ジュゼッペ・ガリバルディ
ガリバルディ
Garibaldi, Giuseppe
1807年7月4日 – 1882年6月2日 (74歳没)
ジュゼッペ・ガリバルディの人物情報
イタリアの軍人、革命家である。1807年、当時フランス領だったニースに生まれ、船乗りとして育った。マッツィーニの「青年イタリア」に加わって蜂起に関わり、死刑判決を受けて南米に亡命する。ブラジル南部やウルグアイの戦争で名を上げ、1849年にはローマ共和国の防衛を指揮した。1860年、赤シャツの義勇兵「千人隊」を率いてシチリアとナポリを制圧し、その地をヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に差し出してイタリア統一を大きく前進させた。晩年はサルデーニャ島北の小島カプレーラで農業を営み、同地で没した。
同時代の人物
1歳下のフランス皇帝ナポレオン3世は、1849年にローマ共和国を攻め落としたフランス軍を送った人物である。2歳下のリンカーンの政権は、1861年、ガリバルディに北軍の少将の地位を打診したが、話はまとまらなかった。日本では、適塾の緒方洪庵が3歳下である。
亡くなった1882年には、4月にダーウィンとエマーソンも世を去っている。
年齢で見る生涯
千人隊を率いたのは50代に入ってからだった。一方で、ろうそく工場で働いていたのは、そのわずか10年前である。
人物のつながり
エピソード
ろうそく作りに嫌気がさし、船員の職を探して全部断られる(43歳・1850〜51年)
ローマ共和国が倒れた後、ガリバルディはニューヨークに渡り、スタテン島で友人メウッチ(のちに電話の発明者の一人とされる人物)のろうそく工場で働いた。回想録によれば、ある雪の日、ろうそく作りに飽きた彼は船員になろうと港へ向かった。ところがどの船でも相手にされない。「賃金はいらない、寒さしのぎに働かせてくれ」と頼んでも断られた。モンテビデオで艦隊を率いた日々を思い出してしょげ返ったが、黙って獣脂の仕事に戻ったという。
ロバたちに宿敵の名前を付ける(50代・1860年代)
カプレーラ島のガリバルディは、ブドウの木を1万本以上植え、牛や羊を飼う本格的な農場主だった。彼の農業ノートには、隣人コリンズからもらったロバを「ピウス9世」と呼ぶと書かれている。ほかにオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフにちなむ「ドン・キーコ」、1849年にローマを攻めたフランスの将軍「ウディノ」、「ナポレオン3世」もいた。いずれも自分と戦った相手の名である。「無原罪の御宿り」という名のロバもいたと伝えられ、強い反教権ぶりがうかがえる。
「ポンペイウスのように、野天で焼いてくれ」(70〜74歳・1877〜82年)
ガリバルディは早くから火葬を望み、1877年に主治医へ宛てた手紙で細かい指示を残した。薪はカプレーラのアカシア、乳香樹、ギンバイカなどを高さ2mに積む。遺体は赤シャツを着せて鉄の寝台に載せ、灰は妻の灰と一緒に小さな花崗岩の壺に納める。1881年の遺言でも、妻に火葬を託した。しかし1882年に彼が亡くなると、クリスピらを交えた話し合いで遺体の保存が決まり、遺志は果たされなかった。遺体はいまも島の花崗岩の墓に眠っている。
出典・参考資料