言った証拠はない。

エピソード

教壇の作家、3回に2回は休講(25〜26歳・1835年)

1834年、ゴーゴリはペテルブルク大学の世界史の助教授になった。聴講生だった16〜17歳のツルゲーネフは後年の回想で、ゴーゴリが歴史を「教えていた」と書き、わざわざ「(!)」を添えている。3回のうち2回は必ず休み、出てきても小声で要領を得ない話をしながら、パレスチナなどの小さな版画を見せるばかり。学生たちは「歴史のことは何もわかっていない」と確信していたという。試験の日には、頭を布で縛って歯痛ということにし、ひと言もしゃべらずに座っていた。質問は同僚の教授が代わりにした。

「みなしごになったでしょう」とマカロニを持参(30歳・1840年)

1840年1月(旧暦3日)、昼食の2時間ほど前、モスクワの作家アクサーコフの家にゴーゴリが駆け込んできた。前日に夫人と娘が旅に出たのを受けて、「みなさんは今みなしごだから、慰めに来た」と言い、ポケットからマカロニとパルメザンチーズ、バターまで取り出した。わざとゆで足りない状態で出させると、袖口をまくって自ら仕上げにかかる。たっぷりのバターに塩、胡椒、チーズを加え、ソース用のスプーン2本で延々と混ぜた。チーズが糸を引き始めると、皆を急かして皿に取らせた。生煮えで胡椒が効きすぎだと感じた者もいたが、本人は大満足で山ほど食べた。アクサーコフは「運命が彼を大詩人にしなかったら、きっと料理の名人になっていただろう」と書いている。

原稿を焼いた夜(42歳・1852年)

1852年2月23日から24日にかけての夜(旧暦11日から12日)、モスクワの家で長く祈ったゴーゴリは、午前3時前に召使いの少年を起こして暖炉の煙道を開けさせた。ひもで束ねたノートを火にくべると、少年はひざまずいて止めたが、「おまえの知ったことではない。祈れ」と答えた。束のままでは端が焦げただけで火が消えたので、ほどいて燃え尽きるまで見届けたという。医師タラセンコフの記録によれば、ゴーゴリは同居するトルストイ伯爵(作家のレフ・トルストイとは別人)に「前から用意していたものだけ焼くつもりが、全部焼いてしまった。悪魔はなんと強いのか」と嘆いた。伯爵が「前にも焼いて、もっと良いものを書き直したではないか」と慰めると、少し気を取り直したという。9日後、ゴーゴリは亡くなった。

出典・参考資料

  • Wikipedia(ru)「Гоголь, Николай Васильевич」「Ревизор (комедия)」「Ганц Кюхельгартен」、コトバンク「ゴーゴリ」
  • И. С. Тургенев「Гоголь」(『Литературные и житейские воспоминания』、初出1869年。Викитека)
  • С. Т. Аксаков『История моего знакомства с Гоголем』(1840年1月3日の項。Викитека)
  • В. В. Вересаев『Гоголь в жизни』第2巻(М. П. Погодин「Москвитянин」1852年5号の記事、А. Т. Тарасенков『Последние дни жизни Н. В. Гоголя』を引用した箇所。Викитека)
  • Мел「Последние дни жизни Гоголя: как умирал писатель и правда ли его похоронили заживо」(没日、生き埋め伝説の検証)
  • culture.ru「Какие крылатые выражения приписывают литераторам?」(「外套」の言葉の出どころ)
  • culture.ru(ツルゲーネフの拘禁と、ニコライ1世の「1か月の拘禁と郷里での監視」の命令)
  • 『貧しき人々』と「外套」:ast.ru「Бедные люди: краткое содержание, история создания, контекст」、ノヴォシビルスクの研究論文(Казаков, 2012)