アウンサン

アウンサン

アウンサン

Aung San

1915年2月13日 – 1947年7月19日 (32歳没)

ミャンマー 武将・軍人

アウンサンの人物情報

ビルマ(ミャンマー)の独立運動の指導者で、「建国の父」と呼ばれる軍人・政治家。学生運動の指導者から、日本の「南機関」の支援で「三十人の志士」を率いる軍人となり、1941年末にビルマ独立義勇軍(BIA)を結成して日本軍とともにビルマに入った。日本の支配が名ばかりの独立にすぎないと見ると、1945年3月に抗日蜂起を指揮して連合国側に移る。戦後はイギリスから1年以内の独立の約束を取りつけたが、独立の半年前の1947年7月19日、閣僚らとともに暗殺された。32歳だった。

同時代の人物

アウンサンが生まれた1915年には、ピアニストのリヒテルと劇作家のアーサー・ミラーが生まれている。

2歳下の1917年生まれには、ジョン・F・ケネディと韓国の朴正煕がいる。朴正煕は日本式の軍事教育を受けた軍人から国の指導者になった点でもアウンサンと重なる。3人とも暗殺で生涯を終えた。

日本では、1913年生まれの作家織田作之助が、アウンサンと同じ1947年の1月に33歳で亡くなっている。

ビルマの政治家では、ウー・ヌーが約8歳上、ウ・タントが6歳上である。

年齢で見る生涯

  • 23歳(1938年10月) 民族主義団体「我らビルマ人協会」(タキン党)に入る
  • 25歳(1940年) 8月に中国へ密出国。11月に日本へ渡り、鈴木敬司大佐から「面田紋次」の日本名を与えられる
  • 26歳(1941年) 4月から海南島で「三十人の志士」の軍事訓練。12月28日、バンコクでビルマ独立義勇軍(BIA)を結成
  • 27歳(1942年) BIAが日本軍とともにビルマに入る。デルタのミャウンミャ地方ではBIAの進駐をきっかけにカレン人との衝突が起き、約5,000人が死亡した。9月、看護師キンチーと結婚
  • 28歳(1943年8月) 日本の後押しで「独立」したビルマ国で国防相に就く
  • 30歳(1945年3月27日) 抗日蜂起を指揮し、日本軍に銃を向ける
  • 31歳(1947年) 1月27日、ロンドンでアトリー首相と協定を結び、1年以内の独立の約束を取りつける。2月12日、シャン、カチン、チンの代表とパンロン協定に調印。32歳の誕生日の前日だった
  • 32歳(1947年7月19日) 会議中の閣僚会議室で武装した男たちに銃撃され、閣僚ら8人とともに死去

日本に渡ってから暗殺されるまで、わずか7年である。日本と組み、日本と戦い、イギリスと交渉するという大転換を、20代後半から30代初めのうちに重ねた。

人物のつながり

  • ウー・ヌー:1936年の学生ストライキをともに戦った先輩。アウンサンの死後、1948年に独立したビルマの初代首相となった。
  • クレメント・アトリー:32歳年上のイギリス首相。1947年1月の「アウンサン=アトリー協定」で、1年以内の独立を約束した。
  • ジャワハルラール・ネルー:25歳年上。学生時代に初めて会い、1947年のロンドン行きの前にはデリーの自宅に迎えた(エピソード参照)。
  • 鈴木敬司:日本の陸軍大佐で南機関の長。アウンサンを日本に招き、郷里の浜松にかくまった。
  • ウー・ソオ:戦前の首相。アウンサン暗殺を指示したとして逮捕され、1948年5月8日に処刑された。

エピソード

「地獄の犬」の筆者を明かさなかった編集長(20〜21歳・1936年)

アウンサンは大学で学生同盟の機関誌『オウェイ(孔雀の鳴き声)』の編集長を務めていた。1936年1月号に、大学の幹部を批判する英文記事「Hell Hound at Large(地獄の犬が野放しだ)」が「ヤマ・ミン(閻魔王)」という筆名で載る。大学当局は筆者の名を明かすよう迫ったが、アウンサンは拒み、処分するなら自分を、と答えたと伝えられる。結局、彼は退学処分を受けた。同じころウー・ヌーも学長批判で退学となり、学生たちはシュエダゴン・パゴダに集まってストライキに入る。約2か月半後、大学側が折れて処分は取り消された。

日本軍の軍服で英軍司令官に会う(30歳・1945年)

1945年5月16日、アウンサンはメイッティーラでイギリス第14軍のスリム中将と初めて会った。日本軍の少将とほぼ同じ軍服に軍刀を下げた姿は、英軍の幕僚たちを驚かせた。スリムの回想録によれば、アウンサンは「ビルマ臨時政府の代表」として強気に出た。スリムが「われわれが勝っているから来たのだろう」と言うと、アウンサンは「勝っていない側に来ても仕方ないでしょう」と返した。「ここへ来るのは危険だと思わないのか」と問われると、「思いません。あなたはイギリスの将校だから」と答えたという。スリムは、彼から受けた何よりの印象は誠実さだったと書いている。

ネルーが用意した英軍の外套(31歳・1947年)

1947年1月、独立交渉のためロンドンへ向かう途中、アウンサンはデリーのネルー邸に立ち寄った。着ていたのは、薄い木綿の人民義勇軍(PVO)の軍服である。娘スー・チーの講演によれば、その冬のイギリスは記録的な寒さで、ネルーはすぐに暖かい生地の軍服を2着仕立てさせた。外套は採寸して作る時間がなかったため、イギリス陸軍の支給品を手に入れて持たせた。首相官邸の庭で撮られたこの外套姿の写真は、いまも彼の最もよく知られた肖像である。独立を求める相手の国の軍用外套を着て、交渉の席に臨んだことになる。

出典・参考資料

  • Wikipedia「アウンサン」「南機関」「ラングーン大学第二次学生ストライキ」「朴正煕」、Wikipedia(en)「Aung San」「Oway」「Khin Kyi」、ဝီကီပီးဒီးယား「အောင်ဆန်း」(ビルマ語版Wikipedia)、DVB(ビルマ語)「ဗိုလ်ချုပ်အောင်ဆန်း၏ သက္ကရာဇ်များ」 https://burmese.dvb.no/post/81094 、池田一人「日本占領期ビルマにおけるミャウンミャ事件とカレン」『東南アジア―歴史と文化―』34号(2005年) https://www.jstage.jst.go.jp/article/sea1971/2005/34/2005_34_40/_article/-char/ja/
  • DVB(ビルマ語)年表(『オウェイ』記事による退学、1942年9月の結婚、1947年7月13日の最後の演説など)
  • Wikipedia(en)「Oway」、Wikipedia「ラングーン大学第二次学生ストライキ」(記事の号数、筆名、ストの経過)
  • William Slim『Defeat into Victory』(1956年)。New Mandala「Burma in Limbo, Part 3」 https://www.newmandala.org/burma-in-limbo-part-3/ の引用で確認
  • Thant Myint-U『The River of Lost Footsteps』(2006年。「Because you are a British officer」のやりとり)
  • Maung Maung『Aung San of Burma』(1962年)、Louis Allen『The End of the War in Asia』(1976年)、Russell Miller『Uncle Bill』(2013年)。いずれも Google Books の検索結果で「wouldn't be much good coming to you if you weren't」の一文を確認
  • Pandaw「Fire over Burma: Field Marshal Slim's classic WWII memoir」(スリムの「誠実さ」の評)
  • Aung San Suu Kyi「Jawaharlal Nehru Memorial Lecture」(2012年11月14日、ニューデリー)。Outlook India「'The Discovery Of Nehru Was Also A Discovery Of Myself'」 https://www.outlookindia.com/national/the-discovery-of-nehru-was-also-a-discovery-of-myself-news-282997 に掲載
  • Rajiv Bhatia『India–Myanmar Relations』(2015年)、Michael Peel『The Fabulists』(2019年)(外套がネルーの贈り物であること。Google Books の検索結果で確認)