エンヴェル・パシャ

エンヴェル・パシャ

エンヴェル・パシャ

Enver Pasha

1881年11月22日 – 1922年8月4日 (40歳没)

トルコ 武将・軍人

エンヴェル・パシャの人物情報

オスマン帝国末期の軍人、政治家である。統一と進歩委員会(青年トルコ人)の将校として1908年の革命で「自由の英雄」と呼ばれ、1913年の大宰相府襲撃で実権を握った。翌年32歳で陸軍大臣となり、タラート、ジェマルと並ぶ「三人のパシャ」の一人としてドイツ側での参戦を主導した。1914〜15年冬のサルカムシュの戦いでは、自ら率いた第3軍が壊滅した。1915年からのアルメニア人の強制移送と虐殺(犠牲者は60万〜120万人と推計される)では、政権の最高指導者の一人として責任を負う。敗戦後は国外に逃れ、軍法会議で欠席のまま死刑を宣告された。最後は中央アジアで反ソ勢力を率い、赤軍との戦闘で死んだ。

同時代の人物

同い年のケマル・アタチュルクは生涯のライバルだった。同じ1881年11月には、エンヴェルの6日後に作家のツヴァイクが生まれている。ロシアでは、1922年にエンヴェルが戦った赤軍を率いるトロツキーが2歳上にあたる。

エンヴェルが亡くなった1922年の夏には、日本で陸軍軍医総監を務めた森鴎外が26日前に、高峰譲吉が13日前に世を去った。電話のグラハム・ベルはわずか2日前だった。

年齢で見る生涯

  • 26歳(1908年) マケドニアの山に入って蜂起し、7月にセラーニク(現テッサロニキ)に凱旋。「自由の英雄」と呼ばれる
  • 29歳(1911年) イタリアが侵攻したリビアへエジプト経由で潜入し、ベンガジ周辺でゲリラ戦を指揮する
  • 31歳(1913年1月) 大宰相府を襲撃。陸軍大臣ナーズム・パシャが射殺され、大宰相に辞表を書かせた
  • 32歳(1914年) 陸軍大臣に就任。3月に皇女ナジエ・スルタンと結婚する
  • 33歳(1914年12月〜15年1月) 厳冬のサルカムシュでロシア軍を包囲しようとして失敗。約9万の兵の大半を凍死、戦死、病気などで失い、損失は6万人以上とされる。敗北をアルメニア人のせいにした
  • 33歳(1915年) アルメニア人兵士の武装解除(2月)に続き、強制移送と虐殺が始まる
  • 36歳(1918年11月) 敗戦でドイツの潜水艦に乗り、国外へ逃れる。翌年7月、軍法会議でタラート、ジェマルとともに欠席のまま死刑判決
  • 40歳(1922年8月4日) 現タジキスタンのバルジュヴァン近郊で、赤軍の奇襲を受けて戦死

陸軍大臣就任からサルカムシュの大敗まで1年足らず。30代前半の若者が帝国の命運を握っていた。

人物のつながり

  • ケマル・アタチュルク:同い年で、同じ革命の陣営から出た宿敵。1914年にエンヴェルが軍に導入した新文字(エピソード参照)を、ケマルは1918年に「戦争中に文字をいじっている時か」と批判した。10年後、そのケマルがラテン文字への切り替えを断行している。
  • ヴィルヘルム2世:エンヴェルは1909年からベルリン駐在武官を務め、1914年8月にはドイツとの秘密同盟を推し進めた。
  • レーニン:敗戦後、英国に対抗するためソビエト政権に近づき、1920年にモスクワに入った。翌年中央アジアへ送られたが、反ソのバスマチ勢力の側に回った。

エピソード

「15日で読み書きを」陸軍だけの文字改革(32歳・1914年)

1914年3月12日、エンヴェルは新しい表記法「陸軍アルファベット」を軍に導入した。アラビア文字をつなげずに一字ずつ離して書き、母音も字で表す方式で、「エンヴェル文字」とも呼ばれる。雑誌の取材には、読み書きのできない農民兵でも15日で読み書きできるようになると語った。5月には軍内の文書がすべて新文字になる。だが参謀少佐アリ・イフサン(サビス)の回想によれば、届いた文書を一目で読めず、一字ずつ拾い読みするはめになったという。8月の総動員の高揚のなか、彼が「動員中は新文字の命令を適用しない」という命令書を差し出すと、エンヴェルは異議を唱えずに署名した。試みは約5か月で終わった。

亡命先の浜辺から妻へ(39歳・1921年)

1921年9月1日、エンヴェルは黒海東岸のバトゥミからベルリンの妻に手紙を書いた。アナトリアへ戻る機会をうかがっていたころである。雨のなか、人けのない浜辺を歩いた。道で生後2か月ほどの白い子犬を見かけ、形見に送ろうかと考えたが、「生きられるだろうか」とためらっている。その日は床に就いて、大戦中にオスマン軍を指揮したドイツの将軍リーマン・フォン・ザンデルスの回想録を読んだ。手柄はドイツ人のもの、失敗はトルコ人指揮官のせいにしていると憤り、「まったく恥知らずな男だ」と書きつけた。

楡の木に刻んだ妻の名(40歳・1922年)

妻ナジエ・スルタンは、スルタン・アブデュルメジト1世の孫にあたる皇女である。エンヴェルが彼女に宛てた手紙は417通残っている。「わが天使」「シュガー、わが魂」などと呼びかけ、返事が来ないと「残酷だ」と嘆いた。赤軍に追われていた1922年7月25日の手紙は「あなたにキスし、愛し、抱きしめる」で始まり、「楡の木にナイフであなたの名を刻んだ」で終わる。長く最後の手紙とされてきたが、実はその後にもう1通ある。8月4日の戦死の後、遺品として妻のもとに届いた子どもたちの写真には、夫の血の跡が残っていたと、妻は回想している。

出典・参考資料

  • TDV İslâm Ansiklopedisi「Enver Paşa」、Wikipedia(tr)「Bâb-ı Âli Baskını」、Wikipedia(en)「Battle of Sarikamish」「Armenian genocide」「Istanbul trials of 1919–1920」「Naciye Sultan」、Wikipedia(ru)「Энвер-паша」、United States Holocaust Memorial Museum, Holocaust Encyclopedia「The Armenian Genocide (1915–16): Overview」(犠牲者数)
  • Senem Civgin「Enver Paşa ve Askeri Alandaki Reform Faaliyetleri (1914-1918)」『Hazine-i Evrak Arşiv ve Tarih Araştırmaları Dergisi』5号、2023年(İçtihad 誌のインタビュー、Ali İhsan Sabis の回想、Tanin 紙を引用) https://dergipark.org.tr/tr/pub/hed/article/1386081
  • Wikipedia(tr)「Hurûf-ı munfasıla」(Ruşen Eşref Ünaydın『Hatıralar』1956年、28〜29頁を引用。ケマルの批判)
  • Murat Bardakçı「Dost bildiğimiz Almanlar ne edepsiz adamlarmış」Hürriyet(1921年9月1日付バトゥミ発の書簡) https://www.hurriyet.com.tr/yazarlar/murat-bardakci/dost-bildigimiz-almanlar-ne-edepsiz-adamlarmis-332359
  • Erhan Afyoncu「İmparatorluğun çöküşünün ve büyük aşkın belgeleri」Sabah、2016年4月10日(Murat Bardakçı『Nâciyem, Ruhum Efendim』İş Bankası Kültür Yayınları の紹介) https://www.sabah.com.tr/yazarlar/erhan-afyoncu/2016/04/10/imparatorlugun-cokusunun-ve-buyuk-askin-belgeleri
  • Enver Kabul「Enver Pasha in Naciye Sultan's Memoirs」STRASAM、2024年8月5日(1952年に Vatan 紙に載ったナジエ・スルタンの回想を紹介) https://strasam.org/en/history/turkish-history/enver-pasha-in-naciye-sultans-memoirs-3429