ベンジャミン・ディズレーリ

ディズレーリ(別名:ディズレイリ)

Disraeli, Benjamin

1804年12月21日 – 1881年4月19日 (76歳没)

イギリス 政治家

ベンジャミン・ディズレーリの人物情報

イギリスの政治家、小説家である。ユダヤ系の家に生まれ、12歳で英国国教会の洗礼を受けた。若いころは投機の失敗で借金を抱え、小説を書いて暮らしを立てた。1837年に下院議員となり、保守党の指導者として自由党のグラッドストンと激しく争った。1868年と1874〜80年の2度、首相を務めている。2度目の政権では、スエズ運河会社の株を買い取り、ヴィクトリア女王に「インド女帝」の称号を贈った。1878年のベルリン会議ではロシアの南下を抑えた。

同時代の人物

1804年生まれの同い年には、フランスの作家ジョルジュ・サンド、『緋文字』のホーソン、第14代米大統領フランクリン・ピアースがいる。ホーソンとピアースは大学の同級生で、ホーソンは友人の選挙用の伝記を書き、その縁でリヴァプール領事として英国に渡った。作家と政治家がそろった同い年組だが、ディズレーリは1人で両方を兼ねていた。

5歳下の1809年には、生涯のライバルグラッドストンのほか、ダーウィン、テニソン、リンカーンが生まれた。ダーウィンが亡くなったのは、ディズレーリのちょうど1年後の1882年4月19日である。日本では、適塾の緒方洪庵が6歳下にあたる。

年齢で見る生涯

  • 20歳(1825年) 南米の鉱山株が暴落し、多額の借金を抱える
  • 21歳(1826年) 小説『ヴィヴィアン・グレイ』を匿名で出版
  • 25〜26歳(1830〜31年) 地中海と中東を旅する
  • 32歳(1837年) 下院議員に初当選。12月の初演説は野次にかき消され、「いつか私の話を聞く時が来る」と言って席に着いた
  • 34歳(1839年) 12歳上の未亡人メアリー・アンと結婚
  • 63歳(1868年) 初めて首相となる(約9か月)
  • 69〜75歳(1874〜80年) 2度目の首相。70歳でスエズ運河会社の株を買収し、73歳でベルリン会議に臨む
  • 76歳(1881年) ロンドンで死去

首相になったのは60代になってからである。20歳で背負った借金は、47歳で初めて財務大臣になったときもまだ片づいていなかったという。

人物のつながり

  • グラッドストン:1835年に晩餐会で初めて会った。後にグラッドストンは、そのときのことを聞かれて「異様な服装のほかは何の印象もない」と答えている。ディズレーリの死後は議会で追悼演説をしたが、葬儀には出なかった。
  • ヴィクトリア:ディズレーリを最も信頼した君主。1868年に首相を退くとき、ディズレーリは自分の爵位を求めず、女王に頼んで妻を子爵夫人にしてもらった。ディズレーリの死後、女王はヒューエンデンの墓に詣でている。
  • ビスマルク:1878年のベルリン会議の議長。会議を主導した英国の老首相について、「あの年寄りのユダヤ人、あれこそ本物だ」と評したと伝えられる。
  • バイロン:若いディズレーリが憧れた詩人。バイロンは1824年4月19日に亡くなっており、ディズレーリの命日と同じ日付である。

エピソード

昼のステッキと夜のステッキ(25歳・1830年)

療養を兼ねた地中海の旅の途中、ディズレーリはジブラルタルから父に手紙を書いた。ここの将校は朝はチョッキを着ないのが流行で、おかげで母上にもらったシャツの新しい飾りボタンがよく映える。「海峡をステッキ2本、朝用と夜用を持って越えたのは私が初めてだ」。号砲が鳴るたびに持ち替えて、カイロまで持っていくつもりだという。2週間後のカディスからは、自慢の巻き毛がかつらと間違われ、女性たちに引っぱらせて確かめさせていると書いた。しかもその髪が抜けはじめたので、こちらにはかぶれるかつらがない、と嘆いている。

バイロンを看取った従者(25歳・1830年)

マルタ島では、友人クレイの従者ジョヴァンニに出会った。通称ティータ。ヴェネツィアのゴンドラ漕ぎで、ギリシアでバイロンの最期を看取った人物である。ディズレーリは弟への手紙に「バイロンは彼の腕の中で死んだ。口ひげは地面に届き、子羊のようにおとなしいが、短剣を2本いつも身につけている」と書いた。ティータはそのまま旅に加わり、帰国後はディズレーリの父の家で16年仕えた。1832年、ディズレーリはバイロンの出版者マレーに、「亡き詩人とゆかりの深い」彼に会ってみないかと手紙を送っている。

妻が黙っていた馬車の扉(時期不詳)

大事な演説の日、メアリー・アンは夫を議会まで馬車で送った。降りた夫が扉を閉めたとき、彼女の手が挟まれた。それでも声を上げず、夫が建物の中へ消えるまで痛みをこらえ、それから従僕を呼んで扉を開けさせたという。知れば夫が演説に集中できなくなると考えたのである。歴史家フルードはこの話を「まったく確かなこと」と書いている。ナショナル・トラストによれば、後で事情を知ったディズレーリはこの扉をヒューエンデンの屋敷の壁に掛けさせた。扉はいまも使用人用の廊下で見ることができる。

出典・参考資料

  • Wikipedia「ベンジャミン・ディズレーリ」「メアリー・ディズレーリ」、Wikipedia(en)「Benjamin Disraeli」「Mary Anne Disraeli」「Nathaniel Hawthorne」
  • Ralph Disraeli編『Home Letters Written by the Late Earl of Beaconsfield in 1830 and 1831』(1885年):Letter III(ジブラルタル、1830年7月1日、父宛て)、Letter IV(カディス、1830年7月14日、父宛て)、Letter IX(マルタ、1830年、弟ラルフ宛て)、Letter XIV(カイロ、ティータの病気)。Internet Archive「homeletterswrit00disrgoog」
  • Samuel Smiles『A Publisher and His Friends: Memoir and Correspondence of the Late John Murray』(1891年)第31章(1832年7月5日付、ディズレーリのマレー宛て書簡)。lordbyron.org
  • National Trust Collections 428461「Giovanni Battista Falcieri (Tita)」(マクリース画の肖像の銘文、ヒューエンデン所蔵)
  • J. A. Froude『The Earl of Beaconsfield』(1890年。Project Gutenberg #48436)(馬車の扉、初演説、借金、妻の子爵夫人叙爵)
  • Elizabeth Lee『Wives of the Prime Ministers, 1844–1906』(1918年)第5章(馬車の扉)
  • National Trust「Places with great love stories」(ヒューエンデンの扉) https://www.nationaltrust.org.uk/visit/houses-buildings/places-with-great-love-stories