ウ・タント
ウタント
U Thant
1909年1月22日 – 1974年11月25日 (65歳没)
ウ・タントの人物情報
ビルマ(ミャンマー)の教育者・外交官で、第3代国連事務総長(在任1961〜71年)。イラワジ・デルタの町パンタナウに生まれ、20代で地元の国民高校の校長になった。大学時代からの親友ウー・ヌーが独立後の首相になると政府に入り、放送局長や首相の秘書官を経て、1957年に国連大使となる。1961年、ハマーショルド事務総長の事故死を受けて事務総長代理に就き、アジア出身者として初めて国連事務局の長となった。キューバ危機の調停やコンゴ動乱の収拾にあたり、ベトナム戦争の和平も探った。1974年、ニューヨークで死去。
同時代の人物
タントが生まれた1909年は、日本では昭和の作家が集中して生まれた年である。太宰治、松本清張、そして中島敦が同い年にあたる。中島が横浜の女学校で国語と英語を教えていた1930年代、タントはビルマの田舎町で校長を務め、「ティラワ」の筆名で新聞や雑誌に文章を書いていた。同い年の2人の教師は、片や33歳で世を去り、片や国連のトップになった。
アメリカのリンドン・ジョンソンは5か月年上で、のちにベトナム戦争をめぐって向き合う相手になる。
年齢で見る生涯
田舎町の校長だった人が、50代のほぼすべてを国連事務総長として過ごした。在任は10年あまりに及ぶ。
人物のつながり
エピソード
「ああ、家が!」「ああ、本が!」(39〜40歳・1949年)
独立直後のビルマでは、カレン人の武装蜂起が始まっていた。政府の高官になっていたタントは、命の危険を冒してカレン側の拠点に出向き、和平を説いたが実らなかった。1949年、首都ラングーンへ迫った反乱軍は途中でパンタナウを焼き払い、タントの家も一族の財産も失われた。伝記作家ジューン・ビンガムによれば、知らせを受けた妻が「ああ、私の家が!」と嘆くと、タントは「ああ、私の本が!」と応じたという。
瞑想を休んだただ一度の朝(58歳・1967年)
タントは毎朝6時ごろに瞑想をするのを日課にしていた。回想録『国連からの眺め』によれば、1967年6月5日の午前3時、事務次長ラルフ・バンチから第三次中東戦争の勃発を告げる電話が入る。タントは3時45分に家を出た。記憶にある限り初めて、朝の瞑想をせずに出かけたという。職員はその物静かさから彼を「青銅の仏陀」と呼んだが、本人は胃潰瘍に悩んだ。医師たちからは、たまには「爆発」するよう勧められていたと伝えられる。
棺を奪った学生たち(没後・1974年)
タントの遺体は1974年12月1日にラングーンへ戻ったが、空港には儀仗兵の姿もなく、出迎えた政府の要人は副大臣1人だけで、その副大臣はのちに解任された。軍事政権は国葬を認めず、一般の墓地に葬ろうとした。12月5日、競馬場で開かれた告別の場から学生たちが棺を引き取り、大学へ運ぶ。8日には、1962年のクーデターの後に軍が爆破した学生会館の跡地に棺を葬り、霊廟を建てて守った。11日午前2時、軍と警察が大学に突入して棺を運び去り、シュエダゴン・パゴダのふもとに埋葬した。抗議は市内の暴動に広がり、ラングーンには戒厳令が敷かれた。死者の数は、公式の数字でも資料によって9人と18人に分かれ、学生側は100人を超えたと主張している。逮捕者は政府発表で2,887人にのぼった。
出典・参考資料