ジュゼッペ・マッツィーニ
マッツィーニ
Mazzini, Giuseppe
1805年6月22日 – 1872年3月10日 (66歳没)
ジュゼッペ・マッツィーニの人物情報
イタリアの革命家、思想家である。1805年、ジェノヴァの医師の家に生まれ、法学を学んだ。秘密結社カルボナリに加わって1830年に逮捕され、翌年フランスに亡命する。マルセイユで結社「青年イタリア」を作り、民衆の蜂起による共和制の統一イタリアを説いた。生涯の大半を亡命者として過ごし、とくにロンドンには1837年から30年近く拠点を置いた。1849年にはローマ共和国の三頭執政の一人となる。統一は王国の形で実現したため、共和主義を曲げなかった彼は新国家に受け入れられないまま、1872年、偽名で潜んでいたピサで没した。
同時代の人物
同じ1805年の4月に、デンマークの童話作家アンデルセンが生まれている。マッツィーニがロンドンで学校を開いた1841年11月、日本では蟄居中の渡辺崋山が自刃した。
イタリア統一の三傑と比べると、マッツィーニが最年長である。ガリバルディは2歳下、カヴールは5歳下だった。カヴールは統一の3か月足らず後に亡くなったが、マッツィーニはそれから11年近く生きた。
年齢で見る生涯
国会議員にも選ばれたが(1866年、メッシーナ)、王国の憲章への宣誓を拒んで議席に就かなかった。死刑判決を2度受けた人物が、統一後も最後まで「お尋ね者」のままだった。
人物のつながり
エピソード
路上で働く子どもたちの夜間学校(36歳・1841年)
1841年11月10日、マッツィーニはロンドンのハットン・ガーデン近く、グレヴィル通り5番地に無料の学校を開いた。当時のロンドンには、親方に連れられてイタリアの村から来て、街頭で楽器を鳴らしたり小物を売ったりする子どもが大勢いた。授業は働き終えた後に通えるよう夜に開き、教師は無給の亡命者たちが務めた。画家ロセッティの父ガブリエーレもその一人である。通う者は200人を超えた。学校は子どもを搾取する雇い主から守る法律も求めたが、反対派は「読み書き算数に、もう一つのR(革命)を教えている」とからかった。
「グレアム卿が開けたなら、封はし直さなくて結構」(38歳・1844年)
1844年3月1日、英内務大臣グレアムはオーストリアの求めに応じ、マッツィーニ宛ての手紙を郵便局で開封する令状を出した。手紙は写しを取られ、封をし直して届けられた。不審に思った仲間たちは、決まった折り方をしたり小さな粒を入れたりした手紙を送って確かめた。6月14日、マッツィーニらの請願が下院に出され、グレアムは令状の存在を認める。世論は沸き、ディケンズは自分の手紙の封の周りに冒頭の文句を書いて投函した。手紙の情報がオーストリアに渡り、翌月のバンディエラ兄弟の処刑につながったのではないかという疑いも残った。
遺体を「石」にしようとした科学者(66歳・1872年)
1872年2月、マッツィーニは「ジョルジョ・ブラウン」という英国人の偽名でピサの友人ロッセッリ家に潜み、3月10日に肺炎で亡くなった。翌日の未明、仲間たちは遺体を独自の方法で保存する科学者パオロ・ゴリーニに「すぐピサへ来て遺体を処置せよ」と電報を打つ。だがゴリーニが遺体を受け取ったときには60時間以上がたち、腐敗が進んでいた。一晩がかりの処置でどうにか腐敗を止め、作業はジェノヴァで数か月続いた。作家ドッシのメモによれば、移送中に棺が壊れる騒ぎまであった。遺体はいまもジェノヴァのスタリエーノ墓地に眠る。
出典・参考資料