中島敦

中島敦

ナカジマアツシ

Nakajima, Atsushi

1909年5月5日 – 1942年12月4日 (33歳没)

日本 作家

中島敦の人物情報

日本の作家。1909年(明治42年)東京で漢文教師の子として生まれる。1933年東京帝国大学国文学科を卒業後、高等女学校の国語・英語教師となる。18歳頃から患っていた喘息のため、1941年に退職し、療養を兼ねてパラオ南洋庁に書記として赴任した。1942年『光と風と夢』で芥川賞候補となるが、その数ヵ月後に喘息を悪化させ33歳で夭折した。
中国古典を題材にした漢文調の格調高い文章の作品を残している。作品の多くは死後に発表された。代表作は他に『古譚』『李陵』『山月記』『名人伝』など。

同時代の人物

1909年は、昭和の文学を担う作家が集中して生まれた年だ。

ジャンルの外では、写真家の土門拳、経営学者のドラッカーも同じ年の生まれである。

中島が33歳で亡くなった1942年、清張と大岡昇平はまだ作家としてデビューしていない。同い年の4人の作家人生は、始まった時期も長さも大きく違った。

年齢で見る生涯

  • 32歳(1941年) 喘息の療養を兼ねてパラオの南洋庁に赴任
  • 32歳(1942年2月) 「山月記」「文字禍」が「古譚」の題で『文學界』に載り、作家として世に出る
  • 33歳(1942年) 『光と風と夢』が芥川賞候補になる。同じ年の12月に死去
  • 没後(1943年) 「李陵」が発表される

同い年の作家が作家として世に出た時期を並べると、次のとおり。

  • 太宰治:20代半ばから注目された
  • 中島敦:32歳
  • 大岡昇平:39歳。捕虜体験を描いた『俘虜記』(1948年)
  • 松本清張:40代に入ってから。「西郷札」(1951年)

中島は、作家として活動した期間が1年に満たないまま亡くなった。

人物のつながり

  • 深田久弥:中島は毎週土曜に深田を訪ね、作品を批評してもらっていた。パラオへ発つ前に原稿を託しており、これが「古譚」の掲載につながった。
  • 太宰治:同い年の作家で、ともに芥川賞の候補にとどまり、受賞はしなかった。

エピソード

「トンちゃん先生」と呼ばれた女学校教師(24〜31歳・1933〜41年)

中島は8年間、横浜高等女学校で国語と英語を教えた。教え子の回想によれば、生徒からは「トンちゃん先生」や、住まいがガスタンクの近くだったことから「ガスタンクのあっちゃん」と呼ばれて親しまれた。やせて体が弱く、ある女生徒は手作りのブタのぬいぐるみに「もっと肥って丈夫になってください」と添えて贈ったという。それでいて中華料理店で天ぷらを13も平らげたと伝わる大食漢でもあった。

生徒から預かったカメレオン(26歳・1935年)

1935年10月、中島は女生徒から一匹のカメレオンを預かった。懸命に世話をしたものの次第に弱り、預け先の動物園で死んでしまう。この出来事は、小説「かめれおん日記」の冒頭場面にそのまま生かされている。

パラオから幼い息子たちへ81通の手紙(32歳・1941〜42年)

パラオに赴任していた約8か月の間に、中島は8歳の長男と1歳の次男に宛てて81通もの手紙を送った。妻宛ての崩し字とは違い、長男宛ての手紙はカタカナやひらがなを一字一字ていねいに書いている。「いるかはとてもふざけんぼですよ」と南洋の生き物を紹介したり、バナナの実り方を絵入りで説明したりした。手紙は神奈川近代文学館に残されている。

「書きたい、書きたい」(33歳・1942年)

パラオで喘息が悪化し、帰国した年の冬に倒れた。妻タカによれば、書くこともできなくなった中島は「書きたい、書きたい」と涙をためて言ったという。

出典・参考資料

  • Wikipedia「中島敦」「松本清張」「大岡昇平」
  • 中島敦の会「横浜高女の敦先生 教師・中島敦エピソード集」(卒業生・同僚の回想をまとめたもの)
  • 神奈川近代文学館「中島敦の手紙展――おとうちゃんからの贈り物」(2025年)
  • 中島タカ「お禮にかへて」(中島敦全集月報)